夜明けすぐの風は、まだ冷たかった。
那由子はふるり、と小さく身震いして。
残り香のような『彼ら』の気配を辿ってゆく。

曲がりくねった路地。
家屋の疎(まば)らな、低地。
細いけれど緩やかに流れてゆく・・・川のせせらぎ。

やがて。
最近嫌でも嗅ぎ慣れた紫煙の燻りに、気づいた。
「・・・汚れてるわね」

ごろりと転がっている大きめの岩に腰を下ろして。
魔実也はひとりで煙草を呑んでいた。
スーツは砂や泥だらけで。
いつもの鍔広な帽子も見当たらない。
彼の無造作に伸ばした黒髪が、ゆらゆらと夜明けの風に
玩ばれていた。

魔実也はちらりと近づいてくる那由子に視線を送る。
「・・・おまえもかなり汚れてるぞ」
にやり、と薄い唇が吊り上がった。
「だがそういう格好も似合うな」
魔実也は楽しげにくくっと喉を鳴らした。
那由子はぴくりと片眉を跳ねて。
それでもにっこりと微笑みながら、低い声で答える。
「まあ、どういう意味かしら?
 誰のおかげで一張羅がこんな風になったと思ってるの?」
「―――ふむ」
魔実也はふう、と細い煙を吐き出した。
「僕のせい、だろうな」
珍しくあっさりと肯定すると、魔実也はぽんぽん、と膝の砂を払って立ち上がった。
そこで那由子は彼の片腕がだらりと下がったままであることに気づく。
「・・・やられたの?」
自分でも怪我を忘れていたかのような顔をして。
魔実也はまあな、と相づちをした。
「頑張って逃げたんだがな、追いつかれた」
「・・・それで?
 追いつかれて、腕をやられて。
 ―――どうしたの?」
那由子はその黒曜石の瞳をす、と細めた。
確かにあの少年が居た痕跡は残っているのに。

・・・気配が微塵も感じられない。

魔実也はまるで他人事のように、またぷかりと煙を吐き出した。
那由子は再度同じことを聞く。
「どうしたの、あの子どもは?」
魔実也はにぃ、と悪人面で笑った。
・・・那由子がそれに気圧されることなど微塵もないのだが。
「あの子どもはどうも“重く”てね」
魔実也が淡々と話し出す。
「・・・重いって、あの“力”のこと?」
「そうだな、力もだが―――ゴテゴテと余計なものを吸収しすぎてどうにもならなかった」
那由子はひとつため息を吐きながら、首を竦めた。
「あなたの言い分だと、あの子どもをただの子どもに戻したかったみたいね・・・連続殺人鬼を!」
「・・・僕はこれでも子どもには優しいつもりなんだが」
「子どもでも、快楽殺人者よ。
 いえ、だった、というべきかしら?
 そうでしょう?
 ―――あの子はもう、居ない、ものね」
魔実也は口元だけに笑みを浮かべ。
那由子はなぜかそれに苛ついた。

「そうだな、あの子は闇に染まりすぎた」
「・・・だから?」
「還してやったさ、本当の闇に」
「還す?闇に?」
那由子の眉が小さく跳ねる。

・・・そんな術(すべ)をいとも簡単に。
この、目の前の男が。



(あれは、闇を司る禁忌を犯すやもしれぬのだ)




那由子は魔実也に気付かれないように、微かに首を振った。
例え、異端者としてその可能性があるにしろ。
一歩間違えれば、光と闇の均衡が狂い。
その狂いはこの国全てを呑み込むかもしれない。

そんな愚かで・・・面倒なことを彼は、好むまい。
「ま、『事』は済んだわけだし」
那由子が真っ白なその腕を首の後ろに回して。
ばさりと艶やかな黒髪を両肩に広げた。
「・・・約束は果たすわ。
 もう、会うこともないかもね」
「そうだな」
くるりと那由子は踵(きびす)を返した。
少々傷んではいるが、煌びやかな濃紺の小袖が鮮やかだ。

「ねえ」

那由子は魔実也に背を向けたまま、声をかける。
「・・・ねえ、あなたの好きなものって『酒』と『煙草』と『女』よね」
魔実也は目を眇めて笑い出しそうな顔をした。
「何かの歌謡曲みたいだな」
「あら、何か忘れているかしら?」
「・・・昼寝、だな」
「え?」

思わずくるりと那由子が顔を向ける。
魔実也は至極真面目な様子で言葉を続けた。
「酒も女も『夜』に出逢ってこそ、そそられる。
 だから寝るとしたら、あの巨大な恒星が顔を出している時だろう?」
「・・・・・・」
那由子は大きな瞳でじっと魔実也を見た。
何もかもを見透かすような深淵の闇を潜めたそれは。
魔実也の瞳に似ている。

「ふっ・・・ふふっ」
数瞬の後。
堪えきれないように那由子は吹き出した。
「そう、そうね。
 思い出したわ、あなたは確か昔もそう云った」
那由子の肩が揺れ続けて、白くて滑らかな喉元も揺れた。
「・・・下世話で、素敵だわ」
「誉められた気がしないな」
「賞賛はしないけれど、感動はしたわよ」
「・・・それはどうも」

くくくっ、と那由子は含み笑いをしたまま。
また歩き出した。

今度は、振り返らない。
彼も、自分も。
また日常へ戻る。

多くの者からすれば、非現実的な日常へ。

少しずつ遠くなる背後の魔実也が、動くのが解った。
彼は好きなように、暮らすのだ。
気ままに。
思うがままに。
(それでも時々は厭なことに首を突っ込むのだろうけど)
異端の力を持つ者の、在り来たりで、そして実は成立の困難な、望み。
(酒、煙草、女、昼寝・・・か)
「全く下世話ね」

・・・夢幻の血筋の中で。
おそらく彼だけがそこから『外れる』ことが出来た。
那由子が知っているだけでも数人が、奇妙で力強いその縁(えにし)に惹かれるように・・・想像もつかない場所から、この血の基(もと)へ帰ってきた。

―――彼だけが。



彼だけがその血から、放(はな)れた。




(わたしには、出来ない)
代々、最強と云われてきた『刀自たち』すら。
(出来なかった)
(だから)
「下世話で、素敵だわ」







ゆるゆると土手を上がりきったところで、那由子は“何か”に気付いてほんの僅か、眉を寄せた。
(これ・・・って)
―――確かに感じた。
今の“何か”はあの少年だ。
それまで彼女が知覚していた『痕跡』ではなく。
(かといって、ちゃんとした『存在』でもない・・・)
これは。
(な、に?)
余計なものを含まず、不純物を削ぎ落としたかのような。
那由子は一度強く目蓋を閉じた。
(そう、これはまるで・・・“原始”)



生命の、始まり。



「―――やってくれるじゃない」
那由子は小さく口角を吊り上げた。

引き返してせせら笑ってやりたい。
あの、見かけ倒しの、鉄面皮へ。

しかし那由子は足を止めることなく、歩き続けた。
今日これまでの全てが、どんどんと遠ざかってゆく。


・・・・・・遠ざかる。







ちらちらと白く長く糸のような。
おそらく誰の目にも触れることのない、幽かな光。

「―――まだこんなところを彷徨いているのか?
 さっさと昇れ」
魔実也はにやりと笑いながら。
その頼りない光を見上げた。

多恵から伝染し、肥大した闇は。
より巨大な闇へと還り。
遺った純粋な魂(たま)はふらふらと昇天してゆく。

「今度何かしらに捕まっても、僕はもう御免被(こうむ)る」



最後に残った一本を銜えて。
美味そうに紫煙を燻らせた。





弁護士は困ったように顎髭を撫で上げた。

「正直わたしはどうすればいいのか。
 当主がいずこへ消え去ったのか、手がかりらしきものがひとつもないのです」
「・・・だからといって、一切を放棄したわたしの元へ来られても困りますよ」

西行路昌彦はどすん、と畦に座り込むと迷惑そうに枯れた枝のような弁護士を見上げた。
弁護士はがらがらと鳴る喉をえへん、えへん、と咳き込みながら、「しかしですな」と食い下がる。
「西行路本家の財産は小声ですが国ですら注目するほどの額です。
 しかしながら西行路の血を受け継ぐのはあなたと暁彦さまだけだった。
 そして当主である暁彦さまが現在行方不明である以上、仮の財産管理人としてですな、わたしはあなたに・・・」
「わかった、わかったよ」
「で、では・・・っ」
昌彦は面倒げにやや太い手をひらひらと振る。
「もし暁彦が法律上死んだと見なされたら―――全額寄付だ」
「・・・は?」

弁護士は目を白黒させた。
昌彦はどうでもいい、といった態で空を見上げる。




(暁彦が、消えた)
(・・・多恵も、消えた)

いつも疲れて、やつれていた多恵の姿が浮かぶ。

(ああ、だけど)
暁彦が赤ん坊だった時は。
時折、笑うこともあった。

(多恵も、一緒に消えた・・・か)







ふと昌彦は。
どこか覚えのある、だが知らない銘柄の煙草の匂いを。

嗅いだような気がした。
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