- 参 -


ぱしゃ

ぱしゃ

真夜中に、何度も水の撥ねる音。
・・・またあの人が手を洗っている。
たった今、幾つかの命の火をその手で消し去ったのだ。
その度にあの人は拭えるはずのないものを拭おうとする。

とうに私の気配を知りながら振り向こうとはしない。

「このままずっと
 人を殺め続けるつもりですか?」

おそらく彼は私の台詞を予期していたのだろう。
手洗い桶から視線を動かそうとはしなかった。
ただ一瞬動きを止めてまた手を洗う。
私もそれ以上はなにも言わずにその場を立ち去った。

暗くて重い闇が後に残った。


清里明良。
私と結婚の約束を交わした人。
私のために『一廉の武士として認められたい』といって 京都見廻組に入って

そして抜刀斎に殺された・・・・・。

あの人斬りは清里さまを斬った後もこうして手を洗ったのだろうか。
何度も。何度も。


その夜も彼は出ていった。
他にすることもなくて針と糸を取る。
白い糸を通した針を運びながらふといつも彼が寄りかかっている場所を見た。
小さな身体。
きっと明良さまより頭半分ほど低い。
腕も細くてよく剣を使いこなせるものだと感心する。
色素の薄い髪、薄い瞳、
ああでも表情はきっと私より豊かだ・・・。
ぼんやり考えていると誰かが襖を軽く叩いた。

「夜分失礼」

彼は人斬り抜刀斎の上役だと名乗った。
抜刀斎の仕事は全て把握していると。
・・・桂小五郎。
すぐにわかった。
長州藩の若き指導者。そして人斬りを造った男。

にこにこと人の良さそうな笑顔で桂は腰を下ろす。
私は頭の片隅でこの人こそ元凶かもしれないと思いながら 湯飲みに茶を注ぐ。

「・・・緋村には凶の正義の先鋒を務めてもらっている」
最初は長州藩の話だったが、やがてあの人の名前が出た。
桂は私の目をじっと見て逸らさない。
「最も苛酷な役割だ」
・・・こんな時私は己の表情の乏しさに感謝する。
そう、私は動揺していた。この人は何のためにここに来たのか。
声音が高ぶるのを抑えて言葉を紡ぐ。
「・・・それで?  私に何を務めさせようとお考えなのですか?」
桂は小さくため息をつくと部屋を出ていった。
ただ私に自分たちのやっていることを理解してもらいたかったと言い残して。

凶の正義。
狂うのも厭わないほど極めた正義。
狂った正義は果たして正義なの?
それとも狂っているのは人間の方?
あの人は・・・狂っているの?
そして私は・・・?

桂は私に抜刀斎を理解しろというのだろうか。
幾人も幾人も殺したあの人を。
私の大切な人を斬り捨てた、あの人を。
・・・どうして私に、そんなことを言うの?・・・。


祇園祭の近づいた夕方、仕事を終えて部屋に戻ると珍しくあの人が うたた寝していた。
夕陽に染まって赤い髪が燃えるようだ。
こうしてみると本当に幼い顔をしている。
十五・・・十六? いつも刀を抱いて。
そうしないと片時も眠れないように。

肩掛けをそっとはずして彼に掛けようとした。

その時。

彼は眼を見開いた。
人を竦ませる眼光。
次の瞬間、首筋に冷たい刃を感じてやっと何が起きたか理解した。
そして強く突き飛ばされる。

・・・彼は肩で荒く息をしていた。
自分自身で止めることの出来ないもう一人の自分に怯えるように。

「・・・すまない」

絞り出された声。
「市井の人は斬らないと大口叩いたところで今の俺は この有
 様・・・。
 もう出ていってくれ。でないと俺は」
深く頭(こうべ)を垂れる。
「俺は、いずれ本当に、」
左手で、刀を持っている自分の右手首をきつくきつく握る。
「・・・君、を・・・」

苦しいのね。

苦しくて息ができないの?

あなたはばかね。
時代を変えたくて刀を血に染めて
そして自分がどれ程傷つくかわからなかった。
明良さまはばかね。
私はあなたと二人、生きて行ければ幸せだった。
出世なんて私には何の価値もなかったのに。
私はばかね。
小さな弟と父親を残してただ憎しみだけを抱いて。
ひとこと、ほんの一言でいい、自分の心を明良さまに伝えていたなら
こんなことにならなかったのに。
私はばかね。
・・・そうしたら貴男に出逢うこともなかったのに。

黙ったまま私は彼の膝に肩掛けを掛ける。
彼は呆気にとられて自分の膝を見つめる。

「もうしばらくここに居させて頂きます。
 今のあなたには狂気を抑える鞘が必要ですから・・・」

彼は動かない。
まるで金縛りに遭ったようだ。
やがて左手で膝の上の布をぎゅっと握りしめるとぽつりと口を開く。

「ずっと前の問の答え・・・・・
 君が刀を手にしたら斬るか否か・・・」
遠い空で烏が鳴き声をあげる。

「答えは『斬らない』」

彼の言葉だけが水面に波紋をつくる、静かな時。

「俺は斬らない。
 どんなコトがあろうと君だけは絶対に斬ったりしない・・・」


私がもう少しここに居ると言ったのは当初の目的の為だったのか。
それとも。
胸の鼓動が早くなる。
多分顔も赤いに違いない。
傾く陽の光が顔を照らしていることに感謝する。

今度は彼は私の顔を見据えて言った。
「君だけは・・・絶対に・・・」

両手を伸ばして彼の頭を優しく抱えた。
初めて、彼に自分から触れた。
彼は驚いて身を強ばらせたけれどやがて迷い子が 母親を見つけたような顔をした。
そうして私の身体を抱きしめる。

殺意の固まりだった私は刀の鞘になんかなれない。
自分を許せなくてあなたを許せなくて憎悪に支配されるまま 人殺したちの仲間になった、私には。

あなたも私も抜き身の刃。

でも少しでもあなたを正気に繋ぎ止めてあげられるなら・・・。

陽が暮れる。
京都(ここ)へ来て
憎しみを忘れた最初の夜。
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