蒼紫篇(後)/2
瞬間、息を継ぐのを忘れた。 おそらく、現在剣心にとって最も恐るべき相手。 そして最も手強い―――――― 想定しなかったわけではない。 しかし当の本人がここに現れるのは、かなり低い確率と見ていた。 巴はもう一度こくりと唾を飲み込んだ。 表情には出せない、気取られてはいけない。 ・・・抜刀斎の妻、として。 「しのもり、あおし」 巴はなぞらうようにゆっくりと名前を呼んだ。 蒼紫と名乗った人物は巴の背後から動かない。 巴の視線が床から細い柱へ移り、薄暗い闇の中を探る。 そして白っぽい外套(マント)を羽織った、背の高い男の姿を 認めるとすい、と顔を上げた。 蒼紫はただ、静かに其処に立っている。 般若に調べさせた抜刀斎の、妻。 抜刀斎の、選んだ、女。 「・・・名は」 「巴」 「抜刀斎の連れというのは本当なのか」 「そうだ、といえばどうなさるのですか?」 蒼紫はその手に何の武器も持ってはいない。 しかし一瞬で腰の刀で巴を斬り殺すことなぞ、造作もないだろう。 それを巴が解っていることも、蒼紫は知っている。 だからこそ。 蒼紫はこの女の自分への挑戦的な瞳の色を不思議に思った。 (さすが、と云うべきか) 暗がりにくっきりと浮かぶ白い貌の輪郭。 紅い唇。 何よりも強い輝きを放つ、漆黒の瞳。 圧倒的な敵を前にして揺るがぬ“何か”を持っている人間に会ったのは、 どのくらいぶりだろうか? (だが) これも仕事だ。 あの抜刀斎を相手にするのなら、どんな手を使っても・・・・・・ 「わたしを、斬りますか?」 またしても先に口を開いたのは巴だった。 「予定では人質になってもらうつもりらしいが」 明け透けに蒼紫が返す。 「それは、困ります」 「・・・困るなら、何故こんな処に居る? どこか山奥の寒村にでも身を潜めていれば、抜刀斎も心置きなく 俺たちに介入出来るだろうに」 「―――わたしたちは、ふたりでやっと一人前ですから」 蒼紫は片眉を微かに顰めた。 「おもしろいことを云う」 ■次へ ■『東京日記』目次へ戻る TOPへ |