―――まだ月は高い。
まぁるいその青白い光を背にして。
赤毛の少年が、嗤う。

魔実也はやや眩しげに、その少年を振り仰いだ。
彼の、影法師が黒く黒く浮き上がる。



「・・・かくれんぼはお仕舞いだね。
 それとも、鬼ごっこだったのかな?」
小首を右に傾げて。
暁彦が訊く。
魔実也が軽く前髪を掻き上げ。
その薄い唇の端を吊り上げた。
「お前と遊んだつもりはない。
 ・・・遊ぶつもりも、ない」
月光が魔実也の頬の稜線を浮かび上がらせた。
深淵の闇の、瞳。
これほど“掴めない”人間は“初めて”だ。
それが気に入らない。
苛々する。
排除すれば、気分がすっとするだろう。
少し抵抗でもあれば、興が深まるというものだ。

「坊ちゃん・・・・」

無意識に楽しそうな少年を、呆けたように多恵が見上げた。
魔実也がやや目を伏せて、多恵を見下ろす。
彼女の痩躯は、生気が全てはぎ取られたように力なく。
幽鬼のように現実感がない。
紙のように真っ白な顔の、小さな口と鼻が慌ただしく呼吸している。
その顔に不釣り合いなほど大きな瞳が。
ただひたすら。
暁彦を映していた。
しかし暁彦は軽く舌打ち、汚い物を見るかのように多恵を見る。

「・・・役立たずの多恵。
 この男と何を話した?」
「わ、わたしは―――」
「まあ、どうでもいいや。
 ただし、僕の足を引っ張るのだけは・・・許さないよ?」

震える多恵からあっけなく視線をそらして。
暁彦は再び魔実也へ視線を動かした。

―――極上の獲物。
その心臓を潰そうか。
その取り澄ました顔を潰そうか。
ああ、内臓を爆発させても面白いかもしれない。
さらさらと癖のない赤毛が揺れて。
青い月を背負って、少年は綺麗に笑った。
魔実也が、人形のような面(おもて)をしたまま、それを凝視する。
ほんの僅か。
魔実也の切れ長の瞳が細くなる。

どくん

空気が大きく脈を打った。

ばしっ

魔実也の左腕が跳ねる。
「・・・っ」
小さく呻いて、魔実也が前屈みになる。
多恵が慌てたように立ち上がり「坊ちゃん!!」と悲鳴のような声を上げた。

「なんだ?また外れたのか?」
暁彦は訝しげに眉根を寄せて、無意識に呟いた。
・・・目掛けたのは心臓、だったはずだ。
だが当たったのは肩の一部分。

「何故だ・・・?
 これも、おまえがやったのか?」
魔実也が、肩を押さえながら嗤った。
今まで見せていた能面が微笑んだような笑みでなく。
暁彦が他人へ向ける『嗤い』と同じ――――――

ぐあ、っと暁彦が歪んだ形の唇を開いた。
「まやかしのようなことばかり仕掛けてくるな。
 ・・・“気”か?
 僕の気を散じるのに長けているのか?」
魔実也がゆっくりと動いた。
その背に、多恵の姿を隠すように。
「お前は、彼女の闇の、精巧な複製にすぎない。
 だから揺らぎやすい」
暁彦の目蓋が、ぴくりと痙攣した。
ぽか、と口を半開きにして、黒スーツの陰の多恵を見る。

「・・・何を云ってる?
 僕が、多恵の複製だって?」
そして云い終わるか終わらない内に、暁彦は大声で笑い始めた。
「は、はははっ!
 はははははははは・・・はっ!!」
心底可笑しそうに腹を抱える。
蹲る多恵の両指が、ぐっと河原の小石を掴んだ。
「そいつは奴隷だ!
 それ以上でもそれ以下でもない。
 ―――訳の解らない事を云うな」
そしてす、と唐突に笑いを収めると「多恵」と抑揚なく呼びかけた。
「多恵」
念を押すかのように、もう一度。
「巻き込まれたくなかったら、離れてろ」

―――命令だった。
彼女を案じたわけではない。
極めて事務的な。
それでも多恵の躯はその声に反応した。
枯れ枝のような足を踏ん張らせて。
多恵がのろのろと動く。
だが最早暁彦の視線は、魔実也だけを捉えていた。

「綺麗には死なせてやらない。
 引き裂いてやる。
 少々の小細工じゃ避けられないよ」
くすくすと楽しそうに笑いながら、暁彦はそして付け加えた。
「お前に“力”があれば、反撃してみろよ」
魔実也は肩を押さえたまま、黙って暁彦を見る。

哀れな女の闇に伝染した、無垢な存在。
・・・保菌者よりも感染者の方がやっかいなのは、他の病原体と同じらしい。
(さて、やっかいだな)
実際左肩は脱臼でもしているのか酷く痛む。
力任せにやり合うのも、好まない。
目の前の“化け物”を生み出した女といえば。
全てを理解してなお、“我が子”の云いなりだ。
(出来れば)
出来れば、解放してやりたかったが―――

かたかたと、多恵の下駄の音が響いた。
彼女は足場の悪い河原をよたよたと進む。
「はあ、はあ、はあ」
息苦しげに多恵が呼吸する。
魔実也の背後から、暁彦の背後まで、それこそ這いずるように移動した。

ざああ、と風が強く川面を揺らす。
暁彦の琥珀色の瞳が大きくなった。
「・・・ちゃんと予告してやるから。
 僕も楽しまないとね」
「前置きが好きだな」
「ああ、それは僕がまだ子どもと云うことで納得してよ。
 ・・・まず右足だ」

ばん!

魔実也の足元辺りの石がもの凄い勢いで幾つも弾けた。
「やはり“ずらして”るな。
 奇妙な力だ。
 ・・・左足」
魔実也の瞳が細くなる。
彼を取り巻く空気が。
彼に従う影が。
ゆら、と震えた。

ばん!ばん!!

「・・・っ」
地面が数十センチほども抉れ、砕け散った石の欠片が、辺り構わず無数に飛び散った。
ぴぴ、と幾つかが魔実也の頬や手の甲に掠めて。
紅い筋を残す。
その様子を腕組みして暁彦は凝視していたが、不機嫌な様子は隠そうともしなかった。
「その力。
 無性に腹が立つんだけど?」
暁彦は疲れたように首を曲げる。
魔実也は頬の傷を軽く拭って、暁彦を見上げるだけだ。
「・・・何故だか解らないけど、腹が立つ」
再度、暁彦は首を傾げた。
考えることに飽きたような、投げやりな表情で。

魔実也はぽんぽんと肩にうっすら積もる砂をはたきながら、また嗤った。
「何も知らないからだ」
不意に返ってきた答に、暁彦がびくりとする。
魔実也はそれに気付いたのか、気付かなかったのか、なお云い募った。

「“餓鬼”だな、お前は」

暁彦が目を見開いた。
「・・・死ねよ」
暁彦がすい、と右腕を掲げる。
丸い月が、その華奢な腕に分断されたかのように映った。

「“全身”だ・・・今度はどうやって逃れる?」

暁彦の躯からこれまで以上の“気”が溢れ、巡る。
恍惚さえ覚えて、暁彦は嗤った。

がし

満ち溢れる力を、解き放そうとしたその瞬間。
暁彦の両足に何かが縋った。
放たれない力が、ぱちぱちと精神を苛つかせる。

また。
邪魔が入った。

暁彦は色素の薄い瞳をぎろりと下へ向け。
己の足首を掴む、細い指を見た。

「・・・多恵、何をしてる?」
肩で息をしながら。
がくがくと震える膝でにじり寄って。
多恵は這々の体で暁彦の足にしがみついていた。

「だめ、です・・・坊ちゃん」
「―――」
「だ、めです・・・もう・・・だめ」
「離せ」
「お、わりです、お終いです、もう、もう・・・終わりにしましょう」
「・・・・・・」
「―――坊ちゃん」

ふう、と暁彦は肩で息を吐いた。
一、二度大きく瞬きをして。
「どうしてお前は・・・」
と、呆れたように呟く。
彼が多恵へ向けていた視線を魔実也へ一瞬戻すとそれを受けて、魔実也が傷めた肩を押さえながら何か云いかけた。
そして。

ぶつ、と糸が切れたような音がして。


ざあざあと。
赤い雨が降った。
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