びゅっと空を斬る音が耳元を掠めた。
ぎりぎり、というより間一髪。
状況を瞬時に判断した身体が、その反動を利用して逆に相手の懐に飛び込もうとする。
うまく動けたつもりだった。
それなのに向こうは、逆に此方へ踏み込んでくる。
「・・・ちっ」
相手はおそらく頭で考えてるわけではない。
場慣れした神経がそうさせているのだろう。

由太郎は突進してくる彼の矛先をまたしても避けるために不様に身を捩り、 均衡を崩して転がった。
「そこまで!!」
凛、とした声が響き相手はぐっと右の大腿に力を入れて踏みとどまった。
そのまま振り返り、声を荒げる。
「なんだよ、まだ一本入れてねえぞ!!」

弥彦はうっすら顎まで流れてきた汗を乱暴に拭った。
「なぁに言ってるのよ?
 今のは型の練習をしていたんだから一本なんてどうでもいいのよ」
神谷道場師範、神谷薫はこきっと首を鳴らしながら呆れたように嘆息した。
「あんたのその時々周りが見えなくなる癖、直んないわねー」

弥彦はしまった、といった顔をして半分口を開きっぱなしにしていた。
由太郎はすい、と立ち上がり彼の下顎を思い切り押し上げる。
がちっと音がして弥彦が顔を顰めた。
「ってー!!!
 なにすんだよー、由太!!」
「頭冷やせ、ばあか」

―――自分も本気になってた。
だけどやられかけた。
それが悔しいなんて、お前に言う気は、ないよ。



弥彦は仕事の時間だと、慌てて道場を後にした。
じゃ、今日は俺が門下生を引き受けるのかと由太郎が肩を落とした瞬間、 目の前に薫がぬっと雑巾を突き出す。
「さあ、掃除、掃除」
「・・・・・・」
「他の子が来る前に一通り綺麗にしときましょ?」
にっこり邪気が無い笑顔は由太郎が初めて彼女と会った時と変わらない。
こういうの、特権だよな。
由太郎は思う。
最初から他人(ひと)を惹き付けるよな笑い顔が出来るような 人間はそうざらにいない。
内面を知ることは大切だが、出会ったときの第一印象は 後々影響が大きいのも事実だ。

「由太くん」
たたた、と軽く床を拭きながら駆けていると薫が背中から声を掛けた。
「・・・焦った?」
先程の弥彦との手合いの事を言っているのだと、由太郎にはすぐに解った。
掃除の手を止めて、猫のような瞳をやや上目にして、 ぶっきらぼうに答える。
「焦りましたよ。
 ああして偶にアイツは俺に思い知らせてくれる。
 ・・・経験の差ってやつを」

それは死線を潜り抜けた者と持たない者の差だった。
努力とか、才能とかの差ではなく。

「―――わたしだったら」
数瞬の沈黙の後、薫はゆっくりと切り出した。
「まだ、弥彦に勝つ自信はある。でもね」
柔らかな薫の声。
昔、この声に呼びかけられて、どれ程嬉しかっただろう。
「でもね、それは正式な剣術の試合においては、なんだけど」
柔らかくて・・・静かな声。
日本にやっと帰ってきたとき、それで由太郎は気付いのだ。
彼が日本を去ったあとに、彼女がどれだけの苦しみを乗り越えてきたのか。
「本当に、“戦えば”・・・弥彦には勝てないなあ」

ひとつに束ねられた、黒髪が揺れて。
彼女の体臭が鼻をくすぐった。
「だからって、あなたが弥彦に負けてる訳じゃないのよ。
 人は、その人に合った『条件』があるから」

薄茶色の髪をがしがしと掻き乱して、由太郎は 小さな木枠の窓から差し込む光の筋と、きらきら舞うホコリを見つめた。

俺、長いこと独逸に居たしなあ。
そんなムズカシイ日本語なんか
「・・・よくわかりません」
薫がまた柔らかく笑った。

「薫殿」
からりと戸を引いて、赤毛の男性がひょっこり顔を覗かせた。
「剣心、どうしたの?」
彼女の表情が年上の女性から、少女の様な無防備なものに変わる。
「剣路がぐずぐず言い始めたので、もし手が空いてるなら・・・」
「ごめんなさい、
 そういえば朝からあんまり構ってやれなかったわ」

優しそうな笑顔で剣心は「いいでござるよ」と答え、その左腕に抱えていた 小さな男の子を薫に渡した。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃなその男の子は母親が自分に腕を広げてくれていると 認識するや否や、彼女の首に飛びついてゆく。

「・・・あいかわらず甘ったれですねー。
 四歳になるっていうのに」
「この年齢(とし)だから余計に甘えん坊なのでござるよ。
 己を庇護してくれる者を明確に意識して、区別しているのでござろう」

由太郎は稀代の元剣客をまんじりと見つめた。
華奢な体躯の彼はやや右腕を庇うように動く。
最強の流派である飛天御剣流の使い手だった男はその身体に目に見えぬ 損傷を積み重ね、とうとう剣を持つことは無くなった。
(そういえば)
由太郎の親友であり、好敵手である弥彦が、剣心に『逆刃刀』を譲り受けてからだろうか。 剣心が殆ど道場に立たなくなったのは。
(いつか)
彼の身体は小さな小さなヒビだらけで、いつかその小さなヒビは繋がり合い 大きな亀裂となって彼を襲うだろう。
それは本人も承知しているし、妻である薫も知っているし。
・・・弥彦も感じているに違いない。
我が子をあやす薫を見守る剣心の眼差しにそんな不安は微塵も感じ取れはしないけれど。
おそらくその亀裂は既に、目前なのだ。

ふいっと視線を外して由太郎は自分の胸元に掌を当てた。
(・・・こっちが苦しくなる)
家族でもなく、継承者でもなく。
そんな自分が彼らより不安に駆られてどうするというのだろう。

やがて機嫌の直った剣路が素直に剣心の元へ戻った。
「あとひと稽古だから。
 そしたら剣路、おかあさんと一緒にお昼寝しよう!!」
「うん、おかあさん寝る!!」
「剣心は晩ご飯の支度ね!」
「とーさんはゴハンつくるの!剣路は寝るからねー」
「・・・おろ・・・
 どうして拙者を無視して、そう話が進むのでござるか?」

草履を履き直して、剣心はよっこらせと子供を肩に担ぎ上げた。
去り際、彼はぽんと由太郎の頭に掌を乗せて、笑う。
今まで考えていたことが看破されているような気がして、 由太郎は自然頬を赤くした。



彼が憧れた剣客は、やはり憧れのままで。
そうして最初に出会った頃よりももっともっと強い吸引力で 由太郎を惹き付けて止まない。

―――ただ強いだけでなく。
彼が抱えてきた苦しみが。

もっともこれも弥彦からの受け売りなのが悔しいが。
だから弥彦には絶対教えない。
お前の見ている『剣心』に、俺も憧れているなんて。
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