―――何が起こったのか、わからなかった。

ただ自分の裡(なか)から何かが激しく溢れ出る感覚だけが。
急速に消失する意識の中で増大する。
多恵はその感覚だけを、追っていた。

「・・・・・・」

ばしゃばしゃと顔や首筋を濡らす生温かいもの。
錆びを含んだ、独特の匂い。
反射的に手が己の腹へ動いた。
(割れてる)
そこにあるべき肌の弾力はなく。
寄る辺ない頼りなさに、指がスカスカと彷徨う。

左の肩から、下腹部まで。
多恵の躯はざっくりと切り裂かれていた。

ぶしゃあああ

土砂降りのような血の雨が、多恵と、多恵の傍にいる暁彦を真っ赤に染めあげる。
「・・・」
声を出す力も残っていなかった。
大腿にどろりと触れたのは、おそらくはみ出した腸だろう。
多恵は流れ出す血液を追うように、焦点の合わなくなり始めた眼球を動かす。

其処に。
赤い赤い、暁彦が居た。
(ああ――――――)
坊ちゃんが、わたしの血で汚れている。
多恵はもう一度、血の気を失って真っ白になった指先を。
己の下腹部へ這わせるかのような仕草をした。

(わたしの、“此処”から)
うっとりと想像する。
(・・・まるで生まれて来たようだ)

薄い薄い皮膜と、血と。
赤く染まって生まれてくる赤ん坊。

それが。
目の前の暁彦と重なってゆく。
(わたしの、子)
うっとりと血を流し続けながら、
多恵は夢想する。
(坊ちゃんは、漸くわたしの子どもになった)
(だって)
(ほうら)

多恵の指は。
ちょうど己の子宮あたりで彷徨った。
温かな血糊。
だらりとはみ出した腸。
それら以外の、何ものも掴めなくて。
ただ、彷徨う。

ぼご、ぼご、めき

重力に逆らえなくなって、ついに多恵の左半身は腰骨のあたりから完全に折れ曲がり。
彼女の左腕はべしゃりと足元の血の海に浸かった。

ゆっくりと多恵は天空の月を仰ぎ。
やがて辛うじて残っていた右半身と両足からも、力が抜ける。
ゆらあ、とほぼ半分の痩せた躯が。
月の光を浴びながら、血だまりに沈んだ。

ずぶずぶ、ずぶずぶ

どんどんと、沈んでゆく。
即席の血の池に。
おもしろいように沈んでゆく女の躯。
しかもその躯は腰の箇所まで、ふたつに切断されている。

ずぶ、ずぶ、ずぶ

暁彦はじっとその様子を凝視していた。
眦が吊り上がり。
忙(せわ)しく息を吐いて、吸う。
暁彦は自分に降りかかった血痕を、力を入れて拭った。
卑しい、役立たずの女の。
生温かい血液。
嗅ぎ慣れた鉄錆のような臭いに、気持ち悪くなってくる。

「・・・どうして“沈んで”るんだよ、多恵。
 此処はただの河原だ。
 底なし沼でも蟻地獄でもないのに」

暁彦はやはり彼女の血の付いた唇を舐め、ペッと吐き出した。
苛々して我慢できない。
ずぶずぶ沈みゆく女は、すでにぽっかりと顔だけを、血の池から晒すのみだ。

「どうして・・・嗤ってるんだよ?」
ぽっかりと血の池に浮かぶ小さな女の、白面は。
けたけたと嗤っているようだった。
・・・音もなく、動きもなく。
かさついて張りのない目尻の皺と瞳孔の揺らぎだけで。

多恵は嗤っている。

これは誰だ?
いつも自分の顔色を窺って、腰を折って、震えて。
何にも己で決断できなかった“多恵”なのか?

(気持ち悪い・・)
多恵の血のぬめりが。
臭いが。
生温さが。

・・・あの嗤いが。



「そうか」
暁彦は何か思いついたように、魔実也の方を振り向いた。
「・・・お前、が視せているのか?
 何のつもりで?」

魔実也はただ立ったまま。
暁彦を見据えている。
左肩はやはり押さえたままだが、痛みを感じているようにはとても見えなかった。
黒スーツは土にまみれ、愛用の帽子は何処かへ飛ばされたのか辺りに見当たらない。
肩まで届く長めの黒髪が。
・・・どろりと蒸された風にゆらゆらと揺れて。
その白皙の貌に纏わり付く。
闇色の瞳は。
暁彦を捉えて、離さないかのようだ。

(無音)

暁彦は漸く思い至った。
自分の魔実也に対する不愉快さの、本当(わけ)を。
(音が、無い)

魔実也から、自分に対する“何か”を得ることが出来ない。
魔実也から“自分”の音を・・・拾うことが出来ない。
暁彦への興味がないわけではないのだろう。
暁彦に対して、こうして“行動”しているのだから。
だが。

(無関心・・・無視・・・)
どれもそぐわない。
(無音)

―――それは恐怖のひとつだ。
(何も)
(何も)

(聴き取れない)

ざわ、と背筋が震えた。
それは、暁彦にとって初めての感覚だった。





・・・ぴちゃ

音だ。
はっとして我に返る。

・・・ぴちゃん

頬に降りかかる、何か。

・・・ぴちゃ・・・ん

暁彦を見下ろす、白い女の顔。
「多恵―――」
嗤いながら。
うっとりと。
自分を見下ろしている。

彼女の髪や頬や顎から滴り落ちる赤い液体が。
次から次に自分の顔へ目がけて。

――――――たぷん

液体の生ぬるさとその饐(す)えた臭いに我慢できなくて。
拭おうとした。
それなのに、どろりと何かがたゆたっただけで。
動けない。

(!?)

見下ろす多恵。
見上げる自分。

血の池に顔だけぽかりと浮かんでいるのは。
多恵でなく、暁彦だった。

―――わたしの、血です

多恵が囁く。

―――わたしの、此処、の

下腹部を撫でながら囁く。
彼女の下半身は真っ赤に染まり。
ぼとぼとと血液を流し続ける。
血溜まりが大きくなり、深くなり、池になり。

ぼとぼと
ぼとぼと

果てしなく。

―――その皮膚も筋も骨も内臓も

囁く。

―――わたしの血に染まる



多恵の闇が伝わり
多恵の血に染まり


―――わたしの、子

(おまえ、の子?)

無知で愚図で。
何の役にも立たない。
ただ従順だけが取り柄の、冴えない女。

(・・・僕が?)

この、汚らわしい、女の?

(冗談じゃない)
(よせ)
(まっぴらだ)
(やめろ)
(消えてしまえ)


「・・・失せろ!!」

叫びをあげた途端。
どろどろと血が口の中へ入ってくる。

ごぼごぼ どろり

呑みきれないほどの、濁った血液が。
「失せろ、失せろ!!」
かまわず叫び続ける。
どろり、どろり、澱んだ液体が容赦なく、口から入り込んでくる。

多恵は嗤う。
不思議なことにその嗤いは。
彼女が顕した表情の中でも、もっとも魅力的にすら思えた。

(違う)

すでに呑み込みきれない、血液が胃から逆流してぐぷり、と口から吐き出される。

(違う)

がはっ、と全部吐き出して。
声を上げた。

「・・・沈んでいるのはお前だ、多恵!!」



赤が。

弾けた。
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