月が、傾(かぶ)く。



川の流れる音。
風のない、澱んだ空気。
好き勝手に鳴き続ける昆虫たち。



血の池は、何処にも見えない。



先程から変わらない位置に立ち尽くして。
暁彦は荒く息を吐いた。



死体(たえ)が居ない。



「・・・多恵を引き裂いたのは、現実のはずだ」
暁彦はすぐ目の前の、青年に云った。
青年はやはり無表情なまま、暁彦を見ている。

「死体(たえ)を、どこにやった?」

暁彦は右眉を大きく上げて、問うた。
呼吸はすでに落ち着き始めている。

―――魔実也の薄い唇が弓形に変わる。
ふ、と鼻先で嗤ったのが、解った。
「・・・何を、視ていた?」
「・・・・・・」
「あの女は“其処”に居るだろう?」
「?」

魔実也の右手が、押さえていた自身の肩から離れ。
ゆっくりと暁彦を指さした。

―――全身が総毛立った。
魔実也の長くて細い指先は。
ぴたりと自分を指して動かない。

(“此処”だと?)

再び吐き気が込み上げる。

(“此処”だとっ!?)

無意識に胸元の辺りを掴んで、吐き気をやり過ごした。
怖気が過ぎれば。
やり場のない怒りが換わって込み上げてくる。
ぎり、と奥歯を噛んで。
暁彦は魔実也へ向かって叫ぶ。

「冗談じゃないっ!」
ぶあ、とふたりの間に風が舞い上がった。
大小様々な石が浮き上がり、ばしん、ばしん、と砕け散る。
「・・・っ!」
ぎり、と暁彦が唇を噛んだ。
ばさばさと乱れる長めの黒髪の隙間で、黒曜石の瞳が細められる。
「どうした・・・、僕まで届かないぞ」
紅い唇から真っ白な歯が覗いた。

ばしん、ばしん

次々と弾け飛ぶ石や岩だが。
何故か魔実也を傷つけるに至らない。
魔実也の口角は吊り上がったままだ。

「ほうら、視てみろ」
「何をだ!」
「・・・“ママ”だぞ、暁彦」
ぱたりと風が止んだ。
暁彦は大きく目を見開いている。

「冗談じゃない・・・真っ平だ」

ぺた、ぺた、ぺた

枯れ枝のような指が。
静脈のくっきり浮き出た手の甲が。
腹や胸や首を這いずり回る。
その“手”は、這い回るだけではなかった。
時折ずぶり、ずぶりと指先が肉体に沈んでゆく感覚も襲ってくる。

ぺた、ぺた、ぺた
ずぶり、ずぶり
ぺた、ぺた
ずぶり

全身を、這う。

「・・・なんなんだよ?」
暁彦が嗄れた声で問うた。
「多恵、お前は“何”だったんだ!?」
背中にぐいっと骨張った躯が押しつけられる。
「・・・多恵」
首筋にかかる短く浅い呼吸は、まるで笑っているようで。
「おまえは」
ぐじゅり、と全身に侵入してくる多恵を、後に感じながら。
暁彦は諦めたように鼻で笑った。
「おまえは、僕を取り込みたいのか?
 それとも、取り込まれたいのか?」
彼女は、何も答えなかった。
しかし、半ば溶解しながら暁彦に纏わる彼女の躯の重みが。

・・・その問いに応えているかのようだ。

がしっと赤みの強い前髪を掴んで。
暁彦が唇を噛んだ。
「邪魔なんだよ、鬱陶しいんだよ、煩いんだよ・・・っ」
多恵への嫌悪を吐き出す唇が震える。

「どうでもいいんだよ、お前なんか。
 どうでもいいんだよ、家族なんか。
 どうでもいいんだよ、日本なんか」
「壊れればいい、無くなればいい、狼狽えればいい・・・!
 そうさ“何もかも”がだっ!!」
暁彦の声が、どんどん甲高くなってゆく。
止めどなく、躯へ侵入してくる『多恵』の気配に。

震えた。

・・・生前の、多恵のように。







「死人になったら、箍(たが)が外れたようだな」
魔実也がいつの間にか暁彦の眼前に佇んでいた。
暁彦はそれに気付かぬまま、がくりと片膝を折る。
「彼女の最大の願いは、いつからか自分を弾いた“世界”ではなく。
 ・・・“お前”に替わっていたらしい」
魔実也の声は、薄い膜で隔てられたかのように曖昧に響いた。
「一度染まったそれを、強引にまた染め変えるのか?
 ―――壊れるぞ」



(何を)
(何を云っている?)
あいつの声だ、と解っていても反応できない。
暁彦はがしっと己の頭を抱えるようにして蹲る。
「げ、ぐえっ!」
吐き気が襲ってきて、反射的に口を開いても、なにも込み上げては来ず。
それでも気持ち悪さはどんどん大きくなってゆく。
「ぐ、ごほっごほっ」
背にかかる『多恵』の重みが、急速に自分の体内に移行してくることが恐ろしくて、吐き気が止まらない。
「・・・恐ろしいか?」
また膜を通して声がする。
「お前は“多恵”を“こわがってる”のか?」

(・・・こわい?)

暁彦はやっと魔実也に気付いたかのように、顔を上げた。
深淵の闇の瞳が、自分を見ている。
『無音』の闇が。



呑まれる。

呑み込まれる。

(僕が!?)
(誰に)
(多恵に)
(・・・この男に)

闇に。


「ああああああっ!!!」
咆吼した。
叫ばないと行き場のない恐怖が、躯の裡で膨れあがり破裂しそうだった。
「あ、あ、あああああっ!!」

背にのしかかる『多恵』がどろり、どろりと染み込んでくる。

(坊ちゃん)
(坊ちゃん)

(わたしの)

わたしの所有(もの)






「あ、あ、あーーーーーっ!!」

ばしん、と視界を稲光のようなものが奔った。
眼球が弾けたかと思うほどの衝撃が脳髄に響く。
ぐらぐらと揺れる頭を何度か振った。
視界はまるで直に太陽を見たように、強烈な『白』が焼き付いている。
そうして次の瞬間、膝を付いている地面がぐにゃりと柔らかくなった。

(何だ?)
(何が起こった?)

暁彦は何度も何度も己に問いかける。
ぐらぐらと煮沸されたような脳が、彼のその思考を処理できない。

(何だ?)
(何だ・・・?)
眼球に焼き付いた白は、やがて徐々に闇に変わる。
柔らかな地面に呑み込まれる両足は自由が利かなくなっていた。

ひゅーひゅー・・・ひゅー・・・

空気の漏れるよな音が絶え間なく耳を打つ。
それはまるで。
多恵の呼吸のようで。

(動けない)

自分は動けないのに、ひゅーひゅーと呼吸音は大きくなる。

(みえない)

『白』かった視界はいつの間にか無明の闇に染められていた。

ひゅー、ひゅー、ひゅうううーーー・・・

自分の内耳から漏れてくる呼吸。
暁彦の、躯の裡から。
呼吸している。

(多恵)
(多恵)
(多恵、多恵、たえたえたえたえたえたえっ!!)
(居る)
(居る)
(躯(なか)に、居る)

嗤う、多恵の顔が。
ぐるぐると渦巻いた。



(坊ちゃん)

(呼ぶな)
(わたしの、坊ちゃん)

(云うな)
(坊ちゃんは“わたし”ですよ―――)




「違う!違う!ちがう!!」


恐怖が、膨張する。
内蔵を破り、筋肉を破り、血管を破り。
その“恐怖”は皮膚を裂いて、爆発しそうだ。

今度は充血で真っ赤に染まった眼球が。
みしみしと眼窩から飛び出さんばかりになった。

「ぐ、ぐ、ぐううぅ」

ぎりぎりと歯を噛みしめても獣のような咆吼が漏れた。
(ダメだ)
(膨らむ)
(飛び出る)
(壊・・・)








「―――おい、壊れると云ったろう?」

ひやりと冷たい手が。
暁彦の右手首を掴んだ。
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