さも面白そうに、飯塚は嗤った。
脂(やに)汚れた歯が、はっきりと覗く。
「そんなにびっくりしなさんな。
 ぐーぜん、なんだからさ、巴ちゃん」
普段の喋りと変わらない、飯塚の声。
けれどその言葉ひとつ、ひとつが。
ざわざわと巴の肌を粟立たせてゆく。
「ぐう、ぜん・・・って何が、ですか?
 あなたは“どうして”、“此処”に、来たのですか?」

問いたださねばならない。
巴は強くその衝動に駆られている。
(いやだ)
(いやだ)
彼女の心は拒否反応を示しているのに、冷静な思考の部分が それを制した。
抜刀斎の仕事。
遺された、身内。
   狂った、女。
ああ、わたしは。
訊かねば、ならない。

「まあな、俺もそうなればいい、と思ってただけなのさ。
 擦れ違っても仕方のねぇこったし?
 ・・・しかし世の中捨てたもんじゃないよなあ」
にやり、とまた飯塚は歯を覗かせた。
「狂女と緋村は接点を持っちまった。
 それこそ、偶然に、な」







がたがたと女は震えた。
川面を滑る風が容赦なく剣心と女に吹き付ける。
剣心は一瞬躊躇ったが、動こうとしない女の腕を無理矢理引っ張り、 風の強く当たらない川土手へと移動した。
「いやあ、やめてよぉ、まだ見つけてないのぉ。
 やや、を見つけないと帰れないのぉっ」
   居ない、って云ってるだろっ!」
子どものように駄々をこねる女に、剣心はつい声を荒げた。
びっくりした女は信じられないものを見たかのように、 大きく目を瞠って剣心を凝視する。
「あなたが探しているのは幻か虚構だ!
 そんな赤子は存在しない。
 いい加減目を覚ましてください・・・あなたの、お父さんは、あなたを ・・・とても心配なさってます・・・」
ゆっくりと丁寧に。
そして力強さを剣心は最後の言葉に込めた。
女の狂った心に、届くように。
あなたを、愛している家族が待っているのだと。

女の見開いた瞳の、その濁った光がぐにゃりと揺れた。
厚い水の膜が一瞬でその眼球を覆い。
忽ち溢れて、ぼたぼたと頬に零れる。

「・・・みつけ、られないの?」
「・・・ええ」
「わたしの腕の中に、戻らないの?」
「ええ」
「どこにも、居ない?」
「ええ」

女は剣心の腕に縋り付くようにして、身体を震わせた。
凍えているからではなく、突き付けられたその真実に。
怯え、震えている。
それがたまらなく心細げで。
たまらなく儚げで。
剣心は彼女の肩をそっと抱いた。
「ど、うして」
頬骨の浮いた貌を、剣心の細い肩に押し付けて。
女はぼんやりと呟く。
「どうして、殺さないといけないの?
 お義母さま、この娘(こ)は要らないのですか?
 坊やを取り上げて、そしてこんな小さな“やや”すらわたしに 残してはくれないのですか?」

      これが、真相。
剣心は遣る瀬無い怒りと哀しみで、思わず己の双眸を手のひらで覆った。
彼女の嫁ぎ先は。
子どもを彼女から奪った上に、 おそらく生まれ立ての稚児(ややこ)を。
・・・不要なものとして、殺めたのだ。

剣心は骨張った女の背を強く抱き込んだ。
ぽたりぽたりと、濡れそぼった女の着物から雫が落ちる。
女は涙を流し続けながら、 かさつき荒れた唇をぱくぱくと動かした。



ねえ。
どうして、あの人が斬られなきゃいけなかったの?
どうして、わたしのややが流されないといけなかったの?
どうして、わたしは・・・わたしは、こんなに苦しい、の?

何も云えない。
何も応えられない。
俺は。
人斬りの、俺には。
そんな資格は、ない。

ねえ、どうしてあの人なの?
稚児(ややこ)なの?
わたしなの?

俺が斬った後にも。
きっと彼女のような不幸や悲しみや理不尽が生まれている。
それは。
俺が望んだ事態じゃないけれど。
けれど、人を斬った、その派生がこんな。
こんな               ・・・・・・







「賢いあんたのことだ、大方わかっちゃあいるんだろ?」
飯塚は両の袂に腕を入れて、宿屋の壁にもたれ掛かる。
巴はじろりと飯塚を睨み、その紅い唇をぎゅっと噛み締めた。
おそらくは、そうなのだ。
あの狂女の、夫を斬ったのは・・・
「あんた達が身を潜めている村里から、一番近くて賑やかな街はここだ。
 俺がここで緋村と落ち合ったって、何にも不思議な事はねぇ。
 狭い界隈で、狂人として有名な女がふらふらしていれば、 どうしても緋村の目に入らざるを得ない、と算段してたんだが」
飯塚はくつくつと喉を鳴らした。
「迷子になった狂女の捜索を手伝うことになるたぁ、ほんとに たまんねぇなあ」

飯塚のぽかりと空いた唇から、ちらちらと舌が蠢く。
(蛇)
やはり、彼は蛇だ      自分たちにとって。

「・・・あなたの筋書き通りに、わたしたちは踊らされたわけですか」
「ご名答。
 そう答えられるってこたぁ、あの狂女のダンナを斬り殺したのが 緋村だっていうのも推察してるな?」
やはり。
解っていたこととはいえ、こうも軽く肯定されると巴は悔しくてたまらない。
「あーあ、全く可哀想だよなぁ?
 維新のためとはいえ、緋村に斬り殺されて。
 残された妻は嫁ぎ先から用済みとばかりに追い出され。
 息子は跡継ぎだからと奪われ、赤ん坊は女の子だから 不要だってんで、殺されちまってよぉ」
「赤ん坊、ですって?」
ざあ、と顔から血の気が引くのがわかった。
あの女性に、もうひとり子どもが居た?
・・・殺され、た?
飯塚は世間話でもしているかのように、 相変わらず薄ら笑いを浮かべたままだ。
「そう、居たんだよ、もうひとり子どもが。
 生まれ立ての、可愛い女の子がね。
 嫁ぎ先は女の子は要らない、しかし母親の手元に置くとなれば 財産絡みで将来ややこしい事が起きるに違いないってね、 まあ鬼みたいな奴らだよな。
無理矢理女から赤子を引き離して・・・川に放り投げたんだとさ」
「では。
 では、彼女が狂ったのは      
巴は口を手で覆った。
気持ちが悪い。
吐きそうだ。
なんて、なんて、酷いことを・・・・!
「ああ、ひでぇ話だ。
 神も仏もないね、鬼子母神も真っ青だな」
大仰に天を仰ぎ、飯塚は両腕を大きく広げた。
なんまいだー、なむなむなむ、と唱えながら・・・嗤って、いる。
それまで気丈に背を伸ばし続けていた巴は、 ぐらり、と揺れる地面に俯いた。
気持ちが悪い。
飯塚の、どす黒い悪意に。
   当てられている。
「なあ、巴ちゃん。
 このこと、緋村が知ったら面白いと思わねぇか?
 自分のしでかした罪の、その顛末を知ったら、さ」

飯塚が振り返って、耳元でさも楽しげに囁いた。
「巴ちゃんの、『仇』だしな」
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