- 弐 -


なにかにつまずいて転んだ。
私は泣いていいのか、驚いていいのかわからなくて 戸惑っていた。
「しようがないなぁ、巴ちゃんは」
優しく笑いながら手を差し伸べてくれる人。
とても懐かしくて泣きそうになる。

「あき・・・」

そこで幸せな夢は途切れた。



かすかな寝息が聞こえた。
ゆっくりと目を開くとあの人が居た。
一瞬全身に緊張が走る。
が次の瞬間に全てを思い出した。

(・・・己の隠れ家にまで連れてきてくれた・・・)

刀を抱いたまま眠る少年。
どろどろとした負の喜びの感情が私を支配する。
ここまではうまくいった。
きっとこれからもうまくやってみせる。
きっと・・・その生命、絶やしてあげる・・・。

その隠れ家、 『小萩屋』という旅館は長州の志士たちの拠点の一つのようだった。
私があの人のそばにいるためにはある程度都合よく思えた。

「ここから出ていって欲しい」

旅館の仕事を一通り手伝って 遅い朝食を摂っている私に彼は部屋に入るなり声をかけてきた。
聞こえない振りをして問い返す。
「はい?」
「だから・・・夕べ見たコトを一切忘れると誓ってここからさっさと去って欲しい」

家の者が心配するからとその人は言う。
なにを今更。
全てを引き換えてでも私の憎しみをあなたにぶつけにきたのに。
ついいらいらして思わず言い放つ。

「では、私を始末しますか?昨晩の黒いおサムライの様に」

彼の瞳が急に暗い色に変わった。
声が少し低くなる。
「・・・市井の人はもちろん敵であっても刀を持たぬ者は 絶対に斬りはしない」
正義面した答え。本当に幼稚で歪んでいる。
私は反射的に問い返した。
「刀のあるなしで斬り殺していい人と悪い人・・・ですか?」
そしてすぐ二の句を次いだ。

「ではもし私がこの場で刀を手にすれば
 あなたは私を・・・・・」

彼の肩がかすかに揺れた。
赤い髪がさらりと音をたてる。
「・・・それは・・・」

ほら、言葉に詰まった。
視線が答えを探して宙を彷徨う。

私は立ち上がり襖を開く。
「いずれ・・・答えが見つかりましたら是非聞かせてくださいませ」

彼はまだ何か言っていたがそんなことはもうどうでも良かった。

・・・あなたにはわからない。
あなたはまだ気づいてない。
わたしが教えてあげる。
この裡にある醜い感情を。




彼は時々ふと考え込む様になった。
私の問いかけに対する答えを探しているのだろうか。
あれから私に出ていけとは言わないし、邪険に扱うこともない。
ひとつの部屋でただ単に共に寝起きするだけ。
彼は私をどう思っているのだろう?

「・・・明日はそれ使わないでください」
「え?」
「その着物。繕っておきますから別のを着てくださいね」
相手はただ戸惑って己の着物に目を落とす。
「・・・もっとも どの着物も似たり寄ったりみたいですけど」

つい私はきつい言葉を浴びせてしまうが 彼はあまりそのことに気づいてないようだった。

「でも、巴さん」
「いいんです、暇ですから」
気圧されたように彼は言葉無く頷いた。
私は立ち上がって彼に背を向けたとき初めて彼が私の名を呼んだことに気づく。
振り向いて何か言おうとしたけれど、 言葉が見つからなくて振り向けなかった。


あの、出逢った夜を除いては 彼はごく普通の人にみえた。
抑えてはいるけれど彼の怒ったり、照れたり、戸惑ったりしている 気持ちの波が私には感じられた。
人斬り抜刀斎は鬼ではなく人間(ひと)、だった。
人間(ひと)ならば、か弱い女でも彼を傷つけることが可能だ。

・・・そう、心を傷つけることが。

右手がそっと懐剣に触れる。

でも私が望んだのは・・・・・
[Next] [るろ剣 Index]