固い殻が、粉々に砕けたように。
その膜は崩壊した。

そして次の瞬間に、柔らかな羽毛のように。
ふわふわと落下してゆく。

まるで弦を爪弾くような音をたてて。
湖の水面に、吸い込まれ。







亜麻色の髪が宙でたなびく。
真っ白なローブが、水面の煌めきを反射して眩い。
ユフィはそこに顕れた人物を、まんじりと見た。
まるで陽に焼けていない肌が、うっすらと紅い唇が、水の上に何事もなかったかのように 佇む姿が。
・・・なにもかもが夢のようだった。
薄暗くて、気持ち悪い霧が在って、哀れな『人間だった』街の人々が蠢いて。
そういった、彼女にしてみれば悲惨この上ないこの世界に。
こんなに綺麗な存在が、あるなんて――――――

気圧されたような様子のユフィの気配を感じながら、シドもまたその人物から 目が離せなかった。
俯き加減の貌、伏せられたままの目蓋。
陶磁器の人形のような雰囲気は、クラウドの話していた『エアリス』なのだろうか?
それよりも、まるで。
「神、だな」
シドの斜め後ろで、ヴィンが呟いた。

ばしゃ

一歩、クラウドが『彼女』へ歩み寄った。
腰まで水に浸かった彼とは違って、『彼女』は水面すれすれに沈むことなく立っている。
それはまだ『彼女』の中に女神が居るからだろう。
「水の乙女リーリィーン・・・」
クラウドの掠れた声に、呼応するかのように。
『彼女』はぴくりと目蓋を小さく痙攣させた。
そうして、ゆるりゆるりと懐かしい翡翠の瞳が、覗き始める。
綺麗な形をした唇が細く甘いやかな吐息を漏らした。



―――よく、戻った

完全に開かれた双眸は、優しく力強く、そして最も固い鉱石を想像させるほどの 意志を持っていた。

―――あとは、わたしが片をつけよう

ややクラウドを見下ろすように語りかける『彼女』は、 強すぎず、かといってけして弱くもない威圧をぐいぐいと掛けてくる。
クラウドはそれに耐えられないかのように目を伏せた。
「全てが遅きに失しました・・・俺、は・・」
クラウドが唇を噛み締め悔しそうに漏らしたその言葉に。
『彼女』は愁眉し、そっとクラウドから視線を外した。

―――お前のせいではない
   全ては、わたしの甘さのせいであり、そして

『彼女』は水奏宮から街を見下ろすかのように瞳を動かす。

―――この国の、寿命だったのだ・・・・・・

『彼女』は一度だけ、小さくかぶりを振った。
そうして再び真っ直ぐ顔を上げ。
何れの感情もその面(おもて)から消し去っていた。

―――我が仮の宿となれし神子(みこ)を、汝に還す
   もう離れることは叶わぬ、覚悟するがよい・・・

ふっと微かに『彼女』が笑う。



一瞬の、無音。



「エアリス!!」

がくんと身体が崩れたかと思うと、『彼女』は駆け寄ったクラウドの 腕の中へ、吸い込まれるように倒れこんだ。
ばしゃああん、と水飛沫が上がって。
ふたりとも頭からずぶ濡れになる。
脱力してまるで動かない細い肢体を。
クラウドは抱き締めた。
「・・・エアリス」
なだらかで華奢な両肩を覆い隠すように、大切な大切な宝物を 周りから守るように。
壊れないように、それでも力を込めて―――抱(いだ)く。

「ごめん、遅くなった・・・本当に、ごめんな」
白くたおやかなうなじに、顔を埋めて。
懐かしい、甘い体臭を吸い込んで。
「もう、離れない・・・ずっと、だ」
しとどに濡れて重くなった絹の髪を十本の指に絡め。
幾度も幾度も彼女の首と肩の上を滑らせて。
「エアリス、エアリス、エアリス――――・・・」

こんな声を今まで聴いたことはなかった。
ユフィ達は、ただ突っ立って、湖の中の男女を見つめる。
こんなに何かに焦がれた声を、
こんなに胸を締め付けられるような声を。
こんな、ぎりぎりの呼び声を。
きっと聴くのはこれが最初で、最後かもしれないと思うほどの・・・



ぴくん、と彼女の右腕が揺れた。
それに気付いて、漸くクラウドは腕の力を緩める。
ゆっくり、ゆっくりと彼女の頭(こうべ)が動き。
そうして。
優しく煌めく碧の瞳が、ひた、とクラウドの薄青の瞳を捉えた。

「・・・クラ、ウド」

鼓膜を柔らかく震わせる声。
遠い過去に、聞いてそれきりだった、彼を呼ぶ声。
「・・・っ」
語りたいことはたくさんあるはずなのに、喉に何かが引っ掛かっているかのように 言葉は出てこなかった。
眼球を覆う水分が、いつの間にか熱くて。
小刻みに震える両手で、彼女の顔を包む。
うっすらと開かれた桜色の唇に。
自分のそれを、やや乱暴に押し当てた。
舌を性急に潜り込ませて、彼女に逃げることを許さずに。
深く、深く、深く。

「・・・あー」
こっちの身にもなってよ。
ユフィは頬を真っ赤にしながら、にやけてしまった。
やっとキスを終えて唇を離し。
その時、初めてユフィは『エアリス』の顔をきちんと見ることができた。
エアリスは、ふとユフィの視線に気付き。
小さく首を傾け。
まるで花が綻ぶように、はにかみながら・・・微笑った。

「う、わ・・・!!」
その笑顔を見て、漏らした感嘆の声にシドが反応する。
「どうした?まさかのぼせちまったのか?」
ぐっと握り拳を作り、ユフィはぶんぶんと首を横に振った。
「想像以上だよ〜、エアリスって!」
「ん?」
「ぎゅっと抱き締めちゃいたいような女性(ひと)だなあ」
「おい・・・」
げほ、と咽せようにしてシドが咳払いした。
「そりゃま、感じは解るけどよ、お前の例え方ってなあ・・・」
「いや、なかなか的を射ているぞ」
ヴィンがあっさりと言い放ち。
シドはふたりへ呆れたような顔を向けたが、否定はしない。

おぉ・・・ん

その時、彼らの居る場所を包み込んでいた空気が。
振動した。

おお・・・ぉ・・・ん

クラウドとエアリスは互いの顔を見合わして、そして右手をぎゅっと固く握り合う。
「こいつぁ・・・!」
シドが信じられない、と思わず呻いた。
湖の全ての水が持ち上がったかのように天空へ伸びていったのだ。
ぱしゃん、ぱしゃん、とまるで踊るようにうねりながら。
細く長く伸びてゆく。
そうして、連なるクリスタルの円柱を取り囲むようにくるくると舞った。
「・・・もー・・・こう立て続けに信じがたい光景をみるなんて、反則だよお・・・」
ユフィが半ばヤケのように言葉を吐き捨てた。
クリスタルと水の壮大な輪舞を、ヴィンですらただただ傍観するしかない。

「水の弦(いと)だ」
クラウドがエアリスの肩を抱いたまま、告げた。
はっとしてシドが見遣ると、彼らの周囲も跳ね回る水が目まぐるしい。
「いと・・・?『此処』は場所その物が『楽器』だってぇのか・・・?」
クラウドは徐に頷き、微かに口元に笑みを浮かべる。
「奏でられるのは、国の始まりと終末の時だけだと伝えられていた。
 ―――今女神は、水の弦を爪弾いた。
 この国とこの国の人々へ葬送の曲を、奏でている」
「クラウド・・・」
シドは苦虫を噛みつぶしたように、顔を歪ませた。



るぉおおぉお・・・ん

おおおぉおぉ・・・るぉお・・・ん



不規則だった響きはいつの間にか心地よい調べに変わっていた。
聴覚から入り込み、感覚の全てを支配されてしまうかと思えるような、至上の音。
そして。

ドン!!
ドン!!
ドォン!!


つんざくような響きが幾度も幾度も大地を揺らした。
ひゅううと何かが迸るような轟音にシドは振り返り、零れるほど目を見開く。
「・・・葬送、か・・・成る程な、あ」

幾つもの巨大な水柱が天へ向かって吹き上げていた。
勢いよく上がった大量の水は、 やがて重力に逆らえずに四方八方へ怒濤のように降りそそぐ。
それは、洪水となってみるみる街を、国を呑み込み、舐め尽くしてゆくだろう。
(ようやく終わるんだな・・・屍人の夢が)
シドはゆっくりとクラウドとエアリスへ身体を向けた。
水の乱舞の中で。
彼らはぴたりと寄り添い。
(・・・おまえたちも、いくんだな)
シドの視線の意味に気付いたのだろう。
クラウドが小さく頷く。
ヴィンはそんな一瞬のふたりのやりとりをただ、見つめていた。

ユフィは己の足元が覚束ないことに気付いた。
ふわふわ、まるで調べに浮かれるような感覚。
ぐらぐらと揺れる視界で、シドやヴィンも同じ状態であることに気付く。
(もしかして)
自分たちは元の世界へ帰ろうとしているのかもしれない―――

「・・・っ、クラウド!!」
時間はないのだと悟った。
切羽詰まってクラウドへユフィは叫ぶ。
「幸せになって、よね!
 エアリスとずうっとずっと一緒に・・・っ!!」
クラウドは僅かに目を瞠って。
傍らのエアリスへ視線を落とした。
エアリスがにっこり笑って、互いに握った手を胸元へ持ってゆく。
「だいじょうぶ・・・だいじょうぶだよ、クラウド。
 終わったら、また始めるの。
 あなたはその為にここまでやったんでしょう?」
祈るように、穏やかに、エアリスは囁く。
自分たちの過ちは取り返しがつかないのかもしれない、 と不安がるクラウドに染み渡るかのように優しく。
 「・・・それを望むことは、赦されてるわ・・・だから・・・」

「クラウドォ!」
ユフィの姿はだんだんぼんやりとして、見辛くなっていた。

―――ぎりぎりまで自分たちを案じて叫ぶ彼女や、おそらく全てを知ってなお 力を貸してくれた男達―――
願うことを諦めるのは、彼らに失礼だ。
クラウドはこつりと彼女の額に自分のそれをあて。
「そう、だよな・・・もう君を離さないって、誓った・・・」
「それ絶対に、護らせるから」
くすくすと笑い合って。
クラウドは再び顔を上げる

「ありがとう、シド、ヴィン、ユフィ」
本当に、ありがとう。



クラウドが初めて見せた柔らかな微笑を、 やがて街を呑み尽くして水奏宮まで迫り上がってきた 水の渦の中で。
確かにユフィ達は受け取ったのだ・・・・・・
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