斎藤篇(前)/5
嬉しい。 剣心はそう思った。 そんな言葉を自分にくれる彼女を。 愛おしいと。 「ああ、そうだね・・・君も俺の・・・」 終わりの方は、ただ吐息だけの言葉になって。 剣心は左手を巴の髪に滑り込ませると、そのまま彼女を引き寄せて 口づけた。 最初は軽く啄むように。 やがて強く重ねると、舌がするりと入り込む。 「・・・ふっ」 巴はとん、とふたりの身体の間で動かしづらい 右手で、剣心の肩辺りを叩いた。 不機嫌そうに剣心が唇を離すと、巴は濡れた唇から 荒い息を吐く。 「こ、ら・・・ダメですよ」 「どうして?」 「まだ朝で、こんなに陽が明るいのに」 剣心は困ったような、怒ったような表情で 口を尖らせた。 「関係、ないと思うけど?」 「・・・大いにあります。 わたしは食事の後片づけやら掃除やら買い物やら。 たくさんの予定が入ってますから」 にこりと微笑んで、巴はこれから為すべき作業を 指折り数えて挙げて見せた。 「今日やらないといけないのか?」 いつまでも口を尖らせてはいないが、 剣心は拗ねたように眉間に皺を寄せる。 にこ。 珍しく笑顔の大安売りで巴が答えた。 「この間から決めてたんです、あなたが ご自分をわざわざ危険な立場に追い込んだ“事件”のことを ・・・切り出したらって」 「え?」 す、と巴が立ち上がり、帯の形を整える。 小さく動く、細くて白い首筋を、ぼんやりと剣心は見上げた。 さらさらと、零れた髪を背へと流して。 やがて巴がその視線に向き合う。 「しばらく、おあずけ、ですから」 「――――――は?」 数瞬の後、剣心はやや裏返った声をうっかり発してしまった。 (おあずけ?) (それって・・・それって・・・) くるりと巴は踵を返し。 いそいそと後片づけを始める。 「と・・・・・もえ・・・さん?」 「聞こえません」 「とーもーえーさーん」 「聞こえません」 おそらく二、三日はほんのちょっぴり味付けの辛い料理が 並べられて。 おそらく普通の会話とかはしてくれるけれど、 いざって時にはするりとかわされて。 おそらく普段通り優しくて、気が利くのに、 肝心なところで・・・はぐらかされる。 (―――怖い) さあ、と血の気が引く音が、したような気がした。 ■次へ ■『東京日記』目次へ戻る TOPへ |