「・・・ご苦労様、多恵」 明かりもつけない、大きな部屋の片隅で。 背を向けたまま暁彦は多恵を労う。 「坊ちゃん・・あれでよろしいのですか?」 ふるふると暁彦の肩が震えた。 (・・・嗤っている) ああ、まただ、と多恵は絶望した。 この少年はまた誰かを堕とそうと、している。 遊び半分で。 残酷に。 「あ、の・・・」 「なんだ?多恵」 多恵は揉み手をしながら、おどおどと口を開いた。 「今日わたしのやったことは、なにか意味があるのでしょうか?」 暁彦は大きな瞳をくりっとさせて。 やがて吹き出して、笑い始めた。 「相手が僕のことをいろいろ調べているようだから、警告してやったのさ。 ・・・それに、わくわくするんだ」 多恵は、これ程楽しそうな暁彦を終(つい)ぞ見たことがなかった。 まるで。 初めて興味深いおもちゃを与えられたような、子どもがそこにいた。 暁彦はくすくす笑いながら、多恵を見遣る。 「全くおまえは一から説明しないとわからないんだからな」 侮蔑混じりの視線が、多恵の細い躰を舐め回した。 「こう云えば解るかい? 僕は、おそらく。 ・・・普通じゃない、人間を見つけたんだよ」 多恵は困ったよな顔をしながらも、必死で笑みを浮かべた。 「は・・・はあ、そうですか」 訳がわからない。 成る程、相手はこの暁彦と同じく不気味なことができるのかもしれないが。 だからといってあの人の良さそうな大家の娘と接触してどうだというのだろう? 「さて」 多恵の疑問を一顧もせず、暁彦は小さく首を傾げた。 「・・・あの政治家の親父も鬱陶しいんだけど、先にこっちの楽しい方で遊ぶかな。 うーん、迷うな」 くすくす、くすくす。 あどけなく笑いながら、残酷な計画を立てる。 怖ろしくて、愛しくて、理解不能の少年を。 ―――多恵はただ見ていることしか、出来なかった。 紺を凝縮したよな、そんな色を見事に染め上げた小袖と。 真っ白な地に銀の刺繍をあしらった帯。 す、と背筋を伸ばし。 豪奢なソファに座る。 それはどこかちぐはぐに感じながらも、それでいて奇妙に納得するほどに、魅力的だった。 真っ黒な絹糸の髪と、真っ赤な唇が。 日本人形のように硬質な印象を与えている。 「・・・では、ご了承くださいますね」 彼女は―――夢幻那由子は目の前の椅子に腰掛けている、大柄な男性へ念を押した。 男はいささか不可解な顔つきだが、大きく頷く。 「私もこの世界に入って、『夢幻』の噂は耳にします。 次期跡目のあなたの云うことに、逆らう気はありません」 那由子は艶やかに微笑み、鈴が転がるような声音で答えた。 「大臣、それでは始めましょう」 那由子は男の屋敷の中でも、もっとも小さな部屋へ男を伴った。 簡素なテーブルと腰掛けが並び。 電球がぼんやりと明かりを灯す。 小さな窓硝子に、大きな鏡。 床に敷かれた絨毯は毛足が長く、高級だった。 「狭くて申し訳ありませんが、わたしにとってもこちらの方が都合がよろしいので。 どうかお許し下さい」 男は、はは、と笑いながら首を振った。 「私も根が貧乏性でしてな。 この手狭さは返って落ち着きます」 「そうですか」 ほほほ、と那由子は優雅に指を口元に当てた。 魔実也が見たら「猫かぶり」と評されることだろう。 「それで、詳しい経緯はお聞かせしてもらえないのですか?」 男は膝を組み、椅子の背にその体重を掛ける。 那由子は変わらぬ笑みを浮かべたまま、口を開いた。 「恐れ入りますが、まだこの件に関しては調べが足りません。 元々刀自の意向を無視した独断ですので、ご了承ください」 男はいやいや、と軽く首を振る。 「敵の狙いが何であろうと、私の身が危険であることに変わりはない。 具体的な証拠もないのに私の為にご足労いただいたのです、なんの迷惑がありましょうか?」 かたかたと夜風が窓の枠を軋ませた。 かた、かた、かたた・・・ 台風が近づいている訳でもないのに、風が強い。 と、那由子は風の音の中に、違和感を覚えた。 ひた、ひた、ひた、と近づいてくるその風とは違う“もの”。 「どうかしたかね?」 男はにわかに険しくなった那由子の顔つきをみて訊いてきたが、那由子は答えずにただ人差し指を立てて唇に持ってきた。 喋るな、と制したのだ。 那由子はすくりと椅子から腰を上げた。 窓の外を見るのかと男は思ったが、彼女はその場を動かない。 漆黒の双眸を凝らして、“どこか”を視ている。 「・・・“こちら”を選んだのね、あの子は」 「こちら?」 那由子の視線はじっと何かを追っているかのようだ。 「どうせなら“あっち”を選んで欲しかったわ・・・」 がたっがたたっ 窓の軋みはどんどん大きくなってゆく。 さすがにこれは尋常ではないと気付いた男が、思わず中腰になった。 「―――下がって」 乾いた声音で那由子が囁く。 男は頷き、衣擦れの音だけをさせて、窓から大きく後退った。 がたっぎしっがん、がん、がん 窓の木枠に細かな亀裂が入る。 外からかけられる大きな力に、か弱い硝子が震えた。 その瞬間、窓硝子が膨張したかのように、思えた。 がしゃーん!! 砕け散った硝子の破片が、毛足の長い絨毯に次々と散らばってゆく。 反射的に那由子は男を背にする位置に躰を移動させた。 窓枠と、硝子がはじき飛ばされた後は、不格好な四角い穴があるばかりで。 そこから、空に大きく満月がかかっているのが見えた。 ・・・その月の輝きの中央に、人間の影が浮かび上がる。 華奢な体格から、まだ子どものようだと想像できた。 人影は徐々に大きくなってくる。 その影が、赤みがかった髪をしているとか、どちらかといえば不健康そうに日焼けしていない肌をしているとか、こちらを見てにやにやと笑い続けているとか。 ・・・やがて、そんな子細が判るまでに大きくなった。 「・・・女? 男じゃないのか?」 少年は意外そうに声を上げた。 那由子は何も答えずにただ少年を見つめる。 「まあ、どうだっていいや・・・あんたの後のオジサンに用があるんだけど、どいてよ」 紅い唇をきゅっと那由子は噛んだ。 やはり彼女は答えはしなかったが、身動ぎも、ない。 少年は気に食わない素振りで、彼女を見下ろしている。 「・・・ま、いいや」 投げやりに吐き捨てると、すい、と右手を掲げた。 「一緒に死んじゃえ」 ざあああ、と禍々しい『気』が大きな塊になってゆくのが。 わかった。 |