想像したよりも、小柄な少年がぽつんと道の真ん中に立っていた。
目立つと云えばあまり見かけない赤茶けた髪と、色素の薄い瞳。
大人しそうな顔の造作だが、笑みを絶やさない口元が何処か、そぐっていない。

「坊ちゃん・・・」

虚ろだった多恵の双眸に生気が戻った。
嬉しそうに笑ったかと思うと、次の瞬間はっとして青ざめる。
自分が叱責されると思ったのだろう。
「あ、あの・・・っ」
必死で言い訳をしようと口をパクパクさせてみても、言葉は一向に繋がらない。
「黙ってろ、多恵」
少年は鬱陶しそうに右手をひらひらさせた。
彼の視線は、多恵の前に立って背中を向けている青年に固定されている。

「やれやれ・・・」
魔実也は帽子をやや目深に被ると、ゆっくりと振り返った。
「公共の道を傷めるのは感心しないな」

暁彦は初めて間近に『夢幻魔実也』を見た。
鑞のような膚(はだ)。
紅い唇。
漆黒の瞳。
だが。
それよりも何よりも。

「ふっ、くくく・・・」
暁彦は思わず笑い出した。
それはそれは年相応の無邪気さで。
「あはは・・・っ!」
「坊ちゃん・・・?何を・・・」
多恵が心配そうに暁彦を見遣った。
「ふふっ、多恵、こいつ軽蔑してる、僕を。
 蔑んでる。
 愚か、だとあの眼(め)が云っている。
 面白い・・・面白いよ!!」
ざわざわと暁彦の赤茶けた髪が、逆立ってゆく。
大きくて丸い琥珀の瞳が、目尻が切れるかと思うほど吊り上がり、開いた。
まだ華奢な足が踏みつける大地から、ぱらぱらと砂が振動する音がする。

「まず、恐怖。
 僕を知って、他人が最初に持つ感情。
 なのにお前はそれをまだ持たない。
 ・・・自信過剰か?
 鈍いのか?
 それとも・・・僕と“対等”か?」

淡い桜色の唇から、真っ赤な口腔が覗いた。 

「おまえ・・・僕を楽しませてくれよ。
 簡単に殺られないよね?
 その眼差しが強がりでも虚勢でもないことを。
 ―――証明しろよ?」
あからさまに魔実也が不快な表情をした。
民家もけして少なくはないこの通りで、目の前の少年は思う存分力を振るうつもりつもりなのか。
ぴし、と暁彦の“気”の弾かれた小石が、魔実也の頬を掠めた。
ますます募る不快さを隠そうともしないで、暁彦を見下ろす。
「・・・生憎、僕はこういった手荒いことは苦手だ」
硬質な声音でそう告げると、暁彦がまた嗤う。
「だから―――なに?」
魔実也の、瞳が。
酷く底冷えのするような闇の色に変わる。
多恵が暁彦よりも早くそれに気づいて、顔色を変えた。
何とも云えない気持ち悪さが胃の底に溜まるようだ。

「・・・」
ざわり、と魔実也の影が蠢いた。
本人は微動だにしてない。
多恵はその影が暁彦へ向かうことに気づく。
今しも暁彦はその力を解放しようとしていた。

「坊ちゃん!!」
多恵が叫ぶと同時に駆けだした。
「邪魔だっ!多恵!!」
暁彦が怒鳴る。
その時、ふっと彼の視界が暗くなった。

(月が隠れたのか?)
反射的にそう暁彦は考えた。
そして、そう考えたことによって、彼の力の発動が一呼吸遅くなる。
・・・暁彦がそれに気づいた時、彼はぎりぎりと歯を噛みしめて怒(いか)った。
その一呼吸の合間に。
魔実也の姿を見失ったからだ。

「・・・っ!!」
暁彦は顔を歪めて唾を吐いた。
せっかく面白くなるところだったのに。
興を削がれた。
それもこれも、あの、のろまな女のせいだ。
「多・・・」
暁彦は多恵を罵倒しようとして、彼女の姿まで掻き消えていることにやっと気付く。
暁彦の顔色が変わった。

いつの間に。
いつの間に。
・・・あの男の仕業か。

まんまと出し抜かれた。
この僕が―――!!

ざわざわと背筋が泡立つ感覚がした。
目尻が痛いほどに吊り上がる。
「ふ、ふふ・・・っ、ふふっ」
自然と嗤い声が漏れた。
暁彦は、嗤いながら。
―――不愉快この上なかった。





何も見えない。
真っ暗だ。

多恵は手探りで辺りを知ろうとした。
「ぼっ・・・」
「しっ!」
暁彦へ呼びかけようとした声は、しかし鋭く制止される。
多恵は何度も何度も瞬きをした。
徐々に浮かび上がる影は。
見たくもない青年のものだ。
それを認識すると、真っ暗だった視界がさあっと鮮明になり。
多恵は自分たちが先程の場所からそう遠くない路地にいることに気付いた。

「・・・あなたは一体何を・・・」
蚊の鳴くように問うと、魔実也は人の悪い笑みを浮かべた。
そしてぐい、と彼女の腕を引っ張ると、足早に歩き出す。
音を立てない歩き方は本当に猫のようだ。
何故か大人しく彼に引きずられながら、多恵は思う。

・・・暁彦はまだ近くに居るのだろうか?
彼は居なくなった自分たちをどう捉えているのだろうか?

やがて川縁に辿り着いた時、魔実也はやっと口を開いた。
「貴女がうまくひっかかってくれて良かった」
「・・・え・・・」
「あんなのを、まともには相手に出来ませんからね」
「・・・え・・・」
「僕は“目眩まし”を使うために、貴女が動くように仕向けたんですよ」
多恵は懸命に魔実也の言葉を整理してみた。
しかしよく解らない。
“お前はだからのろまなんだ”、と罵倒する暁彦の声が木霊する。

「に、逃げたつもりですか?
 坊ちゃんから」
辛うじて解っている事実を口にしてみた。
魔実也はちらと多恵を横目で見て。
そして唇の端だけで笑う。
「まあ、そうです。
 あの少年とやり合うのはかなりの大損ですからね。
 ・・・すぐに追いつかれるでしょうが。
 ただ、ひとつ確かめたいことがあったのです。
 その為の“時間(とき)”も欲しかった」
「た、しかめ、る?」

魔実也はいきなり強く多恵の左肩を掴んだ。
「な、なに・・・!?」
多恵がただ目を見開き、震えた。
眼前の人形のような顔の、その真っ黒な双眸が。
自分を呑み込んでしまいそうで―――叫び出しそうだった。



「思いだすのです」
「そして、僕は知りたい」
「あの少年が、“存在”する“事情”を」





青年の右手がじわじわと肩へ喰い込んでくる。
痛い。
痛い。
がんがんと頭の中で喚く不愉快な音。
怖い。
怖い。
青年の眼(まなこ)の闇が、己の眼球を侵食しようと・・・している。

「ゆっくり」
「考えなくてもいいのです」
「ほんのつかの間、心を解放するだけで済みます」

耳障りの心地良い声が。
囁く。
囁く。
動くことがないと思っていた“蓋”が。
揺れる。
揺れる。

天空の月が何重にもぼやけた。
涼やかに演奏していた虫の羽音が、ぎゃんぎゃんと爆裂音のように鼓膜を占領してゆく。



―――たえ。
―――多恵。
―――さあ、今日から此処が、お前の家だ。
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