がさがさと小動物が茂みを揺らす。

ばらばら、
ばらばら

漆喰が頭や肩に降りかかった。
直ぐ真横の壁に大きく亀裂が入っている。
ひとつ隣の部屋にいたら確実に大怪我ものだろう。
館の持ち主である男は信じがたいものを立て続けに見たせいか頬の筋肉をぴくぴくとさせているだけだ。
それでも声を上げなかったのはさすが、と云うべきだろう。
「・・・結構上等な着物なのに」
那由子はけほん、と咽(むせ)びながら立ち上がった。
呆れたように周りを見渡し、那由子は新たに壊れた窓枠越しに月を見た。

先ほどまでそこに浮かんでいた少年の姿は疾うにない。
大きな月が、青白く輝くばかり。
「・・・あっちへ行ったのね」
やれやれとため息を吐く。
自分の役目はここまでだ。
相手がどちらに現れるか解らなかったから、こちらが『二手』でなければならなかった、それだけのこと。
それにしても。
なんと掴み所のない子どもだろう。
那由子は我知らず厳しい視線で、先程まで暁彦の浮かんでいた空間を見上げた。
何の造作もなく、あれ程の力を使いこなす。
「・・・・・・」
気分が悪かった。
深く考えることもしないで、あんな子どもが。
人間(ひと)を殺す。

(化け物)

不意に、刀自の顔が浮かんだのは―――何故なのか。
魔実也を見張れ、と口癖のように呟く、老婆の表情(かお)を。

「終わったのだろうか?」
男が立ち尽くす那由子にしびれを切らしたのか、話しかけてきた。
「・・・わたしはもう狙われないのだろうか?」

那由子はゆっくりと振り向き、艶やかに笑顔を作る。
「さあ、なんとも云えません。
 これからどう転ぶか・・・わたしにもさっぱり」
「・・・はは、そうか・・・さも、あらん」
男はがくりと肩を落として、それでも人の好さそうな顔で笑う。
那由子はそれを見て、本当に微笑んでみせた。



「とりあえず彼の興味はこちらから逸れた、
 と判断できますわ」





多恵はずっと震えていた。
魔実也はただそれを眺めている。

この男。
何を考えているのか。
わからなくて、恐ろしい。
まるで。
まるで。
坊ちゃんと向き合っているかのよう。

これ以上の沈黙には耐えられそうもない。
多恵は逃げだそうと踵(きびす)を返しかけた。
その時、ひゅっと目の前を小さな物体が掠めた。
「ひっ」
何の予測もなかったその出来事に、多恵は頭を抱えて
腰を曲げ、大げさに怯えた。
その数瞬後。
―――みゃあ
と、可愛らしく鳴く。

「・・・えっ・・・?」
ぎゅっと閉じた目を開くと、魔実也の足下に、小さな黒い獣(けもの)が居た。
「ね、猫・・・」

黒猫はぐるぐると数回魔実也を中心にして弧を描くと、やがて勢いよく駆けだして夜の闇に紛れた。
魔実也は視線だけでそれを見送り「あっちが当たりか」と呟く。
「・・・・・・」
多恵はこわごわと魔実也を見上げた。
先程の猫は、彼に何かを伝えたのだ。
根拠は解らないが、とっさにそう思った。

では、なにを伝えたのか?
あっち?
そうだ、きっとそれは。

「坊ちゃんは一体どう―――」

思わず漏らした声に、魔実也が小さく片眉を跳ねる。

「・・・心配ですか?」
「え?あ・・・」
多恵はぎゅっと唇を噛んで黙りこくった。
あの、恐ろしい少年は。
多恵がこの手で抱き上げた時から・・・多恵の“全て”なのだ。
多恵の手指がひどく震えだした。
がくがくとした振動が肩を伝わり、彼女の細い躯全体へ伝搬してゆく。

暁彦は恐ろしい。
しかし自分は、彼を“肯定”しているのではないか。
暁彦がどれほどの罪を犯しても、自分は彼の傍に居たいと願うだろう。
・・・何故?
我が子のように育ててきたからなのか?

それとも―――――――――?


「どうしました?」
尋常ならない多恵の様子に、魔実也が微かに眉を顰めた。 「・・・いけませんか?」
がくがくと震え続けながら、だが、それにしては冷たい声音が多恵の口から漏れた。
「・・・・・・」
魔実也の双眸が心なしかきつくなる。

「いけ、ませんか?
 暁彦坊ちゃんを心配しては?」
二言目で、やっと多恵の震えは止まった。
俯いて着物を握りしめて。
籠もった声で、喋る。
「誰も彼も、わたしには冷たかった。
 非道いことをした。
 そんな奴らに比べたら・・・遥かに」

そうだ、遥かに。

「坊ちゃんには価値がある」

多恵は己の手のひらを見つめた。
瘧(おこり)のような震えが、徐々に治まってゆく。



―――やめて、やめてください!
   お願いします・・・やめて・・・っ

―――いや、いや、いや!
   もう何もかも・・・しまえばいいっ!!




「ねえ、いけませんか?」
ぼんやりした瞳で。
多恵は魔実也へ振り向いた。
焦点の合っていない双眸に、一切の光はない。

「貴女は・・・」
魔実也は何かが符合してゆくのを覚えた。
「まさか、貴女が」

多恵が光の差さない眼を一度ゆっくりと瞬かせた。
「・・・わたしが、なんです?」

魔実也は彼女の腕を捕らえようとした。
そうしなければ、ならない気がした。
しかし。

ぼぐっ!!

ふたりの間の僅かな面積の地面が。
両手で抱えるほどの大きな鉄球を落とされたかのように。
大きな音とともに円形に凹んだ。

ちっ、と小さく舌打ちして、魔実也は視線だけを自分たちの背後に奔らせる。
多恵は驚いたのか、躯を固くしたまま、ぼんやりとしていた。

月を薄く覆っていた雲が流れ。
自分たちの影が映し出されるほどの月光が、差した瞬間。



「・・・何も出来てない感じだね、多恵。
 簡単な命令ひとつ満足に受けられないんだな」
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