思ったより早く限界が来た。

両手を握り締めようとするがうまく力が入らない。
こんな無様な姿を誰にも見られたくなくて 重い足を引きずるようにして街道を反れ、獣道に向かう。

ほんの少し分け入ったところでこれ以上動けなくなり 大きな樹の根元に崩れるように腰を降ろした。

視界が昏いのは太陽が隠れただけではないのだろう。
剣心は感覚の薄れてゆく己の手のひらをぼんやりと見つめた。
「ここまでか・・・」


頬を撫でる空気が幽かに揺れた。
はらはらと木の葉でも散っているのか。
季節は晩秋といってもいい。
山の深いところでは樹々が多様な衣を纏い始めている。
だがすでに剣心の瞳は殆ど何も映さなくなってきていた。

息を浅く長く吸い込む。
瞼を閉じるとリボンのよく似合う愛らしい少女を思い浮かべた。

(・・・薫・・・また泣いているだろうか・・・)

今度はさよならも言わずに黙って姿を消してしまった。
一度は共に生きることも考えたのに。





左之助が海外へ行くのを見送ってすぐのことだった。
自分の体調が思わしくないことに気付いたのは。

恵が言っていた以上に身体の変調は進んでいたのだろうか?
それとも他の何かの病気だったのか?
どちらにしろあまり長くは保たないだろうと感じた。
そしていつの間にか、死ぬときは独りで逝きたい という考えが頭から離れなくなった。

――薫にも弥彦にも告げられない。
己の死も、己の願いも。
だから黙って姿を消したのだ。
どんなに彼らが悲しみ、怒り、そして情けなく思うか・・・わかっていても 最期に剣心は彼らより自分を優先させてしまったのだ。
左之助がいたら今度は殴られるだけでは到底済まされなかっただろう。


(何故かな・・・。
 とても居心地がよかったのに。
 どうしてこんなことになった時、独りを選んだのだろう・・・)

泣かれるのは、辛い。
それに自分が死ぬ、ということよりも
いなくなった、という方が薫たちの衝撃も少ないだろう。

だが。

本音は違っていた。
剣心は『死』を前に彼らと幸せに過ごすことが堪らなかったのだ。
・・・『幸せ』がとても怖かったのだ・・・。



あの時。
巴の日記を読んだとき。

はじめて犯してきた罪の、本当の大きさに気がついて その罪を消そうと剣心は足掻いてきた。
・・・罪を償うのではなく、消し去ろうとした。

他人(ひと)には偉そうに説いておきながらその実、 自分はそのことを自覚すらしていなかったのだ。

だから薫が殺されたと思ったとき、もう立ち上がれなくなっていた。

犯した罪は消えない。
べったりと張り付いている。
これが、その証拠。
そのことに絶望した。

自分は今まで一体何のために足掻いてきたのか。
愚かだった。
・・・罪を背負ったまま生きて行かねばならないのは、 当たり前のことだったのに。


それでもなんとか絶望の淵で彼は答を導き出した。
それは剣で産みだした罪は 剣で償うこと、だった。

少しでも多くの人を助けたい―――小さな救いにしかならなくても、 誰かのために剣を振るいたい―――。



ところがどうだろう。
既に自分が剣を振るえなくなっていると分かったとき、 神谷道場(あそこ)に居続けることが苦痛になった。
怖くてとにかく逃げ出したくなった。
・・・罪を償い続けることが出来なくなったからか。
それとも。


(もしかしたら)

剣心は苦い結論を導き出した。

今まで10年間、自分が『るろうに』として生きてきたことは ただのごまかしだったのかもしれない・・・。

彼は『るろうに』として生きてゆくためにまず言葉遣いを変えた。
よく笑うようになったし、おどけることも多々あった。
そうしてそれが自分の本来の性質だと思ってきた。
『人斬り抜刀斎』は時代が生んだ歪んだ存在であり、 己の真実ではない、と。

しかし『るろうに』としての剣心は自分が想像していた、ただの理想 だったのかもしれない。
これが本来の自分だと思いこんで演じてきただけだったのかもしれないのだ。

(闘えない、誰も、自分も守れない。
 だがそんな自分は見せたくない。
 誰かにそんな態を晒すのなら、
   “独りで死にたい”。
 ・・・これは『人斬り抜刀斎』の思考じゃないか?)

奥義を得て封印したはずの『人斬り』が、 死を間近に控えて殻を破って表へ出てきたのか。
そして俺はそんな自分が、怖ろしくなったのか・・・。


細い肩が震える。
嘲笑っているのだ。


誰も頼りにしなかった。
誰も信じていなかった。
自分が定義した『正義』だけを遂行していた、あの頃。
だけど『天誅』の言葉を借りて、
人斬りを楽しんでたんじゃないのか?

・・・そうだ、闘いに興じていたことも
たしかに、あった・・・



記憶の澱みから一人の男が浮かんでくる。
斉藤一。
かつての宿敵。
今も、そしてこれからも『悪・即・斬』のもと剣を振るう男。

(お前がうらやましかったな・・・)

過去も現在もあの男の中ではひとつに繋がっている。
あの自信。あの不敵な笑み。
剣心のように自分を変えたいなどと更々あの男は考えなかったはずだ。
背負っていけるものの大きさが元から違ってしまっているのか。

(駄目だな)
・・・思考がどんどんと錯綜してゆく・・・
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