「弥彦、あんたすごい汗ね。
 身体拭いてきなさいよ」
あれから操と長い間たわいないおしゃべりをした後、 薫は竹刀を持ったまま汗だくの弥彦を目敏く見つけて声をかけた。
「あー・・・そうだな。
 うん、そうする」
どこかぼんやりしたまま弥彦は返事をする。
そのことに薫はやや眉根を寄せて、かたかたと彼の側に駆け寄った。
「どうしたの?
 熱でもあるんじゃない?」
そのまま薫はごく当たり前のように、弥彦の額に己の手のひらを押し当てる。
いきなりのことに驚いた弥彦は、それでも想像していたより柔らかな彼女の指が 心地よくて。
押し黙って彼女の好きなようにさせていた。
「・・・ないみたいね・・・ただの疲れなのかな?」
ぶつぶつ呟きながら、なおもぐいぐいと薫は弥彦の額を押していた。
「んなに力入れても、わかんねーだろ」
このままだと後ろへ倒れる。
身の危険を感じた弥彦は、ようやく渋々と口を開いた。
「あ、普段のあんただわね」
軽く目を瞠って。
薫はようやくその手を弥彦の額からどけた。
「ほんとに心配させないでよ。
 あんた少し食欲落ちてるみたいだし、そりゃ志々雄との戦いが 酷かったら、食欲なくすのはわかるけど、やっぱり食べ盛りなんだし たくさん食べないと、ほらわたし心配するじゃない?」
「・・・」
よくもまあ、息も継がずにこれだけしゃべることが出来るとは。
弥彦は口元をひくつかせながら、喉まで出かかった文句を飲み込んだ。
どんな云い方であれ、薫は弥彦を気にかけている。
それはとても嬉しいことなのだ。
「たいしたことないから、心配すんな」
「うん、でも・・・」
わたしが女だからかな、と薫は我知らず落胆する。
多分剣心や左之助にはもっとちゃんと弥彦は語るんじゃないだろうか。
まだ十歳なのに、この子はオトナの男達により近いような気がする。
もう少しゆっくり成長してくれてもいいのに。
―――あんまり早く大きくなったら、あっという間に道場を、自分の元を 去っていきそうで。
(あれ、わたしったら何考えてるんだろ?)
難しげな顔をして黙り込んだ薫の様子を、弥彦は 気にしているのか、じいっと彼女を見上げている。
その視線の強さに薫はすぐに我に返って頬を染めた。
「な、な、なに?」
「薫・・・」
「え?え?」
まだ幾ばくか薫を凝視した後、弥彦はいきなり薫の手首を掴む。
「ちょ、え?なに!?」
とっさに手を引こうとするが、弥彦の掴む力は変わらなかった。
「やっぱり決めた」
「は?」
ぎゅ。
弥彦の指に、更に力が入った。
「ちょ、弥彦いた・・・」
「奥義、教えてくれ」
「痛いってば・・・へ?奥義!?」
薫が大きく目を見開いて、弥彦を凝視する。
弥彦の瞳の色は揺るがない。
つまり彼なりに考え抜いて出した結論なのだろう。
どくどくと自分の心臓が脈打つ音を気にしながら、薫は 粘つく口を開いた。
「奥義って・・・神谷活心流の、奥義のこと?」
「―――ああ」
「あんた、まだ十(とお)なのに、そんな、こと」
「駄目か?」
「・・・・・・」

この瞳(め)。
薫はどこかで見た記憶があった。
剣の理想を説いた、父の―――
せせら笑う輩もいたが、自分は父と一緒になってその理想に夢中になった。
自分の、大切で愛しい、誇り。

「駄目なのかよ、薫」
物云わぬ薫に焦れたのか、弥彦が重ねて訊いてくる。
うっすら唇に笑みを乗せて、薫は口を開いた。
「・・・まだ早いわよ」
「っ、でも!!」
「稽古だって厳しいんだから」
「え」
弥彦は面食らって掴んでいた腕を離した。
薫が勝ち誇ったように腰に手を当てる。
「一年や二年で免許皆伝なんて思わないでね!
 もしかしたら十年二十年かかるかもよ?いい?」
明るい笑顔を浮かべながら、薫が弥彦の額を人差し指で小突く。
ぐっと腹にに力を込めて、弥彦も大きく胸を張った。
「おうよ!
 口にしたからにはぜってぇくじけねえ!
 何十年かかったってかまうもんか!!」
「・・・・・・」
次の瞬間薫は眉を下げ、その大きな瞳を潤ませたかのように思われた。
がすぐに大きく頷くといつもの彼女の表情に戻る。

「了解、わたしも女だもん約束する。
 ―――あんたに、奥義を会得してもらうわ。
 もう引き返せないわよ!」



京の狭い路地を、剣心と巴はゆっくりと歩いていた。
赤く色づき始めた陽射しが、彼らの後ろ姿を染めてゆく。

「ごめん、疲れただろ?」
「いいえ、大丈夫ですよ。
 それに多分一番お疲れなのはあなたでしょう?」
うふふ、と悪戯めいた笑みを浮かべて。
巴が肩を震わせた。
最初はきょとりとしていた剣心も、すぐに巴の云わんとすることを 理解して、こほんとひとつ咳払いをした。
「あー、そりゃ師匠に会うためには俺の勇気みたいなものを根こそぎ 使っちゃうからなあ・・・なんていうか精神的には確かに・・・」
疲れるなんてもんじゃない。
なにもかも吸い取られる、そんな感じだ。
剣心は小さくため息を吐くとぽりぽりと頭を掻いた。
「・・・比古さまは」
「師匠が、なに?」
遠ざかる山の端を見つめながら、巴が呟くと。
剣心も釣られるようにその方を見遣る。
「比古さまはずうっとあなたの味方で、多分これからもあなたの味方で。
 何が起きても、そう、あなたが変わらない限り―――」
「・・・どうしたの、急に?」
くすりと笑って、巴は剣心の左手をそのたおやかな手で握った。
「そんな方が、あなたの側にいることが。
 なんだかとても嬉しいなって思ったんです」
「とも、え・・・」
それはもしかしたら、強烈な告白に似て。
剣心は自分の顔が、たちまち赤く染まってゆくのをごまかすように はは、と笑った。
(巴)
(ともえ)
(君で、よかった)
(ここで)
(こうして)

共に歩けるのが君で―――・・・

「確かにびっくりするぐらい、いろんな面で豪快な方ですけど。
 わたしも衝撃的でした」
剣心の狼狽に気付かず、巴はそのまま比古の印象を語り続ける。
「けれど本当にこの世の中に、人々のことに対してお心を配られて。
 そう、どこか少しあなたと、似てますね・・・」
(似て、るかな?)
(まあ多感な時期をあの師匠と暮らしてたわけだし)
(そりゃ師匠は強いしかっこいいけど)
それはそれで複雑な気分だ。
剣心はふんぞり返った比古を思い浮かべ、自嘲した。
巴がそんな剣心を見て、笑い出しそうな顔をする。
と、その時ぱきん、と小枝を踏む音がした。
気付いた巴は小さく目を瞠り、剣心はあんぐりと口を開ける。
進む道の向こうに、巴の実の弟であり、剣心の義理の弟である縁が 佇んでいた。

「縁!」

巴は明るい声をあげ、可愛い弟へと駆け寄る。
剣心といえば無理矢理作り笑いを浮かべたまま、 その光景を見ているだけだ。
「疲れは取れた?姉さん」
「大丈夫、葵屋の方々もとても親切で本当によくしていただいたわ。
 あなたこそあれ以来音沙汰がなくて東京に戻ったかと・・・」
事実縁も仕事を山ほど抱えている。
この数か月、東京と京都を行ったり来たりしていた。
「―――姉さんが東京に戻るときは、ちゃんと付き合うって決めてた。
 心配ないよ」

(は!?)

ぴくっと剣心の片耳が動いた。
(今こいつなんつった?)
(京都から東京への道中、ずっと巴と一緒にいるっていう意味か!?)
悪夢だ。
ざーっと剣心の顔から血の引く音がする。
ここで剣心が不利なのは、巴が弟を溺愛しているということだった。
「・・・それ本当、縁?
 しばらくわたしと一緒に居られるっていうこと?」
「仕事の調整もついてる、大丈夫だ」
「まあ、すごいわ。
 何日間か一緒に過ごせるなんて、あなたが子どもの時以来ね」
(・・・・・・)
なんだろう、この疎外感。
この姉弟の仲の良さはわかってはいたが。
剣心は完全に蚊帳の外だ。
おもしろくないわけはない。
が、しかし。
(こ、ここは巴のためになるたけオトナの態度で…!)
健気にもそう決心して、剣心は引きつった笑みを終始浮かべている。
それを知ってか知らずか、縁は更に追い打ちをかけた。
「あ、そうだ。
 帰りは船旅にしよう。
 俺が特別に用意させた船だ、姉さん(たち)も気に入るよ」

がらがらがら

剣心の決心は早くもそこで崩れた。
ちらりと縁の視線が、剣心を掠める。
しかしその瞬間、剣心には縁の高笑いが聞こえた気がした。
(・・・よく考えてみれば)
剣心の唇の端が震える。
(俺の意見も聞かず、勝手に何もかも手配するなんて横暴だよな)
(そうだ)
(俺は、巴と・・・夫婦で)
(縁はただの弟で)
(つまり)
つらつらとそこまで思考した剣心は、ずいと縁と巴の間に身を割り込ませるように 移動した。
「縁、せっかくの厚意だが・・・」
「ああ、忘れてた!」
丁重に断ろうとした剣心の言葉を、縁は遮る。
そしてさも気の毒そうに剣心を見下ろした。
「緋村“さん”は船旅は苦手だったんですよね〜、 うっかりしていたよ!!」
大仰に肩を竦め、ため息を吐き。
解けない難問を目の当たりにしたかのように、縁は困り果てた顔をした。
(やはりそこが狙いか!)
剣心は冷ややかな視線を縁に送る。
(初めっから“そこ”に持ってきたかったんだな)

わかっていた。
知っていた。
思い知らされてきた。
―――雪代縁はそういう義弟(やつ)だ。

巴が困ったような表情で、縁をたしなめようとしたその時。
ぐっと拳を固く握り、剣心がかっと目を見開いた。
「いや、そんな心配は無用。
 大事な義弟(おとうと)からの申し出だ、喜んで乗船させてもらうよ」
「あ、あなた・・・」
変なところで負けず嫌いなんだから。
くらり。
巴は軽い目眩にも似た症状に襲われた。
縁といえば思いもかけぬ剣心の逆襲に、掛けていた眼鏡がずるりと鼻頭を滑る。
剣心はそんなふたりの様子に構うゆとりもなく、 まだ威勢を張っていた。
「なあに、船酔いなんてはるか昔の話だし、もう酔わないかもしれないし、 第一病は気からと同じく船酔いも・・・」
「あなた、もうそのくらいにしてください」
やんわりと巴が剣心の腕を掴み、彼を制す。
そうしてようやく剣心は冷や汗をかきまくっている己に気付いたのだった。
巴は呆れたように肩を竦める。
「わたしは船でも徒(かち)でも厭(いと)いませんから・・・」
子どものように暴走しかけた剣心は、巴の苦笑する表情(かお)を見て忽ち顔を 赤くした。
「ごめ・・・」
素直に謝罪を言葉にしようとしたその時。
すばやく立ち直った縁が畳みかける。
「いやあ、よかった!!
 そんなに喜んでもらえるとは!!」
あはは、と笑う縁をぎくしゃくとした笑顔で剣心と巴は振り返る。
(いや、喜んでないって)
思わず胸の奥で剣心は突っ込んだ。
口に出さなかっただけ誉めて欲しい気分だ。
きらり、と白い歯を見せて縁は更に云い募った。
「姉さん、姉さんもゆっくりとした船旅を楽しむといいよ。
 姉さんが気に入ってくれるよう俺もがんばるから」
この時点で縁は剣心を嵌めることに夢中になったために、実は少しずつ 広がっている自分の失敗に臍(ほぞ)を噬(か)んでいた。
いつの間にか剣心に甘くなっている気がしたのだ。
(船旅を楽しめ、だなんて姉さんの手前云うべきじゃなかったな)
(・・・まあ、しかし)
縁は剣心の隣へちらと視線を向けた。
困ったように肩を竦めながら、巴はどこかはにかむように笑っている。
(姉さんが、笑うならどうでもいいか)
縁の姉第一主義はどこまでも変わらなかった。
この際、単純に『嫌がる剣心を船に乗せてやれ』という目的を果たしてしまおう。
縁は再び饒舌になる。
「姉さんのために最高の船を用意したんだ、きっと姉さんも満足するさ。
 ああ、楽しみだね、姉さん・・・!」
どこか子どもみたいにはしゃぐ縁を、剣心はどんよりとした眼差しで見上げる。
(こいつ、また背が伸びたのか?
 ち、どこまで大きくなるつもりだ。
 しかも姉さん、姉さんってうるさいんだよ)
負的思考を繰り広げ始めた時、剣心は巴がじっと自分を見ていることに気付いた。
「・・・船で帰途に着かれますか?」
黒目がちな瞳が、柔らかな煌めきに彩られて。
漸く剣心は自分の為すべきことに思い至る。
(そうだな―――巴が少しでも喜んでくれるなら)
縁の思惑にはまることにはなるが、この際それは構わない。
「うん。
 久しぶりに乗船してみようかな」
「大丈夫、なんですか?」
「・・・うん。
 巴が一緒だし」

面白くない。
縁は目の前で繰り広げられる展開に、僅かに不機嫌になった。
(へええ、女房の為なら船酔いもなんのその、かよ)
まあそんなことは予想の範疇ではあった。
だからけしかける意味もあったのだ。
しかし。
(惚気を眼前でやられると・・・むかつく)
縁の学習能力はこの局面においてはまったく発揮されなかった。
何度か剣心にちょっかいを出し、それをなだめたりうまく納めてしまう巴を 見てきているのに、やはりまた同じことをしでかしてしまうのだ。
「・・・縁」
我知らず口をへの字に結んでいるところへ、巴が優しく声を掛けた。
「縁、いつもわたしたちのためにありがとう。
 わたしが以前、あなたの船旅の話を羨ましがっていたのを 覚えてくれてたのね」
「ね、姉さん・・・」
巴のその一言で。
縁の不満はあっという間に瓦解する。
ぐんと胸を反らし、縁は明るい笑い声を上げた。
「はっはっは!
 姉さんのことなら何でも覚えてるよ。
 まあ船酔いのあっちはともかく、楽しいひとときを約束するさ」
剣心は傍目にこやかに姉弟のやりとりを見守りながら、 自分と縁が巴を中心に遣り取りをしていることに、複雑な思いを抱いていた。
(いいヤツではあるんだ・・・“巴”限定なら、な)
はあ、深いため息を吐くと剣心は肩の力をどっと抜いた。

「さて」
縁はこほんと軽く咳払いすると、剣心をちらりと見下ろした。
「船の出航の日時はまた追って連絡する。
 今日はもうひとつ伝えることがあるんだ」
ぴり、とした雰囲気を感じ取り巴は一歩二人から退く。
剣心はいつもの柔和な表情でぽりぽりと頭を掻いた。
「・・・ほんとは聞きたくないが、斎藤絡みか?」
「ああ、川路のおっさんから頼まれた」

(いつの間に川路さんと顔見知りなんだか)
剣心はやや呆れたが、縁の情報網、人材、行動力、どれを取っても 侮れないものばかりだ。
川路から接触を図ってもおかしくはなかった。
(ああでも最初に川路さんに接触したのはこいつ、だろうな)
巴に関係あるものは、おそらく縁は全て掌握したいのだろう。
そうでなければ警察やら川路やらそして志々雄の詳細な情報まで、 縁が網羅する必要はまず、ない。
(・・・傍から見れば良くできた“義弟(おとうと)”だよな、うん)
それは剣心も認める。
認めるが、その動機は全て“巴”の為だ。
(これが、ややこしいんだよな・・・)

ぐだぐだと考え込む剣心の返事を待つ気もないのか、 縁はすぐに二の句を継いだ。
「まず斎藤に先に行かせる。
 あんたは傷を治すことに専念しろ、とさ。
 確実な情報が揃い次第・・・動いてもらうとか言ってた」
巴がそっと目を伏せた。
縁がちらりとそんな彼女を見遣る。
「・・・やっぱり今度もあいつと組むのか」
聞きたくなかった情報を聞き、剣心は苦虫を噛み潰したような顔をした。
面倒くさそうに前髪を掻き上げ、「斎藤はどこへ?」と訊ねると 縁は短く「北」と応える。
曖昧な斎藤の居所は、おそらく探索する段階で変わってゆくためと考えていいのだろう。
「よく働くな、あいつ」
呆れたように呟く剣心の、それでもその色の薄い瞳は真剣味を帯びている。
「は!それはあんただろ」
呆れたような、諦めたような言葉を吐くと縁は踵(きびす)を返した。
斎藤にしろ剣心にしろ家族を持ちながらバカなことをしていると縁は思う。
しかもふたりのその行動の理由は違ってはいるが、突き詰めれば同じなのだ。
飾りを落としてしまえばそれは単純に“己の為”。
―――己(おの)が信ずるものの、為。
「・・・まああんたが全快するまでは、ゆっくりすればいいさ。
 それが川路のおっさんの労いだろ」
そう云いながら縁は歩を進める。
こいつらに結局協力している自分も愚かだ、と舌打ちしたい思いで。
(けれど)
物心ついた頃から、縁の動く理由は巴だ。
それはこれからも変わらない。
だからこのことが不動である限り、縁はそんな愚かさも是とした。

「・・・お前が“そのまま”だとは思えないけどな」

いきなりすぐ背後で聞こえた言葉に、縁は慌てて振り向く。
今の今まで自分が思考していたことを、読むが如く吐かれた言葉。
振り向いた先には、剣心が変わらぬ風情で佇んでいる。
(・・・こいつ・・・っ)
ちらと剣心は瞳だけを動かして縁を見た。
他人(ひと)よりも淡い色彩のその奥が、何故か途方もなく昏(くら)く思える。
あの、もっと奥底にかの人斬りは存在したのだろう。
“それ”が、縁の未来(さき)を読む。
「・・・るせえ」
縁がぼそりと呟いた時には、すでに剣心は巴に手を差し伸べ笑いかけていた。
(むか、つく)
自分より長く生きて、自分の最愛の人間に愛されて。
なにより巴がヤツの全てを受け入れなお、微笑むことに。
―――幾度はらわたが煮えくり返ったことか。
むかつきはどうやっても治まることはないけれど、 それ以上に姉の笑顔は縁を幸福にさせる。
(いつかみてろ、痩せチビ男め!)
(姉さんがお前に飽きたら、その時は絶対泣かせてやる)
思考がだんだん子供染みてきたのは、この際関係ない。
(それみたことかとせせら笑ってやる!)
その時のことを想像すると、うんと楽しい。
自然と唇の端が上がる。
・・・もちろん、そんな将来がくるとは縁すら信じてはいないのだけれど。
縁はこの際、そのことは遙か彼方へと放り出してた。

「・・・あまり苛めないでくださいね」
「心外だな。
 普段苛められてるのは俺なんだけど」
剣心に手を引かれながら小声で巴がたしなめると、 剣心は反省の色もなく言い返した。
「・・・お互い様でしょう?」
どっちも意地っ張りだから。
小声で笑う巴が、先を行く縁と眼前の剣心を見比べる。
結局のところ、剣心が縁の“相手をしてやってる”のだと巴は思う。
まあ、どちらかと云えば、だ。
独占欲が実は強いふたりが、ぶつかり合うのは仕方がないことだ。
だからふたりが顔を合わせる度、ぎゃーぎゃーうるさくてもなるべく巴は放っておいている。
彼女は。
・・・自分自身がその原因であるということに、無頓着でありすぎた。

「そろそろ葵屋に着くな。
 今日は俺は暇(いとま)する。
 詳しい船旅の日程は次の時に」
葵屋に近い大通りに出ると、縁はそう云ってふたりとは違う方向へと足を向けた。
「縁、夕餉を一緒にどう?」
別れを惜しむように巴が言葉を継げば、縁は軽く首を横に振った。
「今日は斎藤の話が主だから。
 あ、京都御庭番衆には余計なことは云わないでくれよ」
「・・・じゃあまたね、縁」
にこりと微笑んで、巴が小さく手を振った。
縁も軽く手を挙げるが、その表情は優しい。

(こんな風に)
あの姉弟は日常を送りたかったんだろう、と剣心は思った。
巴が敵を求めて京へやって来たときから。
こんな当たり前の言葉を交わして。
また顔を合わせれば会話をして。
ずうっと、そう願っていたんだろう。
「ちょっと今縁に悪い気がしてきた」
「え?」
言葉を聞き逃した巴が振り返れば、剣心は何でもないと首を振る。
すでに縁の姿は、ふたりからは見えなくなっていた。
「・・・気の迷いだな」
「だから、なんですか?」
ひとりで呟く剣心に、巴が不満そうに頬を膨らませる。
それがどうしようもなく可愛い、と剣心は目を細めた。
「ごめん、ごめん・・・さあ帰ろう」
「もう、仕方ないですね」
差し出された剣心の手に、巴は己のそれを重ねる。
京(みやこ)に灯火がぽつりぽつりと光り始めた。
この光景は、昔剣心と巴が出逢った頃にも幾度か見かけている。
懐かしさだけではなく、様々な感情を産み出してきた街。
「・・・縁が」
「ん?」
「あの子が、以前は京に行くのは二度とごめんだと。
 そう毒づいてた頃がありました」
「あ…、まあそうだろうな」
巴は握ったその指に力をそっと込める。
「たくさん…思い出したくないことや苦しいことや悲しいことや…
 どうしようもなくてどこへも行けなくて…心が悲鳴をあげてたのに。
 それなのに、今こうしてみる灯りを、わたしは愛しくてたまりません」
握り合った指から、互いの熱が行き来した。
剣心も、自分と同じなのだと巴は暫し目を閉じる。

川のせせらぎ。
どこかの子どもの声。
家路を急ぎ帰る人たち。
ゆらゆらと、灯火。
剣心はそっと巴の顔を覗き込んだ。
愛しい、横顔。

後にも先にも、彼女だけが。
彼女が、剣心を。

「…何度でも」
「え?」
「何度でも、還るよ―――君が俺と、ともにあれば」
「……はい、」

ここは、大切な場所だ。
ふたりがひとつで。
―――愛しいものになる。



「剣さん、お帰りなさい」
目敏く恵が中庭から声を掛けた。
「ただいま、恵殿」
剣心がにこやかに返すと、恵は安心したように笑い返す。
巴もやや疲れたようには見えたが、元気そうで恵は安堵した。
「どうでした、比古様とは」
「…ありがたいことに、どこかへ雲隠れしてくれてたな」
「あらあら」
至極嬉しそうな表情の剣心に呆れながら、恵はからころと下駄をならして 庭に降り立った。
「それはよかったですね…とでも云っておきます」
そう云いながら、彼女は巴の右手に軽く触れる。
(…少し、熱い)
「どうかなされました?」
小首を傾げながら巴が訊くと、恵は困ったように小さく息をはいた。
「疲れがたまってるようですね。
 今日はこのまま剣さんと部屋で休んでください。
 夕餉は後で運びますから」
「…わたしは平気ですけど」
またもや首を傾げて、巴は笑った。
しかし恵はほんの少し厳しい表情(かお)をして、剣心と巴のふたりを見る。
「この数日、無理を重ねてきてるんです。
 最近は夜風も冷たくなってきています、油断するとやっかいな風邪をひきますよ?」
美女が真剣な顔をすると、かなりの迫力がある。
剣心は感心しながら
(そういえば巴も怒らせたら…)
などと、ちらと巴を見遣ったりした。
それに気付いた巴は、くるりと漆黒の瞳を剣心に向ける。
慌てて剣心が薄笑いを浮かべると、恵が 「あ、今なにかよからぬことを思いませんでした?」とすぐさま小声で剣心に囁いた。
「え、いや…」
どう切り返して良いのか思いつくはずもなく。
剣心が言葉に詰まっていると、巴がくすくす笑いながら恵に目配せをする。
「ま、剣さんのことだもの。
 すぐに巴さんと結びつけて何か考えてたんでしょ?」
「あー…、恵殿には敵わないな」
「いいですけどね、慣れてましたから」
剣心と恵の遣り取りはまるで今この場が東京のように思えて、巴は思わず頬を緩ませた。
またあの古い長屋に戻って。
そうして薫や弥彦や左之助や。
変わらない日常をもう少し長く続けることが出来るはずだ。

「恵殿の忠告には感謝する。
 今夜は巴を早めに休ませることにするよ」
「それがいいです。
 遠慮はなさらないでくださいね?」
にこりと微笑んだ恵の表情は艶やかだ。
どん底に落ちて、這い上がってきた強さ。
己の過ちを受け入れ、なお、己の道を進む強さ。
恵はそれを自分たちのおかげだと云うけれど、とんでもない。
それは恵自身の、消えることのない煌めきだ。
巴はこの現世(うつしよ)に感銘する。
多くの、これだけの、素晴らしい人々と。
―――出逢わせてくれた、その与りしれない大いなる存在に。
「…ありがとう、恵さん」
様々な想いをのせて、巴は恵に礼を云った。
「とんでもありません、これはわたしの仕事でもありますから」
背筋を伸ばし、きちんと受け答えするその姿は、医者という仕事が彼女の天職であることを 剣心と巴に再確認させる。
(恵殿が、側にいてくれることがこんなに頼もしいとは)
そういえば初めて恵殿の存在を知ったとき、巴はやけに彼女に会いたがった。
それは巴の優しさからだと当初は思っていたのだが。
おそらく恵の本質を薄々感じ取っていたからかもしれない。
巴には、そんな鋭敏な感覚がある。

「じゃ、身体を冷やさないようにくつろいでいてくださいね。
 すぐに食事と念のためお薬を持って行きますから!」
びしっと人差し指を立てて、恵はかたかたとまた去ってゆく。
病人とおぼしき人物が目の前に居るとなると、 彼女の負けん気は何倍にも強くなるらしい。
思わず目を合わせて、そして剣心と巴はふふ、と笑みを零し合った。