「坊ちゃん、坊ちゃん・・・」



まるで壊れたからくり人形のように、その言葉しか羅列できなかった。

―――だらりと横たわる二体の躯。
開いて固まったままの瞳は空洞。
叫ぼうとして動きを永遠に止めた口。



「坊ちゃん、坊ちゃん、坊ちゃん」

少年は赤茶けた髪をさらりと揺らして振り向いた。
「なあ、多恵。
 防腐剤でも大量に挿れとけばこいつら保つかなあ?
 さすがに表向きは“死んで”もらっちゃ困るし」



あどけない、綺麗な顔で。
彼は笑う。
震えの止まらない両の指先をくしゃくしゃと何度も胸元で絡めながら。
多恵は白髪の混じりだした頭を縦に振った。





何匹、何種類の蝉が鳴き喚いているのか。
じっとりした湿気と相俟って、不愉快極まりなかった。
額と首筋にべたつく長めの黒髪を掻き上げて。
窓にもたれて、ぼんやりと煙草を吸う。

「ちょっと!」
がらっと襖を開けて気っ風のいい娘がはたきを持って入ってきた。
ずかずかとデリカシーのない歩き方で彼の傍に来る。
「若い男がいくら暑いからって昼間っからうだうだして!
 夜朝までうろうろしてるからそうなるんじゃないの?」
頭の真上にまん丸髷を結って、大きな目を吊り上げて。
きゃんきゃんと仔犬のように捲し立てる。
「・・・・・・」
面倒なので何も言わずにいると、ぱたぱたと本棚をはたきだした。
「ああ、ああ!
 まったくもう!!
 どうしてこんなヤツ・・・!」
「こんなヤツがどうかしたのか?」
娘は一瞬動きをぴたりと止めたが。
振り返りもせずに再びせっせとはたきを動かし始めた。
「・・・ふん!何でもないわよ」
「・・・・・・」

くっくっくっと魔実也は細い肩を揺らして笑った。
この下宿先は居心地が良い。
街並みも、おきゃんな大家の娘も。
せっせとはたきをかける小柄の娘の背中を一瞥して、魔実也は再び頬杖をして窓の外を見遣った。

――・・・ン

リィ・・・・・・ン・・・

リィーン・・・リ・・・ン

「風鈴でも吊してるのか?」
「え?そりゃ下の軒先にあるけど。
 風もないのによくわかったわね」

瞬時に魔実也の漆黒の瞳が細められる。
さっきまでだらだらしていた面影が消し飛んで、彼の躯の周りに薄い冷気の膜すら感じさせた。
娘はそれを怖がる風ではなかったが、それでも訝しげに眉を寄せる。

リィー・・・ン

リーーーーィーーーン

魔実也はすくりと立ち上がり、畳に放り出していた鍔の広い黒の帽子を掴んだ。
「ちょ、ちょっと!」
「野暮用が出来た」
娘の声に、背を向けたまま素っ気なく言い放つ。
使い込まれて黒くなった木造の階段をするすると駆け下りた。
これから出くわすであろう人物を思い浮かべ、げんなりする。
「まさか、だな―――」



それはもう見事な腰までの緑の黒髪が。
歩く度にさらりさらりと揺れていた。
目が覚めるような白い膚(はだ)。
切れ長でぱっちりした瞳は烏珠(ぬばたま)のよう。
唇だけが妙に紅くて、それだけに艶めかしい。
この暑い最中、きっちりと青い小花をあしらった付け下げ小紋を着て。
ゆらゆら光かげろう東京の下町を歩く。

「・・・なんてせせこましくて、小汚い所かしら」
少女はまたさらりと黒髪を揺らして呟いた。
と。
「まったくおまえには似合わないな」
背後からいきなり声が響く。
―――振り向かなくても解る。
素っ気ない声の主の、素っ気ない表情まで。
手に取るように。

少女は笑った。
真っ赤な唇が、華やかな曲線を描いた。

「わたしの『音』が聞こえたのね」
「残念ながら」

硬質で投げつけられるような彼の返答に。
ほほほ、と優雅に口元を白い指先で覆って。
少女はくるりと躰を翻した。

「お久しぶり。
 魔実也さん」

じーっ
じーっ
かなかな
かなかな
じーっ

炎天下で、黒スーツの男と小紋の少女が対面する。
どちらもはっとするほどの容貌なので、目立つことこの上ない。

「・・・ああ、日傘を忘れるなんて」

暫し視線を絡め合ったあと。
少女はぱたぱたと手を団扇代わりに動かす。
ちらっと魔実也を見上げるその眼差しは、艶も甘えもなく。
どちらかといえば挑戦的ですらあった。

僅かに右眉を動かして。
「場所を変えよう」と魔実也が応える。
にっこりと少女が笑い。
リーン、と『音』がまた響いた。





「あらまあ!
 今日はえらい別嬪さん連れで!!」

顔立ちは派手だが、どこか愛嬌のある女がばたばたと店の奥から出てきた。
「開店前で何も出来ませんけど」
魔実也の隣りに立つ少女へ頭の先から足の爪先まで素早く視線を廻らせながら、女は慣れた様子で隅のテーブルへと案内する。
「ありがとうございます」
優雅な物腰で少女が丁寧に頭を下げると、女は僅かに顔を赤らめて。
それでもしっかりと営業用の微笑みを忘れずに「いいえ、お得意さまですから」と返答する。
それから魔実也へもしっかり笑い顔を向けて、忙しく厨房へ入っていった。

「・・・常連なのね」
「まあ、な」
「泣き黒子がかわいい女性(かた)ね」
「まあ、な」

店の中の照明はまだ半分ほどしか点いておらず、隅のテーブルは半分暗がりに沈んでいる。
魔実也と少女はテーブルを挟み、向かい合いように腰掛けた。
魔実也は慣れたように酒瓶を掴み。
少女はややばらけた黒髪を背へと流す。
お互いの所作が殆ど無音で行われるので、もし近くに人が居たら奇妙に感じるかもしれない。

「寄せ笛・・・健在なんだな」
魔実也がグラスへ酒を注ぎながら口を開いた。
「お祖母様がいい顔しないから、普段は“鳴らさない”けれどね」
小さく首を傾げて、ふう、と溜め息を吐く。
くくっと喉を震わせて魔実也がこくりと酒を嚥下する。
「―――当たり前だろう。
 防人になる人間が自ら妖(あや)しの類を呼び込むようじゃ、な」
「あら、貴方よりはマシだと思うけれど」
肩を竦めて、魔実也がにやりと笑った。
「それは酷い物言いだな。
 殊勝にも根無し草のような生活を送ってるのに」
「・・・物は言い様だわね」
呆れ果てたように少女は緩やかに首を横に振った。

彼は昔からそうだ。
闇や異界から“こちら”へ渡ってくるモノたちを、防ぎ滅す役目を持つ夢幻一族の中で。
唯独り、闇の住人となることの出来る者。
一族の異端者。
それを気にする風もなく飄々と、そして貪欲に生きる・・・人間。
少女は軽く目蓋を閉じた。
夢幻魔実也の考察をしたからといって詮無いことだ。
こんな男とはなるたけ関わらないに限る。
なのに、これから切り出さねばならない用件はそれに見事に反するのだ。

「・・・埒があかないから本題に入るわ」
「聞きたくないはないが、伺おうか」

少女はきちんとした姿勢のまま、今度は煙草を喫もうとしている魔実也を見て小さく愚痴った。
「まったく、貴方って人間(ひと)は・・・」
聞こえているのかいないのか、魔実也は器用にマッチを擦って煙草を点した。
本当に喰えない男だ。
「―――まずこの新聞の切り抜きを見て頂戴」
少女は手に持っていた巾着から何枚かの紙片を取り出した。
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