蒼白い月光が、湖面を余すところなく照らしていた。 波打ち際は、あまりに静かで。 寄せては返す波の音は子守歌のようだった。 「うひゃーっ!!びしょびしょ!!」 ぎゅううっと上着の裾を絞りながら、甲高い声があがった。 「まいったよな、いきなり水中に放り出されるとは」 「だが、まだ岸に近くて良かったと思わねば」 静寂をうち破る騒々しい声が唐突に響く。 靴へも入り込んだ水を踏み締めつつ、彼らは歩くので、 ぎゅっ ぎゅっぎゅっと妙な音が木霊して聞こえてくる。 「でもさあ、武器以外の殆どの荷物は消えてなくなってるし、お腹は空いて空いてたまらないし、身体も服も濡れまくりで肌寒いしさ! ねえ、あたしたち今晩いったいどうすりゃいいの!?」 「そうだなあ・・・久しぶりにベッドで寝てぇとこだが、金もあんましねぇし」 「怪物退治でもあれば、臨時収入が手にはいるのだが」 「なに悠長なこと云ってんの! まず服!食事!!そんで睡眠!!!」 シド、ユフィ、ヴィンは賑々しく湖の水際を歩いてゆく。 水奏宮で身体がふわりと浮き上がったのと、大洪水に全てが呑まれていったのは、ほぼ 同時だったと記憶している。 視界が歪み、ああ水中に居るのだととっさに思った。 ごぼっと空気の泡が口から溢れて。 慌てて上を見ると微かな光が見える。 後は無我夢中で水を掻いて水面へ躍り出た。 辺りは闇ではあったが、月も明るく、星も瞬いている。 見遣れば岸もほんの少し泳げば到達できる距離にあったのだった。 「ところでさあ、ここ一体どの辺りなのかな?」 「そうだな、星の位置から見ると俺たちがあの霧の国へ迷い込む前に歩いていた街道からそう離れちゃいねぇと思うな」 「―――結界の、霧の国、かあ」 ユフィはふううと息を吐き出しながら、しみじみと回想した。 「ねえ、シド、ヴィン。 あのふたりはあれからどうなったのかな? まさか溺れるなんてないわよねー。 うまく水の女神さまがどっか運んでくれたのかな? 住んでた国も人達も、全然いなくなって心細いけど、 きっとふたりなら大丈夫だよね?」 べったりと濡れて頬に張りつく髪を掻き上げながら。 ユフィは少々感傷的な気分で語った。 シドはぴたっと歩みを止めて。 顎から雫をまだ滴らせながら、ユフィへ振り返る。 青い彼の目が、普段より大きく見開かれて。 ユフィは軽く首を傾げた。 数歩先では、ヴィンが水をたっぷり含んで重たそうなマントの背中を見せたままだ。 「ユフィ・・・おめえ、やっぱ気付いてなかったのか?」 「?・・・何を?」 「あのふたりは、きっともう何処にも居ない」 シドは右側の奥歯をぎりっと噛んだ。 そのせいで顔が引きつったように見えた。 ユフィは彼の云った言葉が把握できずに突っ立ったままだ。 「―――俺たちの云う『この世』ってやつに・・・あいつらは居ねえ」 「え、えっと・・・あの洪水に巻き込まれたって・・・こと? だってそれ確認したわけじゃないじゃん。 あたし達も無事だったんだからクラウド達だって、 きっとさあ・・・」 「おめぇは変に思わなかったのか?」 ユフィの言葉を堰き止めて、シドはややきつい口調で切り返した。 「え?な、何を?」 「・・・あの国、いや街の惨状を。 何もかも朽ちて殆ど砂と化した建物もあった、川の水もすっからかんに枯れてた。 なあ、覚えてるか、俺が拾ったレリーフを。 材質は相当なもんだった、それが呆気なく力を込めると崩れた。 暴発した兵器のせいだけじゃねえ、あれは風化だ。 つまり」 シドは小さく息を吸った。 そうして、普段よりもかなり低い声で。 「―――つまり、あの国が滅んだのは数年やそこら以前じゃなく。 数十年、あるいは百年以上経ってた、ってことだ」 しかし迷いなく云いきった。 ユフィはじっとシドを見て、それからヴィンの動かない背を見た。 やがてあちこち忙しく眼球を動かし始める。 ここに居るはずのない、誰かを求めるように。 初めはぴんと来なかったシドの台詞が、やがてある結論へ導かれる。 だが彼女は、感情でそれを肯定できない。 だって、だって、とお決まりの言葉を唇に小さく乗せるだけだ。 シドはやや天を仰ぐような姿勢で、煌々とした月を見た。 「おそらく・・・おそらく、だけどよ。 あの国が兵器の暴走で滅んだ時。 あいつぁ・・・クラウドは『そこ』に居たんじゃねえかと思う。 宝玉(いし)を探しに国外へ行ってるはずだったのに。 自分の国から、エアリスのいる『そこ』から、結局動けなかったんじゃねえか、と俺は・・・思う。 宝玉探しは間に合わないと踏んだのか、旅に出ようとして出られなかった訳があったのか、そんなこたぁ俺には解らねぇ。 けど、けどよ・・・あいつはその『時』に、国が無くなったその『場』に。 居合わせたような気がして―――ならねえんだよ」 ユフィ達の出逢ったクラウドは“青年”だった。 しかし、国が滅んで遥かな時間が経っていた。 普通に生きていれば、クラウドはとっくに年老い死んでしまったであろう、それ程の時が。 経過していたのだ。 シドやヴィンは早い時期に気付いていたのだ、その矛盾に。 彼女達が迷い込んだその場所は。 青年であるクラウドが存在することの出来ない時代であるという、事実に。 ぱたぱたと、ユフィの足元に水の雫が零れる。 濡れた髪や服から零れる雫とは、全く別の。 塩辛い雫が。 ぱたぱた、ぱたぱたと、零れ落ちた。 「あの黒マントたちも、セフィロスも、クラウドとエアリスも。 俺たちゃ生きてるヤツには人っ子一人、会っちゃなかったんだ」 「・・・っ、じゃあクラウドは、クラウドは何の為にあたしたちを呼んだのっ!! 何もかもお終いだったのに、どうして・・・!」 叫ぶユフィを、哀しげにシドは見下ろした。 「解き放ってやりたかったんだろうよ・・・滅んで何もない国に、いつまでもしがみついてる人々を。 解放してやらなきゃ・・・ エアリスはああして囚われ続ける羽目になるんだからなあ」 (エアリスを奪い返すことに何の遠慮が要るんだ!? たとえお前たちの至上の夢が途切れようと、俺は、俺は!!) (屍は・・・望みも願いも、想いも、不変) (ああ―――俺も似たようなもんだけどな) (だいじょうぶ・・・だいじょうぶだよ、クラウド。 終わったら、また始めるの) ユフィはふと、神殿の扉へ手を掛けようとして。 急に膝をついたクラウドの姿を思い出した。 引っ張られた、と彼はその時呟いた。 ――――ああ、そうだったんだ。 クラウドは同じ死者だったから、黒マントの奴らの声に。 引っ張られたんだ・・・・・・・・・ ユフィはまた、ぱたぱたと泣き零した。 彼は。 肉体を喪っても。 『月弓のしずく』を探し続けて。 長い長い間、探し続けて。 ようやくそれを手に入れて。 同じ国の人達の魂に邪魔されながら。 懸命に水奏宮を目指したのだ。 醜い姿に成り果てても、国の亡骸にしがみつく人々の為に。 そしてただひとりの、女性を。 その手に抱く為に。 ぱたぱた、ぱたぱた。 止まらない、止まらない。 クラウドのオオバカヤロウ。 止まらないのはあんたのせいだよ・・・!! しゃくり上げて泣く少女と、ただ空を仰ぐ男と。 ふたりへ背を向けたまま、微動だにしないマント姿と。 奇妙な三人を。 天上の月はただ、光を降りそそぐ。 「もし、旅の方・・・?」 やや離れた場所から、ひとりの女が声を掛けた。 シドがゆっくりと首を動かし、そちらを見遣る。 長い黒髪をひとつに束ね。 快活そうな女性が手の桶をひとつぶら下げて佇んでいた。 「どうされました?みなさんずぶ濡れで。 よろしければうちで一夜の宿をお貸ししますよ。 この辺りは他にこれといった宿場もありませんし、何よりまだこれから夜は冷えますから身体に毒ですわ」 にっこりと女は微笑む。 髪の色と同じ漆黒の瞳には、知性の輝きが見て取れた。 「―――ありがてえ・・・一晩お願いします」 シドは深く頭を下げ。 ユフィとヴィンがそれに倣った。 女の家は、簡素で粗末な造りではあったが、頑丈に出来ていた。 女とその年老いた両親が三人を快く迎えてくれた。 女の夫とその子どもは、今出稼ぎに出ているという。 土地の痩せているこの地方ではやむを得ない事情だった。 ヴィンは窓枠に腰掛け、珈琲を啜り。 シドは辛抱強く年老いた老女の話し相手を努めていた。 やがて老女は目を細めて、ヴィンの居る窓から懐かしげに外を眺める。 そこには昨夜の湖が波静かに横たわっていた。 「本当にお客さん方があの湖から現れたって聞いた時はびっくりしましたよ。 亡くなったあたしの祖母も、あの湖に縁があってねえ」 老女はほくほくと笑いながら茶を啜る。 「お母さん、またその話?」 女が洗濯籠を抱えながら通り抜けようとした。 「縁って、何ですか?」 妙に気に掛かって、シドが問うた。 老女に代わり、黒髪の女があはは、と笑いながら答える。 「いえね、あたしのひいおばあちゃんの話なんですよ。 ある日突然、ずぶ濡れであの湖から現れて。 それをひいおじいちゃんが見つけて、世話を焼いて。 やがてふたりは結ばれたんですよ。 ひいおばあちゃんはそれまでの記憶を殆どなくしてたみたいでね、ちょっぴりドラマチックな出逢いでしょ?」 ぴくっとシドの片眉が跳ねた。 ヴィンもいつの間にかこちらを見据えている。 「・・・だからあたしがお客さんを見つけた時も、ついひいおばあちゃんの話を思い出してね、声を掛けたって訳なんですよ」 老女と女は明るく笑い合う。 ヴィンがまったく無表情になり、シドは無意識に大きく瞠目していた。 「な、なあ! そのひいおばあちゃんてよぉ・・・」 ユフィは朝早くから皆と離れて、湖面近くを歩いていた。 泣き腫らして真っ赤な目を。 誰にも見せたくはなかったからだ。 歩を進めると、やがて花の甘い匂いが漂ってきた。 足を止めて、やや小高い丘に整然とした墓地を見つける。 愛らしい花々がとあるふたつの十字架を囲むように咲いていた。 「・・・・・・」 花の香に誘われるように、ユフィはその十字架の前に立つ。 しばらくぼんやりしていたが、やがて驚いたようにひとつの墓へ駆け寄った。 古ぼけた組木で作られたその墓標に。 短い言葉が記されていた。 ティファ・ロックハート ここに眠る |