女は急に気が変わったように身を翻した。
「ああ、なんだか苛ついてきたわ。
 もう帰るわね」
男は彼女の豹変に驚いて慌てふためく。
「お、おい、ちょっと待ってくれよ。
 君も喜んでくれたんじゃないのか?
 これから僕の両親に会ってくれるって・・・!」
女はきゅっとヒールに力を入れて、更に歩を速めてゆく。
不意に思い出したように振り返って
「・・・しつこいわね、どうでもいい気分なの!!
 さようなら!」
そう言い捨てて、フレアースカートをひらひらさせて小走りに去っていった。





目をぱっちり見開いた紅いドレスの人形を少女はいきなり乱暴に放り投げた。
姉はそれを咎めてぺちんと妹の頭を叩く。
「駄目じゃないのー。
 お父様が大事にね、って仰ってたでしょ!?」
少女は上目遣いで姉を睨んで顔を歪める。
「急にキライになったの、あの人形。
 もう見るのも触るのもイヤなんだからっ!!」
「どうしてぇ?
 あんなに可愛がって、あたしにも貸してくれなかったのに?」
余程苛々するのか少女はぶんぶんと頭を振って癇癪を起こした。
「煩いなー、キライったらキライなの!!」





溜息ばかりの息子を心配して母はおろおろしていた。
「どうしたんだい?
 あんなに勉強して志望大学に合格したっていうのに、その浮かない顔つきは?」
息子は赤いニキビの鼻頭をさすりながら、大きな背を丸めてまた溜息をついた。
「ああ、虚しい。
 何であんなに勉強したんだ?
 もしかして俺は大切な時間を無駄にしてしまったんじゃあないのか?」
「お前・・・昨日までとても喜んでたじゃないか、どうしちまったんだよ?」
「はああ〜、
 虚しい、虚しいなあ・・・・・・」







ボクはボクを自覚した途端、それに気付いた。
ボクには、決定的なモノが足りない。
それはおそらく、ボクの存在を維持するほどの、大切なモノ。
ボク以外のヒトにはそれがあるのに
―――何故かボクには、無かった。

ボクは、ボクを繋ぎ止める為に彷徨っている。
時に強烈な甘い香りがボクを包んで
ボクは暫しソレに全身を晒す。
ボクはソレにチカラを分けてもらって
また、彷徨う。

ボクの大切なモノを探す為に。







「どうしても、目を覚まさないんだ」

男は憔悴した顔でどさりとソファーに沈み込んだ。
男の目の前には細面の、妙にすました青年が座っている。
青年の吊り上がり気味の眦と、光を吸い込みそうな黒い瞳が、 硬質の空気を醸し出していた。
「結納も交わした。
 結婚の日取りも決まった。
 それなのに唐突に、彼女は変わってしまった」
「・・・どんな風に?」
「カフェで談笑していたんだ。
 そう、誤って彼女がグラスを倒した『途端』だ」
青年は緩慢に両指を組んだ。
ただそれだけの所作に、話していた男はぎくりとなった。
成る程、噂に違わず圧倒される―――この『夢幻魔実也』という探偵は。
男はハンケチで額の汗を拭って話を続けた。
「その『途端』、彼女は昏い目つきになって俯いた。
 様子がおかしかったので訊いたんだ、どうしたんだ、と。
 だが彼女は何も応えなかった」
思い返すのも嫌だったが、男は眉を寄せて、その時の光景を懸命に反芻する。
「彼女は自分で立ち上がろうともしなかった。
 辛うじて私は彼女を家へと送り届けたが・・・それ以来彼女は何もしない」
「何も?」
「ああ、話すこと、動くこと、食べること、眠ること、もだ。
 薬で無理矢理眠らせたり、皆で飲ませたり食べさせたりもした。
 だがそれにも限界がある」

男は自分の膝頭を握り締めて、頭を下げた。
「医者にも診せたが埒があかない。
 ・・・君に頼るしかないんだ。
 頼む、彼女を助けてくれ!!」
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