チチチ、と草叢(くさむら)の虫が鳴く。
すっかりおとなしくなった女が、その音にぴくりと 肩を揺らした。
背中越しに女が何か見つめているのがわかる。
「・・・あれをちょうだい」
「え?」
剣心はよく聞き取れずに戸惑った。
女がまだ濡れている腕を伸ばして、ある一点を指している。
「あの、花を、ちょうだい」
抑揚のない声。
けれど何処かに渇望を滲ませて。
「花・・・?」
剣心は振り返って、脇の草叢を見遣った。
暗闇の中にうっすら浮かび上がる、紫色。
ああ、こんな処に小さな花が群生している。
奇妙な感慨を覚えながら「いいですよ」と剣心は 頷くと女をそっと肩から下ろした。
彼女はすっかり落ち着いた風情だったので、もう 無理に担ぐこともないだろうと判断したのだが、 案の定彼女はしっかりと自分の足で大地を踏みしめている。
ざざっと草を掻き分けて、剣心はその紫の花の群生に近づいた。
たおやかな花を壊さないように、そっと数本手折る。
花弁に無数にある油点が、なにかの模様に似ていた。
(なんだっけ・・・?)
女の元に戻り、その右手を取ってそっと握らせる。
すると紙のように真っ白だった女の頬が微かに赤みを増した。
「これで、いいですか?」
      ありがと」
きゅっと痩せ細った指が花の茎を優しく握り締める。
「・・・さあ、帰りましょう」
女の何かしら嬉しげな様子にほっとして。
剣心は空いた彼女の左手を握り締めた。
そうすると女が安心したかのように握り返してくる。
小さくて、細くて、がさがさとしていて。
もしかしたら自分の母親もこんな指をしていたかもしれない、と 剣心はぼんやり思う。
働いて働いて、子どもを育て上げる“指”。
ふたりは再び川土手を歩き出した。
さやさやと吹く風が、濡れた髪を玩んで少し寒い。

「これはねぇ、『杜鵑草』っていう花なの。
 ほら、この花弁が鳥の胸羽根にそっくりでしょう?」
「ああ・・・不如帰(ほととぎす)の模様だったんですね」
何かに似ていると思ったら、鋭い鳴き声を持つ夏鳥の胸の模様だ。
剣心は得心がいったように頷いた。
女はふふふ、と小さく笑うと虚ろな目をした。
「あの鳥さんはねえ、卵を他の鳥の巣に産むのよ。
 ・・・本当の卵は巣から落とされて。
 ニセモノのコドモを親鳥は育てる」
「あ      .」
ふふふ、と女はまだ笑っている。
「なあーんにも知らないで、互いを親子とか思うのかしら?
 なあーんにもなあーんにもわからずに」
ふふふ、ふふふ。
「それでも、ともに居られれば幸せだと思うのかしら?」
ふふふ、ふふふ。
「・・・あ、この花少しあげる。
 お礼」
剣心はまだ笑い続ける彼女から、一本受け取った。
「花言葉はねえ」
ふふふ、ふふふ。

   『永遠にあなたの、もの』」

剣心は彼女の笑いから顔を背けるように視線をそらした。
もやもやとした気持ちの悪い塊(かたまり)を、飲み下せないかのように 喉がひくつく。
・・・彼女の意味する『あなた』は誰なのだろうか?
斬り殺された夫?
引き離された息子?
殺されてしまった娘?
それとも自分を縛り付けているこの世界?

そう考えた時 ざわり、と何かかが剣心の首筋を撫であげる。
女はさも楽しそうに笑いながら。
剣心に引かれるまま、歩いている。
(俺は何か)
(何か大事なことを“視て”ないんじゃ、ないか?)
ふ、と脳裏に淋しげな瞳の巴が浮かんだ。
(何か)
(何かが)
(狂ってる、のに・・・)











「まあ、好きにするさ」
自分を真っ直ぐに射抜く巴の視線に、まるで 降参するかのように飯塚は両手を挙げた。
「俺は俺の仕事をすればいいんだし?
 ・・・巴ちゃんは巴ちゃんの仕事をするだけだ」
「ええ、わかっています」
巴は凛とした声で応える。
やれやれ、と呆れたかのように飯塚は鼻息を吐いた。
「ま、ぶっちゃけ巴ちゃんが失敗しても俺は構わないわけよ。
 要は自分が甘い汁を吸いたいだけだからな」
「ちゃんとやってみせます。
 抜刀斎は   仇、ですから。
 だからもう、わたしたちに拘(かか)わらないでください」
「へえ、んじゃお手並み拝見といきますか」
「・・・・・・」

おおこわ。
そんなきつく睨まなくても。
飯塚は心の中で毒づきながら、へらへらと笑って見せた。
お嬢ちゃん。
あんたはわかっているのかい?
抜刀斎を自分だけの仇と宣言する、その本当の理由を。
ああ、まるで抜刀斎は自分だけのものだと。
誰も彼に手を出すなと。
自分だけが彼に触れて良いのだと。
   そう、云ってるんだぜ?
全く純なこった。
おまえたちは揃いも揃って。

とその時、微かな足音を飯塚の耳が拾った。
彼は人並み外れて耳が良い。
それは彼の処世を助けてもいる。
(帰ってきたな・・・)
飯塚はもう一度へらっと笑うと巴に右手をひらひらさせた。
「さてと、酒も呑みたくなったし俺はとんずらさせてもらう。
 わかっちゃいると思うが、抜刀斎には俺のことは内緒な?」
「・・・ええ」
飯塚は背中を見せたかと思うとするりとまた夜の闇に溶け込んだ。
巴は冷静さを装ってそれを見届けたが、 背にはまだ冷たい汗が伝っている。
(喰えない・・・男)
さんざん自分たちを引っ掻き回して、遊びに飽きると去ってゆく。
「・・・しっかりしないと」
巴は大きく息を吐くと両の目蓋を閉じた。
(わたしの目的)
(わたしの、ほんとう)
狂女の夫を斬ったのが誰なのか。
それはけして彼には知らせない。
そんな事実は自分の邪魔になるだけ、だから。
(そう)
彼は、自分へ犯した罪に対してだけ。
   裁かれれば、いい。



「巴さん・・・?」
不意に声をかけられて、巴ははっと顔を上げた。
いつの間にか剣心が、探していた女と一緒に巴の前に立っている。
女はにこにこと笑いながら、右手に赤紫色の花を握っていた。
「巴さん、こんなところで待っていてくれたのか?」
「え、ええ・・・心配になって」
剣心はそれを聞いた途端、はにかむように微笑(わら)う。
「ごめん、もっと早く戻りたかったんだけど」
「・・・いいんです。
 まあずぶ濡れじゃないですか・・・何かありましたか?」
剣心はそう問われて、戸惑ったように狂女を振り向いた。
「うん・・・ちょっといろいろあった、かな」
巴は窺うように剣心の表情を見た。
複雑な顔をしてはいるが、巴が一番恐れている 事態にはなってはいないようだ。
「そうですか・・・あ、ご主人たちを呼ばないと」
「ああ、そうだな。
 彼女を早く着替えさせないと風邪を引く」
巴は頷くと宿屋の中へ小走りで入っていった。
我が家の近くに着いたというのに 女はそれをまるで意識していないようだ。
掴んだ杜鵑草をまるで鈴のように振りながら、 笑っている。
「なぁーんにもないの。
 ぜーんぶ無くなったの。
 だからあげる、わたしをあげる」
また暴れ出すかもしれず、剣心は女の手を握ったままだった。
そうして彼女の何も映さない瞳を覗く。
「・・・“何”に貴女をあげるんです、か?」
くすくす、と女が肩を振るわせた。
「・・・あの人を、斬った男にあげるの。
 わたしのぜーんぶを、背負わせてあげる」



この深い深い業(ごう)を、なんて云い表せばいいのだろう。
込み上げてくる何かを必死で押し止めるかのように。
剣心は思わず口を覆った。
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