〜睦月〜



呼吸を繰り返す度に、白い塊がぽつぽつと現れては消えていった。
くったりと身体の力を抜いたまま、左肩に引っ掛かるようにして 熟睡する息子の顔を覗き込む。
ふっくらした頬に、悪いと思いながらも自分の冷たくなった耳を押し当てて その温もりに嬉しくなった。
細くて赤みがかった髪からは、子供特有の体臭の無さのおかげか 夜の空気の匂いがする。

「薫殿」
遠慮がちに、いつもよりやや低めの声が問いかけた。
「・・・冷えるからもう部屋に入った方がいいでござる」

薫は剣心が声を掛けたにもかかわらず、たおやかな項を彼に向けたまま、着膨れた子供の背に ぎゅっと腕を回す。
「薫殿?」
彼女の様子が不自然なことに気付いて、剣心も草履を履いて庭へ下りた。
あまり音を立てない歩き方は昔からで、彼女は疾うにそれに慣れてはいたものの、 今日は酷くそれが神経に障って溜息をつく。
やがてすぐ真後ろに彼の気配を感じた薫は、見詰めていた柊の尖った葉先から、 剣心に視線をずらした。
くたくたと眠り続ける息子の白い顔と、月明かりに浮かび上がる薫の顔の輪郭が くっきりと瞳に焼き付くようで剣心は思わず眉を軽く顰める。

「・・・お正月も終わっちゃったね」
ぽつりと白い息と共に、薫が漸く口を開いた。
「ああ」
「剣路もこれで三つだよね?」
「―――ああ」

初めて会った時から、強い芯を持った娘だと感じてはいた。
けして簡単ではない事象が幾つも彼女の前に立ちはだかったが、 彼女はそれを弾くことはせず、柔軟に吸収して大人になった。
そのしなやかな剛さを、時折、剣心は羨ましく思う。

「剣心」
真っ黒な、大きな瞳がまっすぐ剣心を見据えた。
「ちゃんと、話し合わなきゃって・・・思ってた。
 剣心は気付いてたと思うけど」
「・・・・・・」
「この子が何故言葉を話さないか」

とんとん、と軽く子供の背を叩きながら、薫はゆっくりと縁側に向かい、座った。
剣心がその横顔を見る限り、冷静で落ち着いているように思える。
実際彼は、その話題に薫が触れる時はもっときつい口調で質されると想像していたのだ。
「剣心も、座って?」
むしろ微笑むような柔らかな口元で、彼女は己の左側に視線を落とす。
さらりと邪魔な赤い前髪を掻き上げて、剣心は頷くと彼女と同じように腰を下ろした。

「―――耳が聴こえない訳でも、声が出ない訳でも、ないわ」
「そうでござるな。
 剣路はこちらの言葉に、ちゃんと理解を示しているし」
「・・・精神的なものじゃないかと、玄斎先生はおっしゃったんだけど」
「だけど?」
不意に薫は振り向いて、正面から剣心を捉える。
「剣心」
「・・・・・・」
「剣心、何処かでそれを自分のせいにしてない?」
「薫ど・・・」
「剣心!」
無意識に剣心はこの話題を逸らそうとした。
だがそれを試みた剣心の言葉を、薫は間髪入れずに制する。
迷いに決断を下して、自分の取るべき行動を見極めた薫は手強い。
―――再度剣心は髪を掻き上げた。
相変わらず卑怯なことには長けている己を自嘲しながら。

薫は僅かに眉を下げて、哀しそうな顔をした。
「わたしは、剣路を信じてる。
 ・・・ううん、何となく解るの」
囁くように、それでいて懇願するように薫は続ける。
「この子は、大丈夫。
 今はちょっとつまずいてるだけで、ほんの小さなきっかけで立ち上がれる・・・普通に、話してくれるって」
くしゃりと顔を顰めて、彼女の腕の中で剣路が身動いだ。
「なのにあなたはその事に対して腫れ物に触れるみたいに、怯えてる感じだわ。
 わたしが話さなきゃって思ったのは・・・そのことよ」

さらさらと彼女の黒髪の音が、彼女の言葉の音と融合する。
遠いような、近いようなそんな掴みきれない感覚に戸惑いながら 剣心は薫の言った意味を考えていた。

『怯えてる』
『自分のせいにして』

「―――薫殿には、そう映るのでござるか?」



こくりと頷いて彼女はまた哀しそうな顔をして、俯いた。
「あなたには、消せない罪がある。
 あなたは、一生をかけてその罪と向き合わなくっちゃいけない。
 でも、でもね」
冷えた空気が、さらさらと薫の髪を流す。
聞こえているのかどうかも解らないその音が、剣心の耳に残る。
「だからといって血肉を分けた剣路があなたの罪の一部を被るなんて思わないで。
 わたしが苦しんでるなんて思わないで。
 わたしがあなたを選んだの。
 剣路は自分と闘ってるの。
 ・・・わたしや剣路を見損なわないで」

声が、震えた。
なるべく感情を出さないようにしてるのに、まだ未熟だと薫は己を叱咤する。
熱くなってきた目蓋の裏をごまかすように薫は剣路の頭に唇を寄せた。
・・・この温もりは、酷く安心する。
そしてそれは彼女に力を与えてくれる。

薫はゆっくりと腕を伸ばして、剣心の頬に触れた。
そして今度は体重を彼に預けるようにして、寄り添う。
ふたりに挟まれて窮屈気に、剣路が首を動かした。

「剣心」
薫の少女めいた声が、剣心の耳元で囁く。
「剣心、温かい?」
「・・・・・・かお、る・・・」
「わたしは気持ちいいよ。
 とっても・・・幸せ。
 ねえ、あなたは?」

戸惑うように彼が瞳を泳がせている気配を感じた。
彼が、こうしたまどろみに似た居心地に晒されることを、 罪悪感でもって嫌っているのは薫も知っている。
彼の過去を思えば、それは当然の反応だろう。
・・・けれど。
「ねえ、あなたは・・・幸せじゃないの?」
薫は彼の細い背に右手を落とした。
何も応えないその背中に、確かに彼の迷いが窺える。
「ねえ、あなたがわたしと同じ気持ちになるのならわたしや、剣路はとても嬉しいわ。
 だって人が、人にそんな気持ちにさせるのって―――とても素敵なことでしょ?」



幾分、剣心の重みが薫に掛かった。
彼は小さく、小さく、震えていた。



彼の震えが数瞬で消え去ったと同時に、突然剣路が不満そうに呻き声をあげた。
慌てて薫が身を起こして顔を上げた時、剣心は

微笑っていた。



それは薫の大好きな、子供のように頼り無くて、それでいて安心できる笑い顔。
吊られて、薫も破顔する。
今度は慎重に剣路が煩わないようにして、ふたりは互いを抱き締めた。
ちらちらと月明かりに反射して、柊の葉の上に融け残った雪が仄かに輝く。

人間(ひと)は真実(ほんとう)の自分の何処かに嘘をついて、 僅かに歪みながら生きてゆく。
その歪みが時に人間を剛(つよ)く、優しく、させるのかもしれない。
だから、その嘘が上手に吐けない人間(ひと)は不幸だと、薫は思った。
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