「いらっしゃませ、昌彦さま」

慇懃にドアを開けて出てきたのは、小柄でやや猫背の多恵だった。
「おや、珍しい。
 お前が出てくるなんて」
「・・・暁彦坊ちゃんがお帰りなので」
「あれ?もう夏期休暇かい?」
「・・・いえ・・・実は・・・」

力無く笑って多恵は、暁彦が学校を辞めたことを掻い摘んで答えた。
昌彦はざわざわと広がる不安を抑えられない。
彼が記憶する暁彦は、いつも無表情で。
それでいて全てを見下すような視線をしていた。
己の実母にすら、感情を露わにしない子ども。
―――正直、気味が悪い。
それでも昌彦はその快活な様子を崩さなかった。
「まあ、暁彦くんもそれなりに考えがあってのことだろう。
 成長したんだね」
多恵は困ったような、物足りないような、曖昧な微笑を浮かべる。
「それよりも多恵、叔父は居るかい?」
「・・・はい」
多恵は深く頭を下げた。

後から思えばそれは。
多恵は自分の顔を見られたくなかったのだろう、と昌彦は思う。
恐れおののく、その表情(かお)を。

勝手知ったるなんとやらで、昌彦は案内が無くともすたすたと叔父の書斎へ向かっていった。
見慣れた重いドアを押し開き。
見慣れた叔父のすらりと高い背が目に入った。
が。
こちらに背を向けて窓の外を見遣っている叔父の、どこかが変だと昌彦は首を傾げた。
はて?この違和感のようなものは何なのか。
「叔父さん・・・」
肩を叩こうとして昌彦は気付いた。
叔父の息遣いや体温や感情が微塵も感じられない。
まるで、そう、人形が立ったままのようなその感覚。

まさか。

馬鹿馬鹿しい考えに頭を振りながら。
昌彦は再度叔父へ腕を伸ばし。
肉付きの薄い肩に触れ。

「うひゃあ!」

―――あまりの冷たさに声を上げた。

ごとん

昌彦が触れたはずみで、彼の叔父の躰がぐらりと揺れ、そのまま倒れ込んだ。
「な、な・・・どうしてこんなに冷たいんだ!?
 どうしてそんな風に首・・・首が・・・」
倒れた叔父を恐る恐る覗き込んだ昌彦はパニック状態になった。
壁へ顔を押し付けたまま、叔父の躰が捻れたようにして床に放り出されている。
その捻れが、明らかに首の骨が折れていることを示していた。
「ああ・・・ああ・・・」
どうしたらいいのか解らなかった。
だらしなく開かれた口から伸びている土気色の舌が不気味だった。
なにより呼吸している様子がない。
ぴくりとも、動かない。

死んでいる?

導かれる答はどう考えてもひとつしか浮かばなかった。
昌彦は半分腰を抜かしながら、そろり、そろり、と後退る。
―――とん、と背中が何かに当たった。

「あーあ、父さんの躰、少し傷んじゃいましたよ。
 もっと優しく扱ってくださいよ」

はっと顔を上げると、暁彦がじっと見下ろしていた。
「あ、暁彦・・・」
上擦った声で、かろうじて少年の名を呼ぶ。
赤みの強い、真っ直ぐな髪を揺らして。
暁彦はにっこりと微笑んだ。
まだあどけなさの残るその顔は、とても綺麗だ。
「心配しなくても良いですよ。
 とっくにコイツは死んでるんですから」
暁彦はパチリ、と指を鳴らした。
ごりっごりっと鈍い音を立てながら。
昌彦の叔父であり、暁彦の父である躰が、ぎくしゃくと動く。

ぐぎぎ

最後に骨の軋む音をさせながら、“それ”は顔を上げた。
「ひっ!」
昌彦は短い悲鳴をのど仏に押し込めた。
どろり、と濁った眼(まなこ)。
かさついて、土気色の唇。
艶のない、ぱさついた髪。
なにより弛緩した顔の筋肉が不気味で、昌彦の知っている叔父の顔とはほど遠い。
「困ってるんだよ」
暁彦は溜め息を吐く。
その息と共に、もうひとつ別の気配を感じて昌彦は振り返った。
「あ、ああ・・・」

あれほど若く美しかった叔母が。
濁った眼球を天井へ向け。
暁彦の隣りに、歪んだ姿勢で佇んでいた。

「困ってるんだ、昌彦さん。
 協力してよ」
暁彦は軽く右手を振った。
彼の両親であった者達は、その動作に合わせるようにぐりぐりと足を引きずりながら、部屋の隅へ移動した。
垂直に交わった白い壁を鼻先に見ながら、そのまま動かない。
「こいつら、うるさくってさ。
 ついつい殺しちゃったんだよ・・・全く僕も浅はかだよね」
ニコニコと笑いながら、暁彦は一番近くにあった椅子へ跨ぐように座った。
その凄惨な告白とは裏腹に暁彦の表情はただの悪戯を犯した、幼児のようだ。
それが、昌彦には吐き気を催すほど気持ち悪い。

お前の両親だろう?
お前を最も可愛がった人達だろう?
どうして、どうして。
―――笑えるんだ?

「ただあっさり殺してはみたものの、こいつら居ないと随分不便なんだよね。
 僕が子どもだってことが社会的にも世間的にも不利なことがすぐ解ったんだよ。
 僕も面倒なことは嫌いだから、こいつらの躰を腐らせないようにして、巧く動かしてやってきたんだけど」
暁彦はくくっと喉を鳴らして、肩を竦めた。
「・・・限度ってものがあるね、やっぱり。
 細かな動きはボロが出るし、なにより修復不可能なくらい躰がくずれちゃうんだ」
多恵にもいろいろやってもらたんだけど、あれは身分も低いし馬鹿だから役に立たなくて、と続けて暁彦は云う。
「・・・多恵も、おまえに協力してるのか・・・?」
昌彦はからからになって、粘つく舌を必死で動かし。
つっかえながらも聞き返した。
「当たり前だろ?
 あれは僕の召使いだ」
気の毒な女だ、と昌彦は思う。
花の盛りをこの屋敷で無駄にして、挙げ句齢(よわい)を重ねた末に・・・この怖ろしい少年の駒なのか。

「で、昌彦さん。
 あなたならいろいろ世間ってものを知ってるし、頭もいい。
 協力してよ―――僕に」
「きょう・・・りょく、だと?」
「そう。
 見ただろ、この夫婦。
 これじゃ使い物にならない。
 まだ防腐剤は打つけど、“飾り”だ。
 あなたに煩わしいことは全て任せたいんだ」

大きな瞳をくりっと動かし、暁彦がはしゃぐようにねだる。
お願いだと云いながら、昌彦から『是』の返事しか期待していないことが、よく解った。
コン、コン、と軽くノックの音がして。
多恵が茶を運んできた。
ちらりと昌彦の顔をのぞき見て、すぐまた俯く。
実際の年齢よりもやつれて見える小さな女性は、テーブルに盆を置き、影のように暁彦の背後へかしこまった。
当の暁彦はそんな多恵に頓着することなく、じっと昌彦を見ている。
「・・・・・・」
昌彦は無意識に首周りの汗を拭った。
かさかさに乾いた唇を、のろのろと動かす。

「暁彦くん―――おまえは何が欲しいんだ?」
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