約束の時刻を見計らって、巴は先程剣心と別れた辻へと戻った。
あと少しで、傾き始めた陽に照らされ、 屋根瓦が淡いだいだい色に染まってしまうだろう。
急いで帰らないと暗くなってしまう、と巴が考え始めた頃。
通りの向こうから見慣れた明るい髪が覗く。
「・・・」
ほぼ約束通りだ、と巴は小さく笑ったが。
すぐさま剣心の横に、飯塚の姿も認めて無意識に眉を顰めた。

(苦手、だわ・・・あの人)
剣心が彼に会うためにここまで来たのは百も承知だ。
しかし初めて会ったときから。
巴は飯塚に出来れば近寄りたくない、と思っている。
確たる理由は無いけれど。
本能でそう感じていた。
(どうしてこんな所にまで一緒に?)
定例報告のようなものが終われば、飯塚は次の連絡を取るべき長州志士の元へ そそくさと向かうはずなのに。

「と・・・」
剣心が巴に声を掛けようとした瞬間、飯塚は例のにやにやした笑いを 浮かべながら右手を挙げた。
「よぉ、巴ちゃん。
 相変わらずべっぴんだなー」
「・・・」
巴は無表情なまま、軽く会釈した。
剣心が困ったように横目で飯塚を見遣る。
しかしすぐに巴へ視線を移すと優しく笑った。
「すまない、待ったか?」
「いいえ」
「目的の物は買えた?」
「はい」

飯塚はふたりの短い遣り取りを冷めた目で観察しながら、 あくびをひとつ、噛み殺す。
(小萩屋に居るときゃ、ギスギスしてたのにな)
剣心は巴の言動にいちいち揺さぶられていたし、巴は 四六時中剣心を観察していた。
それがどうだろう。
祝言を挙げてからほんの短い間に。
ふたりの醸し出す空気はすっかり柔らかく、甘い。
(まあ、新婚さん、だもんな)
我知らず、飯塚の唇の端が吊り上がる。

未来(さき)の不安を見過ごす、温(ぬる)さ。
ひとときの平穏に酔える、浅はかさ。
(若(わけ)え、若え―――反吐が出る)

「じゃ、飯塚さん、これで失礼します」
剣心は、飯塚の思念に気付くことなく、 軽く会釈すると踵(きびす)を返そうとした。
「おいおい、もうちょっとくらい巴ちゃんと話させろよ」
慌てふためいたように、飯塚が唾を散らすと、剣心は困ったように 肩を竦めた。
「・・・久しぶりだから巴さんの顔を見たい、と云うから見せてあげたんじゃ ないですか。
 もう用は終わったでしょう?」
「うわ、お前、いつからそんなイケズになったんだ!?」
「さあ?最初からじゃ?」
「オイオイオイ・・・」
あちゃあ、と天を仰いで、飯塚は右の手のひらで目を塞いだ。
くすくす笑いながら剣心がそれを眺める。
巴はそんな彼らを微笑ましく思いながら。
胸の奥の、ざらついた感触を振り払えなくて困惑していた。
飯塚は確かによくしてくれている。
金銭面、村での生活のための根回し、そして桂の行方が解らず焦る剣心への きめ細かな接触。
それでも。
時折感じる、苦手な目付きがある。
(蛇)
獲物を前にした、蛇のような視線――――――



「とにかく陽の落ちる前に村へ帰らないといけないので。
 失礼します」
剣心がぺこりと頭を下げると、飯塚もあっさりと「そうか」と答えた。
と、その時。
「ど、泥棒!!
 そいつを捕まえてくれっ!!」
嗄れた男の声が通りに響いた。
反射的に剣心が辺りを見回すと、必死の形相で駆けてくる体格のいい 男がいる。
その男の懐が不自然に膨らんでいることに気付き。
剣心はす、と身体を移動させた。

「いてっ、いてててっ!!」
いきなり腕を捻られて。
逃げてきた男は情けない声を上げる。
横を見れば、己より遥かに細くて小さな優男が、いとも簡単げに 自分の腕を押さえていた。
「な、なにしやがるっ、離せ!!」
全力で振り切ろうとしたが、何故か腕は外れない。
「おやおや、盗人か?」
飯塚が無精髭の生えた顎をさすりながら、藻掻く男の前に立ち。
するりとその懐から重い固まりの入った巾着を取った。
「あ、こ、こらっ!!」
慌てた男がまたしても身を捩ったが、やはり腕は外れない。
やがて、男を捕まえてくれと喚いていた、前掛けをした小太りの男がよたよたと 追いついてきた。
「あ、ありがとうございます!
 よくぞ捕らえていただきました」
ぺこぺこと何度も男の腕を捻っている剣心へ、前掛けの男は頭を下げる。
「ほらよ」
飯塚が巾着を前掛けの男へ返すと、彼はその中身を確かめ。
また何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
「せ、せっかく苦労して盗んだのに・・・っ」
口角に泡をつけて大男が怒鳴ったが、飯塚が胸郭に拳をひとつ食い込ませると あっさりと気を失う。
「やれやれ、五月蠅くて情けない盗人だな」
飯塚は小馬鹿にした口調で首を振った。
前掛けの男は未だ頭を下げていたが、剣心がもういいからとその肩を押さえると、 今度は是非お礼がしたいと云い出した。
「店の有り金、全部持ち出されたんです。
 今夜中に返済の約束もあったし、本当に助かりました」

彼の店は宿屋と仕出し屋を兼ねていると云う。
食事と酒をもてなすから、とまた頭を下げだした男に、剣心は 恐縮して頭を掻く。
「だが早く帰らないと暗くなってしまうし・・・」
「それでは一夜の宿もどうぞ!
 わたくしめの家内もきっとそう云います、是非、是非!!」
「だけど・・・」
なおも断ろうとする剣心を、こっそりと飯塚が小突く。
「いい加減に、あちらさんの気持ちを汲み取ってやれ。
 何かの形にしなきゃ気の済まない人間だっているもんさ」
「・・・・・・はあ」
剣心は小さくため息を吐くとちらりと巴の顔を見た。
彼女が頷き返したので、漸く店の主人の厚意を受けることにした。
主人は傍目にも嬉しそうに、にこにこ満面の笑顔で「よかった、よかった」と 繰り返す。
飯塚は「じゃ、俺はここでな」と軽く手を振り、気絶した盗人をずるずると 引っ張っていった。

「・・・番屋にでも行かれるのでしょうか?」
「さあ、あの人のことだから締め上げて、有り金巻き上げるかも」
「・・・」



いつの間にか、太陽が傾き赤く染まり。
剣心と巴は我が家以外で一夜を過ごすこととなった。
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