〜師走〜



ああ、氷の上を歩いているようだ、と住職は冷え切った床をきしきしと鳴らして 縁側へ出た。
かさついた頬を容赦なく夜の寒気がなぶって、水分が抜けきってあかぎれた、枯れ枝のような 指を擦りつけてみる。
ふと石段の方を見遣ると 低温の大気の中で、冴えた月の明かりが、ぼんやりと黒い影を映しだしていた。

(おや、あれは・・・)

細い肩と、夜目にもわかる赤茶けた髪と、まだ痛々しげに紅く切り刻まれた顔の傷は ひと月やそこらで忘れられるものではない。
―――いや、あの夜のことはこれからどんなに長生きしても忘れることは ないだろう。
住職は濁り始めた目をしょぼしょぼと瞬かせて、軽く呻いた。
影はその小さな音に気が付いて、戸惑うように視線を泳がせたが、 やがて決意したようにゆっくりと頭を下げた。

「・・・夜分済みません」
「お久しゅう」

ぶっきらぼうではあるが、真摯な彼の態度に住職は安堵しながら 微笑みかけた。
「寒いでしょう?
 あったかいお茶でも飲んでゆきなさい」
「い、いえ。
 そんな大した用じゃないですから」
ほっほっと、笑い声を漏らして住職はそのまま踵を返して部屋へ入ってゆく。
彼は仕方なさそうに肩で軽く溜息をついて、その後を追った。
小さな、寂れた寺のつぎはぎだらけの障子に、ぼうっとふたつの影が浮かび上がった。





それは大晦(おおつごもり)を目前にしていた夜。
どこの寺社も、新年の支度でばたばたしているというのに、 風変わりな住職のこの寺だけは妙にいつも通りで。
陽が落ちれば早々に障子を閉め、日課の経を上げ、住職が 眠りに就く前の楽しみである茶菓子に手を付けようとしていた、その時。

彼と、『彼女』は来訪したのだ。



驚いた。
普段、物事に動じないつもりだった住職も、その姿を見て言葉を失った。
雪と土でどろどろになった若い・・・まだ少年といってもいいくらいの 侍が、俯いて立っていた。
よく見れば身体中に裂傷を抱え、左の頬からはたらたらと鮮血が滴り落ちている。
きな臭さも微かに漂い、軽い火傷も負っているようだった。
「お前さん、一体どうし・・・」
声を掛けようとして、漸く彼が両腕に抱えている大きな白いものに気が付いた。
真っ白な布に覆われているそれは、所々に赤黒い染みを大きく滲ませている。
ぼろぼろで下を向いたままの彼の首から鎖骨にかけて、長い黒髪が幾筋も流れていた。

「・・・仏さんか・・・」
乾いた唇をざらりと舐めて住職はそれだけ言うのがやっとだった。
彼は小さく頷くと「お願いします」と血の跡がこびり付いた唇を開いた。



震えて、掠れた、その声は寒さからではなく。
その頬を汚しているのは血液だけでなく。



「ああ・・・」
住職は膝を折り、『彼女』を受け取った。
冷たく重いそれを、彼は名残惜しげに腕から解放する。
「ついておいで」
住職は子供に声を掛けるように優しく彼を促した。
その時、やっと彼は顔を上げた。

どのくらい、泣いていたのか。
どのくらい、声をあげたのか。
どのくらい、体温が消えてゆく『彼女』を抱き竦めていたのか。

うろんな瞳に住職の影を映す、彼の血塗れの頬を、住職は 己の袂でそっと拭ってやった。



『彼女』の身体を清めた後、住職は縁に座り込んだままの彼に 声を掛けた。
「おいで。
 お前さんの傷の手当てもしよう」
新月で、星だけが妙に明るい空からちらちらと白いものが舞い落ちてくる。
「・・・おいで」
彼の酷く疲れたような肩に、皺の深い指を置いた。
冷え切った彼の身体が小さく身動いで、振り向いた蒼白い顔はまるで病人のようだった。
彼はふるりと首を振り、ぎこちなく立ち上がるとそのまま『彼女』の傍へ 歩いてゆく。

汚れを落とし、髪を梳り、うすく紅を掃いた唇が、『彼女』の眠りを 少し安らかにしてくれたようで。
ようやっと安心したように彼は眉を下げた。
そうして、『彼女』の頬に乾いた血と泥にまみれた掌を当てようとして、ためらい、座り込んだまま 『彼女』を見つめるばかりだ。

さらさらと平べったい風花が、すり切れた畳の上に迷い込む。
部屋の隙間を出来るだけ塞いで、住職は火桶を彼の傍へ運んでやった。
よっこらせと口の中で呟いて、斜め前の彼の顔を伺うように左眉を上げる。

「・・・だ」

己の膝頭を握り締めて、深く項垂れたまま、彼は小さく繰り返していた。

「・・・人間の神さまなんて、出来損ないだ」

(―――観音さまの前でそう言われてもな、あ?)
住職は軽く溜息をついて、しおしおと目蓋を数回動かし・・・そして痩せた指で 彼の手を掴んだ。
雪に灼けて、赤く腫れ上がった彼のそれを、住職は包み込むように 両手で覆い、ゆるゆると摩(さす)ってゆく。
彼はその時初めて住職に気が付いたように目を瞠った。

「何も、訊かないんですか?」
彼は力無い声でそう問うた。
住職はちらと『彼女』に目を遣り、それから彼を見上げる。
「袈裟懸けに斬られたのに、こんな安らいだ顔をしとる。
 ―――お前さんはそんなに自分を責めるんじゃあないよ」

彼はこくり、と喉を鳴らしてそれから肩を震わせた。
まるで水に沈んでゆくように、柔らかく身体が崩れて。

『彼女』から、住職から、
逃れるように両手で顔を隠した。





「これを預かってほしいと?」

手垢にまみれ、使い込まれた綴り和紙を渡されて、住職は訊き返す。
彼は小さく頷いて、それからするりと立ち上がった。
「・・・彼女の、日記帳なんです。
 俺が持てる物じゃないですから」
口元を歪めて笑ったその顔に、自分自身への蔑みが見て取れた。
「お前さん、これは読んだのかい?」
「いえ。一部分しか知りません」
「いいのか?・・・『解って』やらなくていいのかい?」
「なにを、ですか?」

彼女の許嫁を斬った俺に。
彼女を復讐に駆り立てた俺に。
彼女を、斬った俺に。
なにを・・・『知れ』と?

彼は叫びたい衝動を抑えるために口元を指で隠した。
そして呼吸を落ち着かせて、踵を返しながら吐き捨てる。
「―――俺は、こわいんです」
からりと障子を開け放して そのまま振り返らずに、冷たい夜の闇に消えてゆく。

しまった、と思った。



彼は今も、あの時も、誰かに責めてほしかったのではないか。
彼を中途半端なまま、行かせてしまって良いのだろうか。
『彼女』も自分もそして彼の周りの誰かも、何かを言い忘れてはいないだろうか。



「人間の神さまなんて、出来損ないだ」
(死ぬべきは、彼女でなく、俺だった)
「俺は、こわいんです」
(俺の為に消える生命を見るのは、こわい)
(俺は、そんな人間じゃない)
(汚れてる)
(間違ってる)
(出来損ない)



もやもやした思いを抱えて、住職は星明かりの下に佇んだ。
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