エアリスは、頬に触れる風が急に冷たくなった事に気付いた。
慌てて顔を上げて空を見上げる。
灰色の雲が、まるでアメーバのようにむくむくと増殖してゆく。
うっすら浮いていた汗が、蒸発すると同時に身体の熱を奪う。
この感覚は何だろう?
エアリスは意識していなかったが、手の指先が緊張で僅かに震えた。

「ミャアアア!」
先程まで大人しく寝そべっていたケット・シーが、低い声で鳴く。
はっとしてエアリスが視線を下ろすと、普段ものぐさで滅多に 怒らないケット・シーが尻尾を膨らませて、背中の毛を 逆立てて。
・・・威嚇していた。

(まさか)
エアリスは大きく瞳を開く。
(まさか・・・気付いた?)
ケット・シーが睨み付ける先にある“もの”。
それは。

「フミャアアア!!」
『彼』はケット・シーの威嚇に全く意を介さなかった。
微かに驚きの混じった、厳しい表情で。
暗くなってゆく空を睨んでいる。
きつくなった風が、ばさばさと『彼』のマントをはためかす。
その時やっとエアリスは気付いた。
今まで、まるで陽炎のように微弱だった『彼』の存在感が――― 強くなっていた。
だから、ケット・シーは気付いたのだ・・・この瞬間に。
そして、それはどんどん強烈になって、存在感どころか明らかに 彼女の肌をびりびりと突き刺すほどに鋭く、大きくなってゆく。

どろどろと空が濁る。
ケット・シーの唸りがますます低くなってゆく。

太陽光は殆ど遮られ、まるで夜かと思えるほど、辺りは暗くなった。
そんな天空をじっと睨み付けていた『彼』が。
不意に顔をエアリスへ向ける。

―――心配ない

小さく開かれた彼の唇が。
確かにそう動いた。
それは、『彼』が初めてエアリスへ起こした行動ともいえるもので。
心の底でそれが嬉しいと思いながら、この状況が実は切迫していることを 示しているからなのだと、エアリスは理解する。

エアリスは風に煽られる髪を押さえながら叫んだ。
「・・・わかってる、信じてるから!!」
そうしてまだ毛を逆立てたままのケット・シーを抱き上げた。
翠の瞳を、『彼』へ反らさないままに。
『彼』が。
小さく微笑う。

キキッ・・・キキキッ

上空で嫌な金切り声のような音が響いた。
見上げると空の一角から、黒い影が数体こちらへ向かってくる。
「なに・・・あれ?」
爬虫類のような印象を受けるその肢体に、真っ黒な翼が見えた。
(こっちへ来る)
背筋がぞくりと震えた。
エアリスは巨大猫をしっかりと抱きしめ後退り始める。
そうしながら、『彼』の方へ必死に頭を向けた。

『彼』は唇を引き結び、薄青の眼(まなこ)を吊り上げ。
ばさばさとマントを大きく揺らし。
右手を高く掲げる。
ぼう、と青白い細かな光の粒が、『彼』の前腕から・・・幾つも幾つも浮かびあがってゆく。

(・・・綺麗)
空から迫ってくる異形の怪物の事も一瞬忘れて、エアリスはそれに見とれた。
光の粒子は数を増やし、そしてうねり、『彼』の手のひらから大きく空へ向かって ある形をとり始める。
いつしか腕の中の ケット・シーも、大人しくその光の変化を凝視しているようだった。

「・・・ねえ、ケット、あれって・・・剣かな?」

収束を終えた光は、やがて固体を成(な)し。
ほのかに刀身を光らせる巨大な剣を、『彼』はその右手に握りしめていた。
「おっきな・・・剣・・・」
驚きというより、感嘆を込めてエアリスが呟いた時。
ギギギッ!と喚きながらすぐ真上まで、怪物が迫ってきた。
「あ・・・っ!」
怪物の黒い翼は、広げるとエアリスを三人ほどくるめられる大きさだった。
滑(ぬめ)った黒い皮膚の上の、黄色く濁った目玉が、ぎょろりと彼女へ向けられる。
エアリスはケット・シーを抱いたまましゃがみ込んだ。

その時。
―――ざざざっと葉擦れの音がした。
エアリスの頬を、柔らかな何かが掠める。
それが、『彼』のマントの一部だと気が付いて。
エアリスが顔を上げる。

ドシュ!ドシュ!ドシュ!

黒翼の化け物が数体、胴をまっぷたつに切断され、あっけなく 地表へ崩れ落ちた。
ギャギャギャ、と残った怪物達が非難の鳴き声を上げる。
猫を抱いたまま、ぺたりと座り込んで動けない少女を守るかのように。
剣を構えた金髪の青年が。

・・・次の攻撃に移ろうとしていた。







「どこから話せばいいのか」
ヴィンセントは腕を組み、視線を床へ落とした。
ツォンは黙って次の彼の言葉を待つ。
エアリスの出生には、不可解な部分が多すぎた。
そしてヴィンセントはツォンに、己の知る全てを伝えてはいない。
おそらく今、彼はその全てをツォンに話すために現れたのだろう。
(・・・だが何故“現在(いま)”なのか?)
その一点が、妙にツォンの気にかかる。

「始まりは・・・そう、ルクレツィアの研究の仮説だった」
「仮説?」
「有翼人種が、神話でも伝説でもなく・・・実在していた、という 説だ」

それは寓話だ、あり得ない、そうツォンは反論しようとして。
ふと窓の外を視界に入れた。
急激に暗くなってゆく空。
激しく唸り始める風。
ツォンの眉が顰められた。
「雨でも降るのか・・・?」
確かエアリスが中庭で遊んでいるはずだ、降り出す前に呼び戻さないと。
そう考えたところで“キキキッ”と耳慣れない音が聞こえた。
「おい、何か変な鳴き声がしなか―――・・・」
何気なくヴィンセントに訊こうとして。
ツォンはまるで不意を突かれたかのように瞠目した。
ヴィンセントが、顔を強ばらせて、どんどん暗くなってゆく窓の外を 凝視している。
日頃感情をあまり表に出さない彼にしては、珍しいほどの動揺だった。
「おい、どうした?」
訝しむツォンの左肩を、ヴィンセントの右手が掴む。

「エアリスはどこだ!?
 エアリスが・・・危ない・・・っ!」
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