宿屋を営んでいる夫婦は、剣心と巴に それこそ幾度も幾度も頭を下げた。
盗られた金が戻らなければ大変だったのだからその気持ちも解らなくは ないが、剣心にしてみれば居心地が悪いことこの上ない。

偶然その場に居合わせて。
たまたま自分の力量が盗人を上回っていただけだ。

とっぷり陽も暮れて。
お礼の言葉の洪水にやっと解放されたと思ったら、今度は 食べきれないほどの馳走が次から次へと運ばれてくる。
・・・本当に落ち着かない。



「慣れないですね」

食べきれなかった事を謝って、ようやく膳を下げてもらった。
そうしてやっと肩の緊張を解いた頃。
巴がぽつりと剣心に漏らす。
「・・・たったあれだけの事なのにな」
剣心も同意して困ったようにして笑った。
巴がかたりと窓の襖を開けると、肌に涼しい爽やかな秋風が 入り込んでくる。
「あなたにとっては些細なことでも、この宿屋のご夫婦には 一生の大事だったのでしょう」
「・・・うん」
居心地が悪そうに、剣心が胡座を組んだままもぞもぞ動く。
それを見た巴が“行儀が悪い”といった表情(かお)をした。
察した剣心が「ごめん」と云いながら、やはり落ち着かないのか、今度は 意味もなく袂に手を入れて己の肘を撫でたりしている。
「なあ、巴」
「はい」
「俺、こんな風に感謝されたこと・・・ないんだ」
「・・・」

どうしていいのか解らない、そんな困った顔をして。
剣心は溜息を吐きながら。
長い赤毛を微風に揺らせる。
巴は灯りに反射するそれが綺麗だ、と思いながら剣心の 傍に正座した。

(この人は)
世の中をより良く変えたいが為に剣を持ち。
天に代わって人を斬り。
・・・それを、“狂の正義”と桂は例えたけれど。
(可哀想だ)
自分の為ではなく、人々の為に。
不特定多数の、この国の底辺を支える人々の為に。
優しい自分を裡(うち)に塗り込めて、ごまかして、強い 振りをして―――人を斬り。
(可哀想だ)
それなのに、たかが盗人ひとり捕まえたぐらいで、 “初めて”感謝をされて、戸惑っているなんて。
(この人は)
何も知らない。
何も解っていない。
(哀れだ)
人の歓びは、人の哀しみは、人の憎しみは―――『個』であれば あるほど、強いのに。
そう、自分のように。

巴はそっと剣心の肩を抱いた。
突然首筋に当たった温かな息に。
びっくりした剣心が頬を赤くする。
「ど、どうしたの、巴さん?」
「・・・なんでも、ないです。
 ただちょっと・・・」

巴は、己の傲慢に、小さく歯軋りをした。
無意識に指先に力が入って、剣心の襟元がたわむ。
剣心はそれを知ってか知らずか、とんとん、と巴の 背を軽く叩いてきた。
「もしかして、食べ過ぎて気分が悪い?」
「・・・い、いえ、あの」
「ちょっと無理したよな。
 俺も少し胃がもたれて。
 考えてみたら最近食事はずっと質素だったし」
巴の身体から力が抜けて。
彼女は漆黒の瞳を小さく見開きながら、ゆっくりと剣心の首から 腕を外した。
「胃薬、作ろうか?巴さん?」
巴の表情が泣き笑いのようになった。
しばらくすると、本当に可笑しくて。
花のような笑顔が零れる。
「―――大丈夫です、治りました」
「え、もう?」
「ええ」



“あの時”から。
あの優しい許婚を喪ったと知った時から。
わたしは、笑えなかったのに――――――



いつかこの事実(こと)を。
わたしは貴男に伝えるのだろうか・・・?





ぱたぱたぱた

慌ただしい足音にはっとした。
足音はそのままこの宿屋の前で止まり。
やがて屋内からもぎしぎしと床を踏む音が響く。
「・・・何だろう?」
「随分慌てている感じですね」

―――居な・・・い
―――こっち・・・遠く・・・へ?
―――探さないと・・・

断片的にふたりの男の声が聞こえる。
やがて彼らは外へ出て話し始めたので、通りを見下ろす側の窓を開け放していた 剣心達にも、鮮明に彼らの会話が聞こえてきた。

「あれでも足は達者だからな、かなり広範囲を探さないと」
「居なくなったことにもう少し早く気付いていれば・・・」
「今夜は若いもんが出払っとる。
 応援を頼まんとな。
 かといって大げさにもできんし」
「済まない・・・いつも頼りにしちまって」
「何云ってる、洟垂れ時分の頃からの付き合いだ」

宿屋の主人に向かって頭を下げている老人を見て、巴ははっとした。
「あの人・・・」
「何?
 知ってるのか?」
巴は少し躊躇いながらも、昼間の 正気を失った態でふらついていた女と、それを懸命に追っていた父親の ことを手短に話した。
すると剣心も驚いて
「その狂女は、俺も見かけた」
と小声で返す。
え、と巴が目を丸くしたのも束の間、剣心はすいと立ち上がって
「手伝えるかもしれない」
と云うや否や部屋を出て行った。
「・・・・・・」
呆気にとられた巴の耳に。
とんとん、と階段を下りてゆく剣心の足音が木霊する。
おそらく『女』は父親の目が離れた隙に、 またふらりと居なくなったのだろう。
そして父親は友人である宿屋の主人に助けを求めたのだ。
剣心は、その人捜しを手伝う気だ。

(なんてあの人らしい)
困っている者を見過ごせない、性格。
それが偽善とか、お節介などと形容されるとしても。
(・・・貴男らしい)

そんな人間が。
人斬りだなんて。

掛け違えた運命のように思えて、巴は鳩尾(みぞおち)を 押さえる。
吐き気に似た気分の悪さに。
哀しくなった。
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