「やあ、久しぶりだな」

酒場の薄暗い片隅で酒を呷っていると、思いもかけない人物が僕に声を掛けた。
「夢幻君・・・」
彼は黒い帽子をぶら下げて、相変わらず真っ黒な宝石(いし)のような瞳で。
椅子にだらしなく座り込んでいる僕を見下ろしている。
「実は君を探していた」
夢幻君は僕に断ることもせず、するりと向かいの椅子に座った。
「・・・僕を?」
「ああ」
酔いの回った頭では、うまく思考することも出来ず。
とろん、とした視線を彼へ動かすのが精一杯だ。
「僕を捜してたなんて、随分暇なんだな」
「・・・依頼だからな」
「依頼?」
「―――彼女、が僕に依頼したんだ。
 君の様子を探って欲しい、と」
酒でふやけた脳味噌で、それでもなにか引っ掛かっているような気がして、気怠げに口を開く。
「・・・探って、してほしい?
 それだけなのか?」
「それだけだ。
 彼女は君には気付かれないように、と僕に頼んだ」

ダン!!

両手の拳を、小さなテーブルに叩き付け、僕は立ち上がる。
「会いたい、とは言ってくれないのか!?
 せめて別れる理由くらい聞かせてくれても・・・!!」
いい歳をした男の癖に、目蓋の裏が急に熱くなった。
いくら考えても彼女の真意が掴めずに、酒に溺れる毎日の自分。
探しに行きたくても、彼女の素性を全く知らなかった自分。
「う、あ、あ、あ」
震える声と共に、涙がぼとぼとと零れた。
・・・なんて、滑稽だろう。

「彼女は、自分の事は君に一切気取られることなく済まして欲しい、と言ったが」
いつの間にか煙草を呑んでいた彼はふう、と紫煙を吐きだして、伏せていた眼をゆるゆると開き。
僕がその動きに釣られるように視線を彼と会わせた時。
・・・ぐん、と彼は有無を云わせない圧力を僕に伸し掛けてきた。

「彼女の依頼を反故にする形になるが・・・君達は会った方が良いようだ」





薄暗い林の奥に、その館は在った。
陽の光がまるで途中何処かで遮られたかのように、圧倒的に光量が少なく、 それがなにやら作為的でぶるり、と震える。
真夏だと言うのに、意味もなく広い玄関ポーチにはかさかさと色の抜けた落ち葉がひしめいて。
扉の取っ手は、青黒く厳めしく、まるで僕たちを拒否しているかのようだった。

「この二階の奥にいる」
慣れた様子で夢幻君は扉を開き、僕を中へ招き入れた。
絨毯もマットもなく、むき出しの床にうっすらと積もる埃。
みしみしと微かに聞こえる家鳴りにビクつきながら、緩く曲線を描く階段を上る。

ここが。
こんなかび臭く、薄暗い館が・・・あの華やかだった彼女の家なのか・・・?

二階の廊下の、一番奥の部屋の前で、ぴたりと歩みを止め、夢幻君が僕を振り返った。
「・・・」
何も言わなかったが、あまりに静かなその眼は、僕になんらかの覚悟しろと言うことなのだろう。
ごくり、と生唾を呑み込み。
視線を彼から逸らさずに、頷く。
彼はなんの表情も変えずに、ただ眦を心なしかきつくして―――ノブに手を掛けた。

きいい・・・

錆びた蝶番が悲鳴をあげる。
やはり薄暗い室内に。
白以外の色彩がないベッドに。

彼女が横たわっていた――――――



僕たちの、気配がわかったのだろう。
彼女はちらりと目だけをこちらに向けた。
驚愕、というよりは悪い予測が当たった、といった表情で。
血の気のない蒼い唇を、小さく噛んだ。
だが、そんなことよりも。

「どういう事だ・・・これは?」

彼女は、細い顎まですっぽりと、躯を真っ白なシーツで覆っていた。
頭部の大部分を、やはり真っ白な包帯でぐるぐる巻きにしている。
殆ど身動ぎもせず、眼球だけで僕を見ている。
とても、とても、哀しげに。

「どういう事だっ、これは・・・!!」
僕の背後で、ただ静かに佇むだけの夢幻君に、叫ぶ。
「彼女は、病気なのか!?
 これほど弱っているのにどうして僕に何も言わなかった!?
 何故?何故!?」
彼女はただ、目を伏せ。
僕は掴みかからんばかりに、夢幻君を見据え。
夢幻君は能面のように無表情のまま、真っ黒な瞳だけを僅かに動かし。
彼女に、訊ねた。

「いいですね?」
「・・・・・・ええ」

微かに零れた彼女の溜め息に、諦観のようなものが含まれている。
徐に頷くと、夢幻君はゆらりと僕と彼女の間に立った。

「いいか、落ち着いてよく聞くんだ。
 ―――彼女は『欠けて』いる。
 躯の大半が、既に失われているんだ」
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