天空まで届くかと思われるような炎の柱。
崩れ落ちてゆく豪奢な建築物。
熱流が渦巻くその中で。
剣心と比古は対峙していた。



「・・・裏切るのか?」
比古の唇から、ぽつりと。
短くて重い言葉。
「すみません・・・こればかりは、譲れません」
「たかが女ひとりの為に、全てを捨てるか」
「し、しょう・・・」

己の師の、こんなに困惑した顔は初めて見た。
こんなに哀しそうな表情(かお)も、初めて、だった。
それでも。
それでも、剣心は。
彼を、郷(さと)を。
振り切っていかねばならない。

ごおおぉん・・・

熱い風の刃が、頬を切るかのようだ。
急がなければ、ここも崩れ落ちる。
剣心は腰に下げていた剣を握り締めた。
「師匠、このまま行かせてください」
比古はふん、と鼻を鳴らして笑う。
「馬鹿か、てめぇは」
すらりと背にあった長剣を比古は抜いた。
「俺は“白の龍”だ。
 龍の郷(さと)を守る者だ。
 姫の命(めい)を違えるわけには、いかんな」

普段から規律という規律は守らないくせに。
肝心要のところでいつも融通が利かない。
師匠の変わらない姿勢に、剣心は安堵して、そして嘆く。
抜刀の構えを取って、剣心は再度懇願した。
無駄だと、解っていながら。

「行かせて、ください、師匠。
 巴と、俺を      



最早返答はなかった。





俗に“龍の民”と呼ばれる人々は元々大国“沙(すな)”で生を受けた。
しかし持って生まれた特殊能力のために国を追われ、遥か辺境の地に 郷(さと)を築き、細々と暮らしていたのだ。
沙はそれを暗黙の了承としていた。
何故なら沙が恐れるべき特殊能力を持った、いわゆる“龍”と呼ばれる 子どもの出生率はけして高くはなく。
むしろ、低かったからだ。

それがある日突然。
長い間の沈黙を破り捨て去るかのように。
沙の国は、龍の郷を滅ぼすべく軍隊を動かした。
それが、発端だった。





「あ・・・つぅ・・・!」
身体中を貫く痛み。
しばらくは指一本動かせないだろう。
意識は、浮上しては沈みを繰り返し。
ぼんやりとした視界は、まだ夜の帳が下りてきてはいないことを 確認するのみだった。
不意にやや高めの声が鼓膜に響く。
   随分ひどい怪我だな」
誰だ?
子どもの、声か?
「その傷で激流を乗り越えて生きてるなんて。
 さすが“紅い龍”と呼ばれるわけだ」
「俺を、知ってる、のか・・・?」
「あれ?しゃべれるの?」
「と・・・・・・ぇ、は・・・」
      ・・・」

ざくざくと草や小石を踏む音がした。
剣心は、会話していた子どもが遠のいてゆくのを感じる。
(放っておかれたか?)
(それとも)
(人を呼びに行ったのか?)
けれど、そんなことは彼にとってはどうでもよかった。
それよりも。

(巴・・・)

彼女が、居ない。
守ることが出来なかった。

(くそっ!)
動け、動け、動け!
必死に鉛のような身体を叱咤するが、僅かに肩が浮いただけ。
開いた目の先に、真っ赤に染まった己の衣服。
(・・・俺の、血か?)
(それとも師匠の・・・?)
ぎり、と唇を噛む。
ぷつんと音がして血の味が口腔に拡がった。
(俺、は・・・)

なんて事を。
取り返しのつかないことを。
罪深いことを。
赦されない、事を。



「巴・・・」



掠れた声は、僅かに空気を震わせ。
それきり剣心の意識は途絶えた。





「そうか、比古が・・・“白き龍”が斃(たお)れたか」
蒼紫は切れ長の瞳を伏せた。
彼の目の前に跪く数人の男達は、頭(こうべ)を垂れたまま 更に報告を続ける。
「我々は比古殿と剣心殿が戦っている隙に乗じて、 巴皇女(おうじょ)を連れ去るのが精一杯でした」
「剣心の行方は?」
「わかりませぬ。
 建物の崩壊と共にお二方とも濁流に呑まれ。
 比古殿の遺体しか確認出来ませんでした」
蒼紫はゆっくりと目蓋を開けると、片手を挙げて「下がれ」と 告げた。
男達が居なくなった質素な広間は、しん、と静まりかえる。
じっと身動ぎせずに考え込む蒼紫の耳に、 さらさらと衣擦れの音が届いた。

「比古が、やられたの?」
長い髪を朱色の着物に広げて、少女と呼んでも良いくらいの女性が 蒼紫の背後に佇む。
「・・・薫姫」
恭(うやうや)しく礼をする蒼紫に、薫は一瞥を投げるだけだ。
「で、剣心は・・・逃がしたのね?」
「は、しかし生きていても相当な深手を負っております故・・・」
「いい訳は要らない!」
きゅっと淡い色の唇を噛みしめ、薫は己より遥かに 背の高い蒼紫を見上げた。

「必ず・・・必ず剣心を捕らえて此処へ連れてきなさい!
 比古を犠牲にしたのよ・・・手段は選ばないわ!」
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