どくん

巴は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
「・・・だからさ、あんまり怒らないでくれよ。
 そりゃあんたまで俺の悪戯に巻き込んじまった風になっちまって、 わりぃとは思ってるからさ」
へらへらと、嗤うその表情の何処に。
『済まない』なんて感情が潜んでいるというのだろう?
精一杯の憤りを込めた瞳で、巴は飯塚の顔を見上げた。
「あ、なたが・・・!裏切り者!!」
声を抑えてはいたけれど、か細いその容姿に似つかわしくない程の 低い声が、彼女の喉から零れた。

この男は、明良さまと自分のことを知っている。
この男は、わたしが何のために“抜刀斎”に 近づいたのか知っている。
      この、男は。

飯塚はつまらなさそうに巴の視線を受け流すと、こきこきと 首を鳴らした。
「ま、確かに俺は“奴ら”の仲間さね。
 だけど裏切り者ってのは違うぜ?
 ・・・端(はな)から間諜役だったんだからよ」
詳しく述べるのがさも面倒くさいかのように、 飯塚は投げ遣りに云い放つ。
彼のあまりに無機質な言いざまに巴は恐ろしさを覚えた。
そのまま無意識に一歩下がろうとして、その顎を素早く 飯塚に掴まれる。
「・・・っ」
「巴ちゃん、俺たちは“仲間”だ。
 仲良くやろうや」
ずい、と飯塚が顔を近づけた。
その脂(やに)臭い息に、巴の嫌悪が急速に膨らむ。
白い腕がちらりと飯塚の目の端に映った。
ばし、と夜の闇に響く音。
「・・・おお、こわっ!」
飯塚は乱暴に払われた自分の手首を大袈裟にぱたぱたと 振って見せた。
ぎゅ、と唇を噛み締めて、巴がそれを睨む。
「邪魔を・・・しないでください。
 これは、わたしの・・・わたしだけの・・・!」
わなわなと震える顎を叱咤して。
巴は告げる。
(あなたと同じにしないで)
(わたしは斬り殺されたあの人のために)
(わたしはあの人に何もしてあげられなかったから)

「ったく優しい顔しておっかねえ」
そうぶつぶつ云いながら飯塚は 己の首筋をさすった。
次にへらりと嗤って。
巴を見据える。
「何を躊躇う?」
「・・・な、んですって?」
飯塚の眼(まなこ)がぎらつく。
「抜刀斎はあんたの大事な人間を殺したんだ。
 苦しめて苦しめて、どん底に突き落として。
 そうしてあんたが、ヤツに“愛された”あんたが とどめを刺す。
 おもしれえじゃねえか、やってみせろよ。
 あんたは修羅になる決心をしたんだろ?
 成る程、アイツは鬼でも蛇でもない、ただのガキだ。
 だからって、あんたは絆されてやるのかい?
 そんな、甘っちょろい決心で   “俺たち” に近づいたわきゃないよなあ?」
滔々と告げられるその言の葉に。
巴は溺れそうになる。
「やめ・・・て」
「あんたと、俺とやってることが  どう違うって云うんだい?
 俺にはわかんねえなあ?あん?巴ちゃんにはわかんのか?
 俺たちにとって抜刀斎は抹殺すべき存在、それだけだ。
 どんな手を使っても排除する。
 俺たちはその組織に所属する“なかま”だよ」
巴は思わず両耳を塞いだ。

聞きたくない、聞きたくない、聞かせないで。

こき、とまた一回飯塚は首を鳴らす。
その面(おもて)から、一切の嗤いを消して。




      あんたは利用されてる。
 そして、それをあんたは承知した上で抜刀斎のオンナになった。
 ちゃんと、仕事しろよ      なあ?」











震え続けていた女が、ぴたりと動きを止めた。
不審に思って剣心が彼女の顔を覗き込もうとした時。
いきなり強い力で右の二の腕を掴まれる。
「・・・?」
女がゆっくりと顔を上げた。
寒さで蒼くなった顔色。
落ちくぼみ、黒ずんだ目元。
がしっと掴まれたその指先から、 信じられないほどの力が伝わってくる。
細く尖った爪がギリギリと音を立てて喰い込むかのようだ。
一瞬息を詰め、剣心は背筋を震わせた。
女の様子が一変している。
これも   狂った故なのか。
わなわなと震える唇が動いて、驚くほど嗄れた声を発した。

「思い知ればいい…埋めようのない空虚を。
 何をしても、何をされても癒えることのない傷を。
 一生、付き纏う、その嘆きを」
「・・・な、にを・・・」

剣心は女の指を外そうとした。
けれど強ばって上手く己の指先が動かせない。
それでもなんとか時間をかけて。
女の喰い込んだ爪を外し、指を解いた。
がくり。
途端女の全身から力が抜ける。
そのまま頭から地面へ倒れ込みそうな女を、 剣心は慌てて腕で支えた。
ほう、と一息ついて。
剣心は俯くように顔を伏せる。
「・・・・・・そう、だよな」
我が子を奪われ。
我が子を沈めれ。
嘆いて狂って彷徨って。
(けれどそれだけじゃない)
絶望と、繰り返される“何故”と、自分を責めながら 抑えきれない・・・憎悪の奔流が。
いつもいつもいつも。

絶え間なく。

「・・・・・」
剣心は疲れたかのように目頭を押さえた。
呑まれるな。
この女性(ひと)の深く激しい“それ”に呑まれるな。
動けなくなる。
立ち止まってしまう。
俺は。
俺はまだやらなきゃならない。
そうしなければ何のために。
何のために、俺は         ・・・

剣心は女の両腕を自分の首に回すと 両足に力を込めて立ち上がった。
背中の彼女が気を失って動かないうちに、連れて帰らないと。
彼女を待っている、彼女の家族の元へ。
・・・痩せているのに、意識のない女はやけに重く。
ずぶ濡れの着物から滴る川の水が、 まるで地面に張り付く糸のように歩行の邪魔をする。
それでも、剣心は無理矢理足を動かした。
歩かずには、いられなかった。











「もう、たくさん      !」
巴は眼球が熱く灼けるような目眩を覚えた。
もう、たくさん。
これ以上、飯塚に踏み込まれるのはご免だ。
わたしは。
わたしは。

「未熟だと軽蔑されても、呆れられても仕方ありません。
 これは私怨です、わたしはわたしの為に動いている。
 ・・・あなたは、邪魔を、しないで」
飯塚が一瞬瞠目して。
やがて大きく唇を歪めた。
「へ、え・・・」
先ほどまでの冷徹な瞳の光が掻き消えて。
再びあからさまな悪意を巴へ向けてくる。
「わたしの、役目は抜刀斎の弱点を探ること。
 それは、ちゃんと果たします。
 けれど」
先ほどまで戦慄いていた背筋が、綺麗にぴん、と伸びた。
生温い風が、彼女のうなじの後れ毛を揺らす。

「・・・けれど、彼はわたしの標的です。
 こればかりは譲れない。
 わたし以外の、誰にも手を出させない。
 わたしが、わたしの」



わたしだけの仇なのだから。
[Next] [るろ剣 Index]