生まれた家でも、いつも多恵は邪魔者だった。
確かに賢くも素早くもなく。
器量すら並以下。
食事も殆どを年上の兄や姉に奪われたので、ぎすぎすに骨張って可愛げの欠片もなかった。
両親も毎日食べるために働くのが精一杯で、多恵のことなど眼中にない状態だった。
上手い具合に六歳の多恵が西行路に奉公へ行く話になったとき。
誰もが喜び。
手を叩いた。




「わたしは、要らない」
「どうでもいい、人間だった」



―――さあ、今日から此処が、お前の家だ。

そう連れてこられた裕福な屋敷。
確かに食事には困らなかった。
だがその館で一番下っ端の多恵には、凄絶な虐めがあった。




「誰も、誰もかも」
「・・・わたしを蔑んで」
「わたしで、手軽に己の鬱憤をはらした」



―――やめて、やめてください!
   お願いします・・・やめて・・・っ

多恵に初潮がおとずれてまもなく。
主人は気まぐれに幾度か多恵を抱いた。
強く逆らえる筈もなく。
二十歳を迎えるまでに、三度堕胎した。




「何もない」
「何も、のこらない」
「生き続けることだけ」

「何も、要らない」
「全て、消えてもかまわない」



―――いや、いや、いや!
もう何もかも滅んでしまえばいいっ!!




愛された、記憶がない。
大事にされた、記憶がない。
それほど。
わたしは疎ましいだけの、存在なのだろうか。



―――滅んでしまえ

―――滅んでしまえ

―――わたしを、弾いた世界など!




だが、そんな絶望に苛まれていた時に。
暁彦が、生まれた。
多恵が初めて触れた、無垢の存在。

「柔らかくて」
「小さくて」
「見えていない瞳で、わたしを見て」

初めて、愛した存在。
だが、泣かない赤子を周囲は気味悪がった。
生みの母でさえ、敬遠した。
そこで、年齢的に手頃な多恵が乳母のような役目を果たした。

くにゃりとして。
小さくて。
頼りない存在の、嬰児(みどりご)。
何の抵抗もなく多恵の腕に抱かれる――――――

屋敷の中で、多恵のことを蔑まない唯一の存在が。
嬉しくてたまらなかった。

「嬉しくて」
「愛しくて」
「夢中で」

己の全てを注ぐように、育てた。





ぱん、と目の前が弾けた。
いや実際はそんな音などはないのだが。
ただ、過去から現実へ急に引き戻された衝撃を、脳がそう捉えただけなのだろう。

「・・・あ・・・?」

多恵がふらふらする頭を軽く振る。
始めに貧相な己の足元。
裾の乱れた着物。
そして。
真っ黒な靴。
男の、足。

「ああ・・・」

多恵は何かに誘われるかのように首をもたげた。
眼前の白い顔の男性が、哀れむように自分を見ている。
―――わたしは何をしていたのか。
―――わたしは、この男性に何をされたのか。

「わ、わたしは・・・わたし、が」
「そうです。
 貴女が『彼』を生み出した」
「え――――――」

多恵は窪んで黒ずんだ眼窩を細かく痙攣させた。
それ以外の、彼女の躯の機能は、全て停止したように動かなかった。
川を吹き渡る生ぬるい夜風が。
じっとりと滲みだした額の脂汗を。
撫でてゆく。

「あの“子ども”は確かに特殊だったのでしょう。
 何も持たず、何もなく、真っ白なままで、胎内から外へ出て」
魔実也は一呼吸置いた。
目の前の中年の女性は、痩せた背中を半分彼に向けたまま。
魔実也の云わんとする言葉を、畏れている。

「・・・胎内から出て、『貴女』に晒された。
 『貴女』の『最大の望み』を注がれた」

「やめて」
多恵が微かに呻いた。
その先を、云うのは・・・やめて。
「お願いします、やめて」

「―――貴女の負が、闇が。
 無垢な赤子に伝染し、その赤子の全てを侵したんです」

多恵はかたかたと震えだした。
いつも都合が悪くなると震える彼女を見て、暁彦はよく鼻でせせら笑ったものだ。
暁彦は、完璧に彼女を見下していた。
だがしかし、多恵も心の奥の、何処かで暁彦を哀れんでいたのだ。
まだ幼い彼は、実の両親にも愛されず、手に余る力をコントロール出来ず。
ただ暴走を繰り返しているのだと。
暁彦がどれ程の『怪物』であったとしても、結局、彼女は暁彦を愛していた。
見捨てられない。
放っておけない。
・・・わたしが、この子の『母』なのだから。

だが。

「わたしなの・・・?
 わたしが、居なければ・・・?」
「全てが、貴女のせいではないでしょう」
わしわしと己の髪を掻きむしる多恵へ、魔実也は抑揚のない声でそう告げた。
「“特殊”だと云ったでしょう。
 あの子どもは“力”を持っていた。
 あるがままをそっくり受け入れ、それに染まる。
 困ったことにかなり増幅されるようですが」
「だけど!」
多恵が魔実也へ振り向き、叫ぶ。
「わ、わたしでなければ・・・!
 坊ちゃんを育てたのが、わたしでなければ・・・っ」
魔実也は小さくかぶりを振った。
「他の誰でも同じです。
 人間の『何か』が彼に伝染すればきっと」

『西行路暁彦』は存在する――――――



多恵はがくりと膝を折った。

どこかで。
やり直せなかったのだろうか?
どこかで。
引き返せなかったのだろうか?

「・・・貴女は、未だこの世界を憎んでいるでしょう」
見透かされた真実を、いともあっさりと魔実也が告げた。
全てはこの状態のまま進行してゆくのだ、と多恵はぼんやりと悟った。



川面を吹く風が、冷たくなった。
月が一段と白く冴えた。
かさりと草を踏む音がした。

「見つけた」

くすくすと笑い声がした。
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