「・・・なんて云ったと思います? 『全部壊してみたいから』。 そう、云ったんですよ、あの少年は」 昌彦はすっかり汗がひいたことにも気付かずに、忙しくタオルで首筋を拭った。 魔実也は目を細めながら、ただ紫煙を燻らせている。 「初めは何を壊したいのか、皆目解らなかった。 しかし暁彦の云うがままに動いていたある日、気付きました」 昌彦はまだ拭い続ける。 何かを怖れるかのように。 「あの子は、本当に全てを壊したがっている。 この、目に映る・・・全てを。 この国を」 「・・・ご大層なことだ」 魔実也は随分短くなった煙草を弾くと、そのまま地面へ落下させた。 ぎゅっと踏みつけ、帽子を被り直す。 「あなたはよくあの屋敷から抜け出せましたね?」 「多恵が―――多恵がこっそりと手引きしたのです。 わたしは暁彦のやろうとしていることが、あまりに怖ろしくて逃げ出したかった。 けれど暁彦の目を眩ませて、逃げ切ることなど不可能だとも解っていた。 悶々と悩み閉じこもってばかりの、ある日・・・多恵が云ったんです。 『お行きなさいませ』と。 『あなたさまは、わたしに酷くなさらなかったから』と。 そうしてわたしはあの屋敷からなるたけ遠くの地へ来た。 書類決済や契約書作成や金銭授受だらけの毎日から・・・逃げ出したのです」 昌彦は、自分たちの拠る木陰が、やや大きくなったことに気付いた。 いつの間にか、夕刻に近づいているらしい。 「こうして、暁彦から逃げて、痩せた土地を耕す生活をしていても。 夜は怖ろしくてたまらないのです。 暁彦がマリオネットのように操っていた叔父夫妻の、どろりとした目が。 毎日毎日夢枕でわたしを見るのです」 昌彦は両手で顔を覆った。 見えない何かから、まるで自分を切り離すかのように。 「その少年は、あなたを追ってきましたか?」 「・・・いいえ。 だが暁彦の力を持ってすれば、わたしを探し出すことなど容易いでしょう。 おそらくわたしは用済みなのですよ。 暁彦は面倒な手順に苛ついて、幾度か直接手を下したこともありますから」 魔実也は昌彦のやや厚ぼったい手の向こうに隠れている、昌彦の瞳を見据えるかのように、視線を動かした。 「手を下すとは・・・?」 昌彦はまだ目を塞いだまま、その躰を意識して縮める。 「よ、くはわからないのです・・・けれど。 暁彦は不思議な力を持っています。 触れることなく物を動かし、破壊できる。 対象が人間の臓器や脳であって、も・・・」 キキキッと何処かで鳥が甲高く鳴く。 それすら怖れるように昌彦は身を固くした。 「一回だけ、目撃したことがあります。 相手の顔をわたしは知っていました。 財界でも頑固一徹で知られていた翁でした。 幾度か西行路の下につかないかと持ちかけました。 ・・・でも翁は首を縦に振らなかった」 人並みより、やや大きな躰が震え続ける。 昌彦はそれでも懸命に己の知ることを、魔実也に伝えようとした。 「偶然でした・・・別の商談の帰りに、偶然見たのです。 翁は路上でいきなり苦しみ出しました。 周りにいた者も驚いて、辺りは騒然となりました。 翁はばたりと膝を折り、 肩を歪ませ、顔面を地面に擦り―――」 老人は苦しみのたうっていた。 眼球が飛び出さんばかりに浮いて見えて。 やがてゆっくりと緩慢になり、動きを止めた。 そしてその一部始終を遠くから目撃した昌彦は、自分のすぐ間近で老人をせせら笑う暁彦を見たのだ。 カンが告げた。 この暁彦が手を下したのだと。 この、幼さの残る少年が。 殺ったのだと。 「化け物」 昌彦は、不意に両眼を塞いでいた手を下ろし。 もう一度、その厚めの唇を動かした。 「化け物だ。 ・・・そう思い至った途端、もう駄目でした。 わたしは暁彦の傍にも怖ろしくて寄れない。 もしかしたら、恐怖で叫び出すかも知れない。 そう、感じました。 そこへ、多恵が云ったんです、お逃げなさい、と。 西行路の名を捨て、これまでの生き方を捨て、お逃げなさい、と。 渡りに船でした。 西行路の名声も富も、全てを捨てることにわたしは毛ほどの躊躇いもなかった。 ・・・わたしは、怖ろしかった! あの化け物から少しでも遠ざかれるのであれば、何を捨てても構わなかったのです」 昌彦は魔実也を凝視した。 魔実也はその視線をただ、受け止めている。 興奮状態がおさまったのか、昌彦はふう、と息を吐くと再び汗を拭った。 「・・・夢幻さん、とおっしゃいましたね」 「ええ」 「わたしはあなたが此処に来た時点で、暁彦について大まかな調べをつけてきたのだろう、と思います。 しかし、信じますか? 今のわたしの話を?」 魔実也は何の言葉も返すことはなかった。 陶磁器のような白い顔と夜の闇のような瞳も、動かすことはなかった。 ただ。 紅い唇だけが、ほんの僅かに。 嗤う。 昌彦はその紅い点に、呑み込まれそうな錯覚を起こした。 くらくらと揺れる視界が。 気持ち悪くて、堪らなくて。 気付かぬうちに、躰が俯した。 我に返った時。 その妙な青年は、何処かへ掻き消えたかのようだった。 す、と開かれた双眸は。 珈琲にミルクを流し込んだような色をしていた。 だが其処に煌めくものは。 底冷えがするほどの悪寒を感じさせる。 ほんのり桃色の形良い唇が。 ゆっくりと息を吐き出してゆく。 「多恵」 「・・・多恵、お前のたっての願いで昌彦さんを放っておいてやったけど」 「なあ、多恵。 おかげで面白いものが引っ掛かったようだ」 「多恵。 “そいつ”がどれ程面白いか、僕、確かめてみたいな」 |