〜如月〜



ちりちりと指先が痛んだ。
まだ冷たい川の水は、両手の指にこびり付いた泥を 洗い流しながら、澄んだ響きを繰り返してゆく。

「お袋」
やや明るい髪の色の少年は片手に樒(しきみ)を数本握りしめてひょっこり顔を出した。
「あーあ、桃の花くらい、咲いてると思ったんだけどなあ」
美しい深緑の葉を揺らしながら、少年は近づいてくる。
「いいわよ、それで充分。
 贅沢な人じゃあなかったし」
彼女は濡れた両手を手拭いで包むと、にっこりと笑った。
「あれ?何してたんだよ?」
「ん、そこの角でね、つまずいて転げそうになったの。
 着物はとりあえず汚れなかったんだけど・・・手のひら一杯に泥が付いちゃって」
少年は呆れたように肩を竦めて、相変わらずどじだなあ、と呟いた。
母親は何よ、と言いたげな顔で少し頬を膨らませたが あえて文句は言わずに背中を向ける。
「じゃ、供えてこようか」
彼女は若い頃と変わらない、張りのある声で少年を促し、水の張った桶を持ってゆっくりと歩き始めた。
・・・街の外れの小さな墓所は、彼女たちの他に誰もなく、静かな空間にぽつりと 収まっている様だ。



「・・・・・・もう十年か。  長くて―――早かったよな」
苔むし始めた墓石を見下ろしながら、少年は母に語りかける。
膝を折ってぼんやり墓碑銘を眺めていた彼女はそれが聞こえているのかいないのか、 曖昧に頷くだけだ。
「極楽とか地獄とかって・・・本当にあるのかな?」
線香の煙がゆらゆらと墓石を取り巻くのを見つめながら 少年は座り込んでいる母親の背中に小声で問うた。

目の前の墓に眠る彼の父は、死ぬ直前まで多くの人々の手助けを行った。
現在(いま)でも彼の父に感謝している者は多いし、 その縁で、少年と母親に親身になってくれている者もまた多くいた。
だが少年は父親が若い頃、『人斬り抜刀斉』と呼ばれ、畏れられ、幕末をその 卓越した剣の腕で生き抜いた事も知っていた。
多くの生命を奪い、多くの生命を救い。
父の数奇な生き様は殆ど聞き及んでいたとはいえ、少年にとって父とは 想像しがたい、人物だった。

小柄で、人当たりがよくて、細かなところによく気が付く。
しかしその反面、少年が物心付いた頃には腕も衰えていたにも関わらず、 ひとたび剣を握るとその小さな身体から凄まじい抑圧を放った。
子供心にも恐ろしくて近寄ることが出来なかった。
少年の覚えている父の印象は、ちぐはぐで、まとまらない。


「・・・そういえば剣路ったら強くなるんだーってうるさかったのにこの頃は竹刀も握らなくなったのね」
剣路は、ほっそりした顔を歪めながら笑った。
「強く、なりたかったよ。
 素質はあるって弥彦さんもいってくれたし」
俯いて眉を顰めて、それでも瞳は穏やかな光を湛える剣路の表情は 父親にそっくりだと、母親は苦笑する。
「だけど大きくなってさ、親父のことがいろいろ視えるようになると・・・解らなくなるんだ。
 強くなるってどういうことなのか。
 ・・・・・・単純に、誰をも打ち負かす強さ、しか理解できなかったから」
「で、今は学問なわけね」
「答がでるかどうかわからないけど・・・これからの時代には必要だろ?」
母親はゆっくり立ち上がると嬉しそうに息子の肩を撫でた。
「―――おおきく、なったね」
剣路は面映ゆげに微笑んで、無造作に伸ばした猫っ毛を掻き上げる。
ほんとに、似てきた――――――
母親は目を細めて、眩しげに少年を見遣った。
外見だけでなく、本質的な部分も受け継いだらしい彼は 生真面目に己自身と向き合っている。
それでも。
彼は彼の父親と決定的に相容れない事実があった。

(もうすぐ、この子はあの人が初めて人を殺した年齢(とし)を・・・超える)

出来ることなら、このまま相容れないまま、生きて欲しい。
隣国との戦争が終息したばかりで、世界の均衡が不安定なこの時代に それを望むのは絵空事なのかも知れないけれど。

・・・沈黙がふたりの間に生まれて、彼女だけがその重さを感じていた。



「あら、雪」
母親が頬に落ちた冷たさに気づいて顔を上げた。
剣路も驚いたように空を振り仰ぐ。
「今頃・・・・・・
 なごり雪かな?」
ぽつぽつと顔に当たっては消えてゆく儚い固まりを母親は暫し 動かずに受け止めていた。
「・・・お父さんはきっと極楽よ」
「え?」

自分でも忘れていた質問の答に、剣路は思わず訊き返す声を上擦らせた。
母親はじっと空を仰ぎ見たまま、優しい表情(かお)で言葉を紡ぐ。
「あの人は・・・この現世(うつしよ)に生まれて以来、たくさんのモノを捧げちゃったの。
 本当に、ほんとうに・・・・・・たくさん」
何処に、何を、と問えずに剣路はただ母親の顔を見る。
彼女の目元にはうっすらと皺が増え、髪の生え際にはちらほらと白いものも混じっていたけれど 鮮やかな輝きを放つ瞳は。
まるで少女のように幼く、それでいて力強く。
「だから、天(あっち)ではきっと・・・ね」
漸く剣路を視線に捉えて、彼の見慣れた笑顔で微笑んだ。
それは彼がとても大好きな表情(かお)だったので剣路はやや高揚した 気分に包まれる。
「そ・・・っか。
 そうだね」
剣路は父のことを尊敬する事は出来ても、好きか嫌いかはよく解らずにいた。
小さな時分に亡くしてしまったのだからそれは無理のないことではあったのだけれど。
「俺、思い出したよ。
 すごく優しく笑える人だったよね」

母親は軽く彼の額を小突いて「生意気にイイコトいうじゃないの」と笑い声を上げた。
雪がどんどん辺りを覆って、敷き詰められた小石の上にうっすらと積もり出す。
「もっともっと、
 全部白く染め上げるほど降ればいいのにね―――」
「へえ。
 寒がりのくせにお袋は雪が好きなんだ?」

からかう息子に、柔らかく微笑み応えながら。
彼女は望む。





白く白く、総てを強引に包み込んで。
何もかもひとつの色に染め変えて。



そうすれば。

この現世(せかい)がそうなっていてくれれば。
人間(ひと)は神に祈ることもなく、捧げることもなく、逆らうこともなく。

この現世(せかい)がそうなっていてくれれば。
―――あの人はまだ傍にいてくれたかも知れなかったのに。





幼子のように無茶で、
疲れた老人のように昏(くら)く、



そして疾うに意味の無くなってしまった願いを。







傍らの息子に秘したまま、
彼女は繰り返した。
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