「はぁ、はぁ」 脂汗でじっとりと肌が濡れた。 気持ちが悪い。 薄茶色の着物は、着崩れてみっともないくらいだ。 「はぁ、はぁ」 細い通りをとにかく急ぐ。 目的の人物がその先に居ないことを祈りながら。 多恵は早足で歩く。 外灯がぼんやりとT字形交差の道を照らしていた。 ああ、そうだ。 ここを右に折れるとすぐだ。 あの娘(こ)の、家だ。 あの、人のよさそうな、お転婆そうな娘の。 はあはあと肩で息をして。 多恵は胸元の短刀を無意識に触った。 留守ならいい。 ひとりではなく、家族と過ごしていればいい。 繰り返し、繰り返し望みながら。 足が別れ道の右手へ、ゆっくりと進んだ。 「・・・どこへ行かれるのですか?」 不意に多恵の背後で声がかかった。 ひ! と多恵は短い悲鳴を、あげた。 やがて、そろそろと振り返る。 嫌な予感が当たってしまった。 暁彦に命令された事柄がうまくいかなければいいと願った。 彼の命令通りに行うことが出来れば嬉しいとも願っていた。 相反する望みの葛藤。 そうして。 全てが崩れるような予感。 「あ、なたは・・・」 暗がりの中でもはっきりと判るすらりとした影。 ふわりと唐突に浮かびあがる薄くて、紅い唇。 「貴女は、僕のことを少なからずご存じのはずだ」 ゆらーん。 影が揺れる。 まるで闇から抜け出たかのように、黒スーツの青年が多恵の目の前に現れた。 厳密に云えば、目の前の青年を多恵は、知らない。 だが。 暁彦が感じていた。 多恵に教えた。 ―――わくわくする、と。 現在(いま)、己の前に居る端正な顔の青年が。 暁彦の不可解な命令の、根源なのだ。 「・・・ああ、そうなのですね、あなたが昌彦さんと会われた方なのですね」 小刻みに震えながらも、多恵は無理矢理笑みを浮かべて確認した。 「―――はじめまして。 夢幻魔実也です」 慇懃に青年は腰を屈めた。 その間にも消えない薄い微笑みが、どこかしら多恵に暁彦を想像させる。 「どこまで、ご存じなのです? わたしが何をする為にこんな場所(ところ)へ来たのか・・・おわかり、なのですか?」 震える声で、それでも懸命に多恵は問うた。 予感がする。 全てが崩れる、予感。 「・・・全てを知ることなど出来はしません」 微笑みながら、その言外に。 多恵がここにいる目的を知っていることを魔実也は滲ませた。 「・・・ああ、そうです、わたしはあなたの知人であるあの女の子を傷つけようとしました」 観念したように多恵は両手から力を抜き、だらりと下げた。 「何故ですか?」 魔実也は眉ひとつ動かさずに訊き返す。 多恵はゆっくりと首を横に振った。 「わたしには、わかりません。 ただそうしろ、と云われただけです」 「・・・・・・」 「楽しそうに、笑ってそう云われました。 わたしはそれを承諾しました。 それだけ、です―――」 「貴女の主人はゲームでもやってるつもりですか?」 「ゲーム・・・」 そうなのだろうか? 暁彦にとってすべてはゲームの出来事であって。 『本気』ではないのだろうか? だから、全部、 ―――すべてこわれてしまえ!! 暁彦の声が木霊したかのようだった。 多恵は弾かれたように天を見上げる。 大きな月の、浮かぶ空を。 そうして多恵は暁彦が現在(いま)居るはずの場所のことを思い出した。 おどおどと多恵は魔実也を仰ぎ見た。 「あなたは、暁彦坊ちゃんが今どこにいらっしゃるのかご承知・・・なのでしょうね・・・」 魔実也は片眉を小さく上げ、縮こまる多恵を見下ろす。 「それを貴女に告げる気は毛頭ないので、ご容赦を」 「・・・」 ぶるぶると多恵が震えた。 どん 小さな部屋全体がその衝撃に耐えられないかのように軋んだ。 テーブルも椅子も木っ端微塵で、まるで破裂したかのようだ。 だが。 「・・・居ない」 赤毛の少年は宙に浮かんだまま、双眸を細めた。 硝子が窓枠ごと吹き飛ばされ、その部屋はまるで竜巻に巻き込まれたような惨状だ。 そして。 今し方ここにふたりの人間が居た。 そう、見えた。 「・・・・・・」 暁彦は硝子に混じって月光を弾く破片に気づいた。 ひとつやふたつではない。 絨毯の長い毛足の上に無数に散らばっている。 暁彦の、紙のように白い顔が、ますます白くなった。 そうしてわずかに色味のある薄い唇が歪んで、嗤う。 「鏡? もしかして僕は騙されたのかな?」 くくく、と喉が震えた。 暁彦は自分が、鏡に創り出された幻影に攻撃したことを悟った。 面白い。 だが不愉快だ。 “相手”は独りだと思っていた。 あの女はおそらく協力者なのだろう。 気配は感じる。 この近くに居るはずだ。 片端から部屋を破壊してみようか。 生意気な男の屋敷がどうなろうと、知ったことではないし。 「・・・待てよ」 暁彦はふと思い至った。 では“彼”は今どこに居るのか。 いつもいつも肩を縮めて猫背で。 細い身体を影のように潜める女。 ―――多恵。 彼女に向かわせたのは、“相手”に縁があると思われる者の居る、場所。 「意外だな」 暁彦は嘲笑した。 気まぐれな、ほんの攪乱のつもりで仕掛けた。 “相手”が暁彦の狙いに感づいているなら、この屋敷に姿を現すだろうが、その前に“相手”の情報をこちらも掴んでいることを示したのだ。 そして、今。 “相手”は多恵に再び向かわせた場所に居る。 この腹立たしい大臣を守るためではなく、知り合いの“人の良い少女”を守るために。 「意外だ」 “相手”の正義感は、どうやら素晴らしい程の個人レベルで成り立っているらしい。 暁彦は面白そうに肩を竦めた。 「意外だけれど・・・もしかしたら一般的には意外じゃないのかな?」 世間の常識など意に介したことがないのでさっぱりわからない。 だがこの“相手”にはますます興味が湧いた。 今頃その“相手”に出くわしたであろう多恵はみっともなく震えているに違いない。 「―――行ってみるか」 暁彦は風に攫われる髪を撫でつける。 実際に会って。 どうなるのか。 考えるだけでぞくぞくと震えが来た。 暁彦は振り返って、己の背を照らす月を見上げた。 次に先ほど破壊した小部屋の、無惨な様を見下ろす。 「ふん」 鼻先で嗤いながら、視線が斜め下へ動いた。 「・・・置きみやげだ」 細い右腕をす、と持ち上げる。 月光が煌々とその腕を明るく縁取った――― どん 短くとも激しい爆裂音が響く。 だがその後は、不気味なほどの静寂が館を覆った。 |