俯くと首筋にひんやりと何かが触れた。
木の葉かと思い、確かめようとしたが すでに微塵の力も入らない。
うっすらと目を開けると白くて小さなものが舞っている。

(・・・ゆき・・・・?
 幻・・・なのか・・・・・)


雪が舞う。
あの日と同じに。
最愛の人を失ったときと同じに。

「・・・と、もえ・・・」

声は掠れて空気が喉を通るだけだ。
けれどその呼びかけに応えるように紫の肩掛けを羽織った少女が 目の前に佇んでいる。
「巴・・・」


緋村巴。

もう存在しないはずの彼女。
変わらない姿。
あの時のまま。
十八の少女の姿のまま。時を止めて。
前回の夢と同じく、じっと自分を見下ろしている。
哀しそうに。



こんな時に遭いたくはなかった。
座り込んで動かない自分を見て巴は今きっと悲しんでいるだろう。
巴のそんな顔は今は見たくなかった。

人を斬ることに倦んでいたとき、彼女自身を失ったとき、落人群で蹲っていたとき・・・
その度に彼女の笑顔に支えてもらったというのに。
だのにまた俺はこうして無様に動けないでいる。
悲しむどころかむしろ彼女に呆れ返られても至極当たり前なのだ。

剣心は深く項垂れた。小さな声で巴の影像(かげ)に謝罪する。

「ごめん・・・、俺、
 ・・・もう立ち上がれないよ」

口調が十代の頃に戻っていた。
が、本人はそれに気付いていない。

「・・・薫にも謝らないと。
 『俺は俺だ』って言ってくれたのに。
 るろうにの俺に側にいて欲しいと言ってくれたのに。
  それなのに俺は俺が怖くて。・・・信じられなくて。
 俺の真実は薫の恐れてる『人斬り』かもしれないから。

 ・・・だからこうやって逃げ出して、こっそり逝こうとしてる。
 俺は俺が・・・嫌いだ・・・」

巴はゆっくりと膝を折って剣心と同じ目線の高さになった。
白くて細い指先を冷たくなった彼の頬に優しく沿わせる。

「・・・あなたの弱さも脆さもわかってます。
 確かにあなたは幾度も間違った。
 でも迷いながらそれでも前へと歩いてきたあなたが
 ・・・・・私は好きですよ」

思いも掛けない言葉に信じられないといった表情をして 剣心は彼女を見つめた。

「今、こうして疲れて動けない俺を
 ・・・君は叱咤しないのか?」

まるで肩すかしを食わされたような、そんな剣心をみて おかしそうに、それでも愛おしそうに巴は微笑んだ。
「あなたはひとりで抱え込みすぎます」

そして少し首を傾げて剣心の唇に右の人差し指を落とす。
その表情(かお)は凪いだ海を思わせた。

「あなたはとうに独りじゃないのに。
 何故ならあなたの傷みは
 私や、あなたが置いてきた娘(こ)や、あなたを友とする者の傷みに なるのだから・・・
 あなたはもう、ひとりで怖がることはないのですよ?」



長いこと剣心は微動だにせず巴を見つめていた。

やがて剣心の色素の薄い瞳から光る雫が溢れ始める。
その凍った身体をゆっくりと溶かしていくように
温かな液体が頬をつたい、顎までおりてそして零れて胸元を濡らす。

剣心はゆるゆると巴の方に手を差し出して、 そのまま倒れ込むように彼女の胸の中に沈んだ。
喉を鳴らして短く笑うと、あどけない顔になった。

「そう・・・だとしたら・・・どこまでも“阿呆”だな、俺は・・・。
 また、間違えた・・・・・」


巴は剣心を暖めるように抱いた。
これ程寄り添いながら白梅香の香りがしないことも 不思議には思わない。

「・・・こうしていられるだけでいいんです・・・。
 人斬り抜刀斎も、臆病なあなたも、あなたの恐れや後悔も
 全て、抱いてあげられる・・・・・」 

心に染み通る声。
止まらない涙が、巴の膝を濡らしてゆく。

彼女がこんな自分に向けてくれる優しさが切なくて堪らなかった。
そして寄り添うだけでこれ程癒されてゆく自身が驚きだった。

「いいのかな、こんなに甘やかされて・・・」

あまりの居心地の良さに何故だか気が引けてぽつりと呟く。
ずっと剣心の髪を梳いていた巴の手が瞬間動きを止めて、 すっと冷たくなったようだった。

「・・・?」

剣心は朧気な記憶を辿る。
そうして思い当たった事実に苦笑した。

「そうか・・・、もう俺には時間(とき)が残されていなかったな・・・」

まるで、他人事のようだった。
剣心はわずかしか動かない左手に巴の黒髪を絡ませて唇を寄せた。

巴は再びゆっくりと彼の髪を梳きだした。



「・・・それでも」
思いついたように剣心は彼女に話しかけた。

それでもやっとわかったことがある。

自分は、幸せだった。
そう、言い切れるほどの人々と自分は出逢えた――――



雪が、降る。
白くて、きれいな。
自分を消してくれる。
こんなきれいな色に覆われるなんて思わなかった。
とても閑かで。
君が、いてくれて。






「・・・・・」

少しだけ紅く色づいた白い花びらが降り注ぐ。
月と星の明かりしかない闇の中でその樹だけがぽっかりと 浮かんで見えた。

「狂い咲きか・・・」

斉藤は煙草を投げ捨てるとぎゅっと踏みつぶした。
「だがこの山桜が狂っていなければここに 足を踏み入れてこいつを見つけることはなかったな・・・」

そうして根元で倒れている死体を見遣る。

浦村署長から姿を消したという話はまわってきていた。
ある事件でこの近くまできたらたまたま見掛けたという 情報が入り、 ついでに探索していたら・・・この有様だ。
まさか見つけることになろうとは思いもしなかった。

「・・・よくよく因縁があるんだな」

両の手袋を外し、側によって屈み込むと頬についている数枚の花弁を 除けてやる。
細くて赤い髪を右手で掻き上げ、その顔を見た。
まるで、眠っているようだ。



「匂うはずのない桜の香に酔ったか。

 ・・・阿呆が」



言葉が闇に吸われて静謐が訪れた。
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