ただ開いてるだけの瞳が、くすんだ天井を見上げていた。
男はゆっくりと彼女に近づくと、そのやや厚みのある手の平を彼女の目蓋にそっと置く。
「・・・眼が、乾いてしまうのでいつもはアイマスクをしてるんですよ」
不器用に唇の片端を上げて笑ってみせるが、どう見ても顔を歪めたようにしか思えなかった。

魔実也はゆっくりと部屋を見渡し、柔らかな色彩の花々が生けられている花瓶に触れて、 黒曜石の猫眼を細めて、窓から差す木漏れ日を凝視した。
「・・・美しい令嬢に相応しい部屋ですね」
「はは、彼女が淋しくないようにと・・・いろいろ考えて、ね・・・」
魔実也は漸く彼女の枕元の椅子に腰掛けると、透き通るように白いその額に 長い指をかざした。
「―――貴方のような男性に愛されるとは、彼女は随分な果報者だ。
 それ故に、この事態を招いたのでしょうが」
「え!?」
魔実也の語尾がよく聞き取れなくて、男は声を上げたが、魔実也は薄く微笑むと彼に部屋から 出るように促した。
「暫く僕達だけにしてください。
 僕が良いというまでけして入ってこないように」

男は心配げな表情を浮かべたが、抗いがたい魔実也の声に圧されるように頷くと のろのろとその部屋を後にした。
男が退出するとすぐに魔実也は半分ほど開け放されていた窓を閉め、 厚いレース織のカーテンできっちりと覆った。
外では夕刻が迫ってきたとはいえ、暖かな色の陽がまだ上空に浮かんでいるというのに、 彼女の眠る部屋は瞬く間に室温が下がったかのように冴え冴えとした空間を醸し出す。
その空間の中心で黒いスーツの魔実也はまるで質感を感じさせない、影のように 佇んでいた。



やがて、じわじわと染み出すように、
暗闇が部屋を支配する――――――・・・・・・



しゅっ

唐突に小さな光が、真っ暗な空間にぽつりと現れた。
ちらりと、火の点ったマッチを持つ指と、魔実也の白い鼻梁が浮かび上がる。
彼は形の良い唇をすぼめると「ふう」とマッチの火に息を吐いた。
信じ難いことにその小さな火球はするりと軸を離れて、彼女の胸元まで飛ばされると、 ぐんと膨れあがって彼女と、彼女に覆い被さっている黒い物体を照らし出す。
火球が弾けて、彼女の姿が再び闇に沈んでも、その物体は魔実也の視線に 縫い止められた様にそのままもぞもぞと蠢いていた。

「最近、似たような現象が幾つか起きていたのは知っていたが」
黒い物体は、人間の子供のような輪郭を保っている。
「・・・どれも時間が経てば自然に皆回復していた」
痩せこけた女性から、離れがたいのか『それ』は顔らしき面を魔実也に向けながら その場から動こうとはしなかった。
「だからあまり気にしてはなかったんだがな・・・・・・」

魔実也は大きく右腕を掲げると、『それ』を抑え込むように振り下ろした。
そして、広げた右手の五指に纏わり付く『それ』を感じると、そのまま掴んで 振り抜くようにして眠る女性から引き剥がし、部屋の隅に叩き付ける。
流れるような動きは一分の隙も無く、『それ』は跳ね返って不様にもんどり打ち、ぐったりと 蟠った。

「さて」
魔実也は横たわる女性を覗き込んで、その呼吸音を確かめる。
規則正しく上下する胸、柔らかく閉じられた目蓋。
彼女は久方ぶりに安らかな眠りに就いていた。
「ふむ。間に合ったな」
そうして屈み込んだ姿勢のまま漆黒の瞳だけを後方へ動かすと、 その場から逃げ出そうと蠢いていた『それ』が彼の視線に気付いて、びくりと痙攣した。

「何処へ行くつもりだ?
 また新しい生気を供給する為か?」

微かな衣擦れの音のみで近づく彼を畏れるように『それ』は震え、戸惑う。
鮮烈な白さと底知れない闇で配色された眼球が、薄暗い部屋の中で金色の光を帯びた。

「・・・主を持たない『影』、か」





ボクは、影だ。

きっと、誰かの影だった。



けれど現在(いま)のボクは、
ボクを創る存在を・・・失っている。



「己を維持する為に、多くの人間の“正”の感情を取り込んで
 は・・・彷徨ってたんだな?」



とても、甘くていい匂いなんだ。
取り込むと、チカラが湧く。
チカラを貰って、探すんだよ・・・大切なモノを。




「ひとりの人間が持てる『影』は決まっている。
 お前が無理に入り込むことで、彼女は自分の『影』の許容量を大きく超えてしまった。
 ・・・危うく生命を落とすところだったな」



その女性(ひと)はとても居心地が良かった。
出来れば、ボクのモノにしたかったんだ――――――




「無理だな。
 短期間のうちに彼女は死に、お前はまた彷徨うだけだ」
小さく笑って、魔実也は懐から煙草を取り出した。
「言ったろう?
 ひとりの人間が持ち得る『影』は決まっている」
ぽっ、と小指の爪先程の炎が揺らめき、落胆したかのように小さく蹲る『それ』を見下ろして、 魔実也は思いついたように目蓋を持ち上げた。
「お前、かなり“力”をつけているな」
ぷかり、と紫煙が浮き上がり、拡散する。



「どうだ?僕を居場所にしないか?」



『それ』は驚いたように顔らしき部分を捻って、困惑した。
くくっと笑いながら魔実也は煙草を銜え直し、ベッドの側の椅子から 鍔の大きな帽子を取り上げる。
「なんだ?心配は要らんぞ。
 お前が人間の中の『光』を喰むのなら・・・」
深く被った帽子の向こうの双眸が、部屋の包む闇より黒く滲んで見えた。

 「僕は『闇』を喰む者だからな」
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