暁彦は目を瞠って自分の手首を掴む、その指先を見た。

表情を消したような貌(かお)。
しろい膚(はだ)。
闇色の、瞳(め)。

魔実也はやはり力が入らないのか、左腕をだらりと下げたまま。
それでも右手は、その痩身の何処にそれだけの力があるのかと、思わせるほど。
きつく暁彦の手首を戒める。
「おまえは」

暁彦は掠れた声で問うた。

「・・・おまえは“多恵”を解って、いるのか?」

どろ、どろ、どろ

暁彦の躯から真っ黒なタールのような液体が噴き出す。
それはまるで皮膚から浸透圧で体外へ押し出されるかのように。

どろ、どろり
どろ、どろり

たちまち真っ黒なシミが魔実也と暁彦を中心に広がってゆく。
暁彦の眼からもまるで澱のような黒い“それ”が垂れ流されていた。

おま、えは・・・ぼ、くを・・・わた、し、を

あ、な、た、は・・・・わたしを・・・

魔実也は掴んでいた手首を緩く引き寄せると、
やや躯を屈ませる。
黒い涙のような液体で汚れた暁彦の
顔を覗き込み。
―――嗤った。

「僕を殺したかったんだろう?」
「・・・」
「僕が忌々しいのだろう?」
「・・・」
「“おまえ”を曝した、僕が」
暁彦の琥珀色の瞳が血走り。

そこから真っ黒な液体が溢れてゆく。
それは、奇妙なコントラストだ。



「喰ってやろうか?」
魔実也は暁彦の手首を掴んだまま囁いた。
「何もかも、無しにしてやろうか?」
高くもなく低くもなく。
酷く耳に良い声が、囁き続ける。
「僕が、喰ってやろうか・・・多恵?」
「喰う・・・?」

ぼんやりと暁彦(多恵)が反芻した。
だらだらと黒い澱みを流す瞳は、焦点が合っていない。

「そうだ、なにもかも“無くなる”」
「無くなる・・・無に、なる・・・」

ひゅううと暁彦(多恵)の喉が鳴る。
『無』。
それでは、何も変わらない。
むしろ。
むしろ。

「・・・厭」

消えてしまう、消えてしまう、わたしの『子』が。

「厭、です」


暁彦の口から出た声は。
『多恵』のものだった。
「厭です。
 駄目です。
 “無くなる”なんて」
「こわい」
眼球が零れるかと思うほどに暁彦(多恵)は大きく大きく瞠目した。
今「こわい」と云ったのは自分だったのか、もしくはこの闇の色のスーツを着た青年なのか。

・・・わからない。
区別がつかない。

魔実也の真っ黒な瞳に、辛うじて映る蒼白した暁彦の貌。
覗き込まれているというより、喰らわれそうな。
「・・・どうして『こわい』のか解っているのか?」
魔実也が淡々と、鼓膜に言葉を吹き込んだ。
暁彦、もしくは多恵が。
力なく首を振る。
ぱたぱたと黒い液体が釣られるように辺りへ散った。
「『知って』しまったからだ」
「・・・?」
「君は、それを忘れている」
「わ、忘れ・・・?」
暁彦(多恵)は不思議そうに魔実也を見上げた。
「そう、これほど世界を呪いながら。
 ・・・君が失いたくないもの、を」
「・・・“坊ちゃん”は、わたしのものだもの。
 誰にも、渡さない・・・」
「違う。
 君の。
 君自身の――――――・・・」







―――どうしたんですか?
   
―――いや、笑ってるから

―――坊ちゃんはこの頃少し笑うんですよ

―――違う、暁彦じゃなくて・・・君だよ

―――え?

―――多恵が、笑ったところなんて終ぞ見なかったから

―――昌彦さま・・・・・・

―――そういう表情(かお)が、見られて、得したな








ぽとん


真っ黒な涙が。
一粒。

零れて。
跳ねた。



どろどろと、暁彦から溢れ。
暁彦を中心にして、蟠(わだかま)っていた真っ黒なそれが。


ふ、と消え去る。







・・・・・・さらさら
・・・・・・さらさら

何事もなかったかのように。
川の水が流れてゆく、音。

・・・さらさら
・・・さらさら

月は、もうその姿を薄くして。
東の空の端(は)が。
白く染まり始めていた。

さらさら
さらさら



「―――ほうら、思い出した」
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