「弥彦くん?
 もう帰っちゃいましたよ」
燕はまあるい瞳をくりっとさせて答えた。
稽古が終わって、さて腹ごしらえと赤べこに寄ってはみたものの弥彦はとうに 仕事を終えたという。
「ちぇ、給仕させてやろうと思ったのになあ」
大袈裟に溜息をついて、由太郎は燕を笑わせた。
相変わらずのおかっぱ頭なのにこの頃は身体の線がふっくらしてきて。
それでいて、ちゃんとくびれてるトコはくびれてて 女らしくなってきた。
ちゃんと観察することはしておいて、由太郎は定食を頼む。
「あいつ、まだ他に内職してそうだよなあ」
他の客の注文を取りながら燕が振り返る。
「うん、そうかも。
 弥彦くん、あれで経済観念がきちんとしてるから」
そうだろう。
十歳よりもうんと前に彼は親の庇護を無くしている。
「・・・経済観念はいいけどさ」
「?」
「あの妙に正義感が強いところ、女の子は困らないか?」
「?」
「なにかあると燕ちゃんのことほったらかしてどっか行っちまうだろ?」
「そうですね」

予想外に彼女はあっけらかんと肯定した。
「淋しくない?」
訊いた途端、燕はいきなりかああっと耳朶まで赤く染めた。
「え、っと。
 あの・・・」
緊張すると毎回どもりがちな口調がかわいい。
だけど。
俺はもっと淋しそうな顔をすると思ってた。

暫し言葉に詰まっていた彼女は、熱い頬を包んでいた両手の平を下ろし、 ぱぱっとスカートの皺を叩(はた)いて、くるりと厨房へ駆け込んだ。
その、背中を見せる瞬間に「・・・ちゃんと帰ってきますから」と小さく呟いた声を しっかり由太郎は聞くことが出来た。

ふう、と頬杖を付いて「弥彦を信じてるんだ」と天井を仰ぎ、それから なんにも置かれていない机の上を見て、水は?とまた溜息をつく。



あんなあどけない顔してて、彼女は弥彦は自分の元へ必ず帰ると信じていた。
それが意外で―――面食らった。
彼女は、弥彦が己のモノだと無意識にしろ断定してるのか?
剣心から逆刃刀を継いだ、あの弥彦を。

「すごい」

自分が女なら、あんな男は『相手』に決めない。
だって疲れるじゃないか。
「・・・すごい」
へちゃっと机に俯して、由太郎は三度目の溜息と共にその言葉を吐き出した。









夕刻、その時間帯に珍しく神谷家へ顔を出した由太郎は、予想通りそこに弥彦が居ることを 確認した。
口ではずぼらでやや配慮に欠けた発言が多い弥彦だが 根が几帳面で、目的を達成するためならばどんな努力も惜しまない。
例によって彼は少しの空き時間があれば竹刀を振っていた。

「おい、弥彦」
「ああ?」
由太郎の呼びかけに弥彦は口だけ反応を示した。
「今日、赤べこで昼飯食った」
「・・・・・・」
ぴたりと弥彦の腕が止まり、やや目を細めて由太郎を睨めた。
「お前、また変なこと言ったんじゃあないだろうな?」
「変?
 変な事って何さ。
 キミの瞳は夜空の星のようだ、とか唇は桜の花びらだとか?」
ひゅんと竹刀が目の前に飛んできて、由太郎は予測したように首を軽く曲げて それを避けた。
ぶすっとした表情(かお)のまま、弥彦は悔しそうに舌打ちするとやっと竹刀を持つ手を下ろす。

「お前、そんな歯の浮く台詞を誰にでも言ってるのか?」
「・・・女の子はみんなかわいいからな」

ぶん。
再度の竹刀の襲来も予測済みで、由太郎は今度はさっきと反対側に首を曲げて いなした。
そこへ昼寝から起きたばかりなのであろう、ぼんやりした顔で薫が ひょっこり声を掛ける。
「あら、由太くんも来てたの。
 夕餉がもうすぐ出来るから、ついでに食べていきなさいよ」
彼女の肩には、剣路がやはり寝起きでだるそうにして、担がれていた。
「ごはん、ごはん、今日は美味しいよー」
それでもにこにこして弥彦と由太郎に向かって手を振る。
「・・・そっか。
 今日は剣心さんが当番なんだ」
ぽろりと零れた由太郎の言葉にぴくりと薫が反応した。
すばやく弥彦が「剣路も腹減ってんだなー、メシ、メシ」と呟いて薫の気を逸らす。
途端に薫が母親の顔に戻って
「あ、剣路ったら喉乾いてるかもね」
と、ぱたぱたと家の中に駆け込んでゆく。
彼女のその背中をじっと見送っている弥彦に、気付かない由太郎ではない。

「・・・お前、憧れてるだろ、薫さんに」
「な、なに!?」
髪の毛を逆立てて弥彦は振り返った。
「へっへー。
 ちゃんと解るんだよっ」
猫目が意地悪げに吊り上がり、由太郎はぺろりと舌を出す。
「なんで解るってんだよっ!?あ!?」
弥彦は感情を露わにすると不利と見て、極力怒りを抑えながら由太郎に問いかけた。
「―――もうひとつ解ってる。
 お前は燕ちゃんにベタ惚れだ」

弥彦はぱくぱくと口を開閉させて、やがて悔しそうに口元を引き結んだ。
「・・・そんなことは剣心や薫にだって言われてる」
「ほーんと、お前はよくやるよ」
「ああ!?」

会話の脈絡が掴めずに、弥彦は眉間に縦皺を刻んで由太郎を睨み付けた。
「あーあー、気にするな。
 ほれ稽古しろよ」
ひらひらと左手を扇ぐように振って、由太郎は庭石に腰掛ける。
ふん、と鼻息をひとつ吐き出して弥彦は再び素振りを始めた。
由太郎が会話を勝手に自己完結させるのは茶飯事だったので、 話の流れを説明させるのは無駄骨だと弥彦は踏んだのだ。



ひゅっと幾度も空を斬る、竹刀の先をぼんやり見ながら由太郎は ますます悔しくなる。

剣心が弥彦に飛天御剣流でなく、神谷活心流を学ばせたのは。
弥彦に不殺を叩き込んだのは。
彼に、逆刃刀を譲ったのは。

剣心が己の理想を弥彦に視たからだ。
―――そして弥彦が、それを無意識にしろ、受け入れたからだ。
そういう意味で間違いなく弥彦の師は剣心だった。

(俺は失敗したけどな)

最強と謳われた剣客に出逢い。
全てを包容できる女性である、薫に出逢い。
左之助、斎藤・・・多くの人間の過酷な生き様に出逢い。
・・・その弥彦を本能的に理解する恋人に出逢った。

(俺はこれといった女に出逢えてない)



知ってるか?弥彦。
お前の手の中に収まっている、幸運を。

(―――だからって)
お前が恵まれてるからって、お前が羨ましいなんて思わない。
(背負うものが大きすぎる)
お前の掴んでいるものは、素晴らしく大きすぎて―――恐い。

それでも弥彦は剣心の、理想をいつか体現するのだろう。
彼には、それが出来ることを由太郎は知っている。

(だから)
憧れる。
(だから)
悔しい。

悔しいんだよ、俺は。



「うわー、俺も『男の子』だったのか」
思わず漏れた由太郎の声に弥彦がじろりと彼を睨め付けた。
「・・・・・・はあ?何なんだよ!?」
呆れたような、吃驚したような、複雑な表情(かお)の彼を見上げながら 由太郎はにやりと口元を歪める。
その時、薫の呼ぶ声がぽーんとふたりの間に落とされた。
「弥彦ー、由太くーん、ご飯にしましょう」
飯と聞くと、弥彦の意識はその方向に集中される。
ぐいっと袂で汗を拭うと、彼はすたすたと母屋へ向かい始めた。
その背中に強い視線を送りながら、由太郎も腰を上げる。

「・・・言わないよ」



そうさ、教えてなんかやるもんか。
[るろ剣 Index]