宿屋の女将は巴に済まなそうに頭を下げた。 「ほんま、人捜しまで手助けしてもらうなんて。 盗られた金を取り戻してもらっただけでもありがたいというのに。 ・・・まったく、お礼の云いようもございませんよ」 巴も戸惑うように首を振って「お互い様ですから」と 何度も気にしないように女将に告げた。 「緋村は、ああいう人なんです。 本人はそれで満足しているのですから、 本当に気になさらないでください」 剣心が正気を失っているという女を捜しに出てから。 すでに半刻近く経っていた。 この辺りの地理に詳しくない故、手間取っているのだろう。 それでも巴は剣心が女を見つけ出すと信じている。 ・・・彼は、そういう人だ、と信じている。 「あの」 巴はまた頭を下げようとした女将を制して。 躊躇いがちに訊いてみた。 「その、女の方ですけど」 「はい、何でしょう?」 女将は何でも訊いてくれとばかりに膝を寄せた。 「昼間に簪(かんざし)売りのおじいさんがちらりと漏らしたのですけど」 女将はああ、あの老人かと心当たりのある表情(かお)をする。 人の好い老人だけどおしゃべりでねえ、と溜息を吐きながら小声で愚痴た。 今自分たちの居る寒村と比べると遥かに賑わっている界隈なのに、 人同士の繋がりが篤いことに巴は驚きながら。 再び訊いた。 「―――可哀想だ、と。 幸せだったのに、と」 女将は巴の言葉にいちいち頷きながら「そうそう」と 肯定を声に出していた。 「一体何が、その女性(ひと)を狂わせたんですか・・・?」 女将はたるみ始めた目蓋をぴくりと持ち上げて。 巴の顔をまんじりと見つめる。 「・・・よくある、話ですよ。 彼女のように狂ってしまった女は、この世に幾らでも居る。 だから哀しくてねぇ」 狂った女。 幸せだったのに、狂った女。 ―――よくある、話ですよ (本当に) 巴は動く女将の口元をぼんやりと瞳に映しながら。 微かに吊り上がった己の口角を意識した。 (本当に、よくある話だ) (だって、わたしも) (・・・わたし、も) しかし女将はその巴の表情に気付かず語り続ける。 「笑った顔が、可愛らしゅうて。 家族の面倒見も良くて。 いい娘(こ)だったんですよ・・・」 巴が、無意識に居住まいを正した。 「あるお武家さんに奉公に行ってね、そこの跡取りに見初められて。 周りからはえらい反対されたらしいけど、結局祝言を挙げて。 一度里帰りした時も、やっぱりいい笑顔してましたなあ」 女将はそこでふ、と目線を下げた。 「でも変わっちまった。 あの娘(こ)の運命は、変わってしまいました・・・夫を斬り殺されて」 女将はぐしぐしと洟(はな)を啜り始めた。 生来、感情の起伏が激しいのだろう。 巴はくらりと己の視界が揺れるのを感じた。 (斬り殺された・・・斬られた・・・) 語る女将の声は徐々に濁声(だみごえ)に変わってゆく。 「このご時世ですし、そんな目に遭う可能性だってそりゃ充分でしたけど。 京になんて居なければ良かったのに、とわたしは思うんですよ」 「京!?」 「・・・維新志士に斬られたそうですよ。 ほんまに京(みやこ)は怖いトコですねえ」 どくどくと血の流れる音を、巴は己の鼓膜の向こうで聞く。 これは。 なんという、符号。 まるで。 合わせ鏡のような。 「おや、顔色が悪いですよ」 女将は小首を傾げて巴の顔を覗き込んだ。 そうして 「やはり聞いて気持ちいい話じゃないですよねえ」 と腰を上げようとする。 巴は慌てて何でもないから、と彼女の袖を引っ張ると、女将は 少し目を丸くしたがじゃあ、と再び腰を下ろした。 「・・・それからが、大変でしてね。 あの夫婦の間にはたったひとりの男の子が生まれてたんですけど」 お喋り好きの女将は、だんだん興に乗ってきたのか、声の抑揚も 語りとしては巧みなものに変わっていった。 「男の実家は冷たくてねえ、難癖つけて縁切って。 とうとうあの娘(こ)を 追い出しちまったんですよ。 あちらさんが元々乗り気じゃなかった結婚だったとはいえ、 全く酷い話じゃないですか」 「それで・・・子、どもさんは・・・」 「ええ、確か当時はまだみっつ、よっつ。 長男が亡くなって、大事な家督を継がせなきゃなりませんからね。 当然あっちが引き取っちまったんです」 巴が思わず口元に手をやるのを、女将は当然のように頷き見つめた。 「夫(せ)の君に死なれ、愛しい息子と引き離され。 そうして実家に帰った時には、 もうあの娘(こ)から笑顔は消えちまいました・・・」 剣心は真っ暗な細道を駆けていた。 夜目が利く彼は、敢えてそういう暗がりを探し回る役を引き受けた。 やがてさらさらと水のせせらぎが聞こえてきて、剣心の足がふと立ち止まる。 「・・・?」 せせらぎの音に混じって、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音がする。 魚、ではない。 足を水に浸けているかのような――― 暫し耳を澄ませていたが、やがて身を翻し。 剣心は細い橋を駆け抜け、そのまま土手を滑り河原へ下りる。 月の光が、とても細くて。 その微かな月光を、ちらちらと川面が反射させている。 ぱしゃ ぱしゃ 水を踏みつける音。 飽くことなく、同じ律動で。 ぱしゃ ぱしゃ 剣心がゆっくりと川辺に近づく。 音は途切れない。 やや肌寒い風が、吹き抜けた。 剣心の背筋がぞくり、と震える。 水を踏みつけ続けていた女の動作がぴたりと制止した。 振り返る。 空洞の、暗い瞳が。 剣心を射抜いた。 「何を、しているんだ?」 剣心が川縁に立つ“狂女”に問うた。 膝半分を水に浸しながら、濡れそぼつ裾を気にする仕草もなく。 “狂女”はぼんやりと突っ立っている。 虚ろな眼(まなこ)は、剣心を捉えているのかいないのか、 見当も付かない。 「遊んでるの」 乾いて荒れた唇を、のろりと動かし。 女が声を発した。 「・・・水遊び、かい?」 女はくき、と首を傾げて「ううん」と呟く。 「流れた、稚児(ややこ)を見つけるの。 ―――宝探しなの」 |