恵は何度もこれまでやってきたように、 するすると包帯を巻き付けた。
「・・・・・・」
彼女の繊細ではあるがしっかりとした指が、 剣心の身体の状態を確かめてゆく。
「恵殿、ありがとう。
 もう普通に動いても大丈夫だと思う」
剣心が深く頭を下げるが、苦笑して恵は首を振った。
「いいえ、珍しく剣さんが大人しくしてくれたおかげです」
「あ・・・」
そういえばいつも応急手当だけですぐに 飛び出していった気がする。
ぽりぽりと剣心は頭を掻いた。
「大怪我しても安静に出来ない。
 それが剣さんの性分ですから、仕方ないとも思うんですけど」
でも、と恵が続ける。
「医者としてのわたしの気持ちも、考えてくださいね」
「う、」
云い訳出来ない剣心が、ぐっと言葉に詰まった。
(こんなところが、可愛いとか思っちゃうのよね)
巴さんもそうかしら?
今度訊いてみましょう。
ふふふ、とこっそり笑った声は、剣心に聞こえていた。
(嫌な予感がする)
剣心は思わず視線を恵の頭に移す。
ぴょこりと枯葉色の尖った耳が一瞬現れて、消えた。
(・・・)
気のせい、には違いない。
けれどこの不吉な予感は当たるのだろう。
「明日、またあのお師匠のところへ行かれるそうですね」
用具をてきぱきと片づけながら、ふと恵が口を開いた。
「ああ」
「聞くところによるとかなり大柄でがっしりした方とか」
「そうそう。
 しかも大酒飲みで、手に負えない」
無意識に不機嫌な表情になる剣心を、恵はじっと見つめた。
(身体がしっかりした、巨躯の人間と)
(筋肉はあるものの、小柄な細身)
(同じ飛天御剣流としてはあまりにも―――)
「・・・剣さん」
微かに呼びかけた恵の声に反応して、剣心が顔を上げる。
その穏やかで涼やかな表情。
それは優しげに見えて、実は内側に他人を踏み込ませないものだ。
「どうかした?恵殿」
恵が迷っていると、剣心から声をかけてきた。
「・・・いえ、たいしたことじゃあ・・・」

そうして恵は気付いた。
彼は、己の身体のことをよく解っているのだと。
(―――厳しい、生き方ね)
けれど恵はそれを否定するつもりはない。
償わなければならない罪を負っているのは、彼女とて同じこと。
誰かに何かを、返しても返しても。
終わることはないだろう。
「・・・はい、おしまいですよ。
 でも剣さん、“完治”したわけではないんですから・・・ 無理はしないでくださいね」
用具を片づけながら、普段と同じように恵は話す。
剣心はそんな彼女の動作を眺めながら、両眉を少し下げて笑った。
「ありがとう―――恵殿」



巴は草履を履いて中庭に降りた。
振り返れば壊れた部分の修復もほぼ終わった、 葵屋がそびえている。
彼女と剣心は、このあと比古の元へ向かう予定だった。
相変わらずじーじーと蝉はせわしく鳴き。
今日も暑い一日になるであろうと思われた。
「・・・もうすぐお別れね・・・」
比古に挨拶が済めば、巴たちは東京へ帰る予定だ。
しかしそれは、斎藤が持ってくる仕事次第ではあるのだが。
ふう、と小さく息を吐いて。
巴は奥にある離れに目を遣った。
今あそこで剣心は恵の治療を受けている。
恵は医者として一流だ。
剣心の身体についてもかなり理解しているだろう。
(―――いつかは)
彼の贖罪が、出来なくなる日が来るのかもしれない。
誰にでも起こりうる、否定できない事実。

(それでも、わたしは)

あの人の歩き続ける道を、閉ざすことはないだろう。
どこまでも。
どこまでも。
一緒(とも)に。

それは祈りなのか願いなのか意志なのか。
本当は巴にもわからない。
ただ、彼女が剣心と生きてゆくと決めた時に。
その想いは強く、深く、彼女の中にあった。
(こんなことを縁に聞かせたら、きっとバカだって云われるわね)
(でもきっと、あの子はわたしを止めようとはしない)
(お父様も・・・苦笑いしながら、それでもわたしの背中を押してくれる)
自身を愛してくれる家族が居る。
それはとても幸せなことだと巴は思う。
剣心は身内がひとりもいないけれど、 彼を大切に思ってくれている人たちが居る。
そして。
剣心と巴はこうやって一緒(とも)にある。
(わたしたちは)
充分に幸せだ―――・・・

「巴」
いきなり声をかけられて。
巴は弾かれたように振り返った。
すぐ目の前に剣心の顔がある。
「あなた・・・」
「なに?考え事?
 巴がぼんやりしてるなんて珍しいね」
剣心の斜め後ろで、恵がにこにこと微笑んでいる。
「ごめんなさい、自分でも気付かなかったわ」
微かに頬を赤くしながら、巴は軽く頭を下げた。
「無理もないですよ。
 これまでずうっと剣さんの看病をなさってたんですから。
 ・・・疲れがたまっているのだと思います」
「いいえ、恵さんこそ緋村だけでなく怪我人をずっと看てたんです、 大変だったでしょう」
あらやだ、と恵はころころと喉を鳴らして笑った。
「これはわたしの仕事です。
 それに剣さんのかわいらしいところも見られましたし、 むしろ役得でした」
悪びれもせずそう云う恵に、巴は楽しそうに相づちを打つ。
「恵殿・・・かわいいって俺は結構歳を食ってるんだけど・・・」
それを聞くなり、 恵と巴は互いに顔を見合わせ、それからくるりと剣心へ振り向いた。
「・・・え?なに!?」
女性二人、それもとびきりの美人がじいっと自分に視線を送ってくる。
なんだか居心地が悪くて、剣心は我知らず半歩ほど後ずさった。
「まさか自覚がなかったんですか?」
恵がこそりと巴に耳打ちする。
「・・・そうですね、緋村の年齢を聞くと殆どの方たちが驚かれるんですけど、 肝心のあの人はその原因に気付いてないみたいなんです」
そう答えながら、巴はふふ、と笑った。
「もしかして」
「はい?」
「巴さん、故意に教えなかったんですか?」
ぱちぱち。
音が聞こえそうなほど、巴は瞬きを繰り返して。
あら、と初めて気付いたように口元をその白い指で覆った。
(巴さんったら、無意識だったのね・・・)
恵はその様を驚いたように見つめていたが、 やがて楽しそうに笑い始める。
「そ、そんなに変でしたか?」
慌てて巴が訊けば、恵はいいえと首を振った。
けれどやはり笑いは止まらない。
困った巴が、恵の指さす方を見遣れば。
至極不機嫌そうな剣心の顔があった。
「・・・恵殿が、何が可笑しいのかわからないけど、 なんだか俺が笑われてる気がする・・・」
眉間に深い皺を刻み、剣心は巴に聞かせる意図もなく呟く。
「ご、ごめんなさい」
未だ含み笑いながら、恵は頭を下げた。
そして続けて口を開く。
「そういう意味で笑ったんじゃないんです。
 ・・・なんていうか、笑いたくなるくらい素敵なものを みせてもらったから、ですよ」
「?」
小首を傾げながら、剣心と巴は顔を見合わせた。
それはまた絶妙の間合いだ。
(ああ、もう)
困ったような、それでいてとても嬉しいような。
そんな気持ちが綯い交ぜになってまた恵は笑ってしまう。
―――よくもこのふたりが出逢ったものだと。
自分は剣心のことを“男”として意識しているが、 剣心と巴のふたりの前ではその感情よりなによりも、 ふたりがこうやって一緒に居ることを願ってしまう。
第三者にそんなことを思わせる夫婦が、 こんなに目の前にいる。

(・・・お裾分けね)

そう、とても優しいこの気持ちを。

「じゃ、気をつけて行ってらっしゃい」
裏門に着くと、恵はニコニコと手を振った。
そこでやっと剣心は比古を訪ねる予定であったことに気付く。
(忘れてた―――!)
青ざめてゆく剣心の顔を、隣の巴がひょいと覗き込んだ。
「すっかりお忘れになっていたみたいですね・・・」
恵も深く頷きながら呆れたように云う。
「今朝、比古さんのところへ行くから看てくれって、云ったのは 剣さんなのに」
「あ、いや、大丈夫・・・ちゃんと思い出したから!
 うっかりしていただけだから!」
(隙あらば忘れたいって感じよねえ)
軽く首を振りながら、恵はちらりと巴へ視線を動かした。
先ほどと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべながら。
彼女は剣心を見つめている。
さすが、こういうことには慣れているのかと思えば、 恵は剣心がいつの間にか冷や汗を浮かべていることに気付いた。
―――剣心はあはは、と空笑いをしているが。
(あら・・・これって・・・もしかして)
「大丈夫ですよ、今回は長居はしませんから。
 夕刻までには戻りましょうね」
ことさらにこやかに、明るく、巴は剣心に話しかける。
ぽりぽりと頭の後ろを掻きながら、剣心はただ頷くだけだ。
恵は腰に片手を置きながら、そんなやり取りを黙って見ている。
(こんなに剣さんが狼狽えてるの、初めて見たわ)
(多分ここぞという時には、剣さん、巴さんに 勝てた試しはないんでしょうねえ・・・)
天下に名を馳せた抜刀斎が怯えると構図も、 案外悪くはない、と恵は思うのだった。



「―――で、あんたはまだ姿を表に出えへんの?」
張は煙草の煙にむせながら、路地を行く剣心と巴の背を見送る。
「こっちはこっちでまだ事後処理に忙しくてな。
 十本刀の顛末もお前を通して教えたことだし、暫くは放っておくさ」
真っ白な手袋が、よくも煙草の灰で焦げないものだと 感心しながら、張はひとつ大きな欠伸をした。
「あんたの気配、抜刀斎は気付いてたんとちゃうか?」
「・・・ふん」
ぷかり。
大きく煙を吐くと斎藤は至極つまならそうに踵を返した。
「長い付き合いだ、用がなければ居ても居なくても無関心だな」
へええ。
張は心の中で大仰に声を上げる。
逐一抜刀斎の行動を把握しながら、無関心ときましたか。
(そういやあ・・・)
斎藤と抜刀斎は、かつては敵同士。
幾ばくかの年月が、それぞれの立場や生きる場所を変えてきたというのに。
(なんつーか、芯のところで変わってないっつーか)
その『変わらないもの』が、ふたりを繋げているのだろう。
無駄な動きなく歩き去る斎藤の背を見遣りながら、 張はにたにたと笑みを浮かべた。
(おもろい)
(ほんま、おもろい)
他人の人生を、心底愉快に感じたのは、張はこれが初めてだった。




ぼんやりと庭で遊ぶ雀を目で追っていた。
東京へ帰る準備をしなくては、と思うのだけれどなかなか 重い腰が上がらない。
第一、まとめる荷物はほとんど無いので、船の手配ぐらいしか することはないのだけれど。
(剣心や巴さんも、もう一度あの長屋へ戻るって云ってたし)
・・・つい半年前までの、楽しかった生活が待っているというのに。
薫は、再度ため息をついた。

「そーいえばさあ、緋村船酔い酷いんでしょ?  帰りは船でいいの?」

いきなり後ろから声をかけられて、薫は驚いて振り返る。
そこにはにこにこと笑いながら、腰に両手をあてた操が立っていた。
「み、操ちゃん…」
「へへ、びっくりした?」
「そりゃいきなり声をかけられたら、誰だってそうでしょ?」
ごめんごめんと云いながら。
操はよっこらせ、と縁側に居た薫の隣に腰掛けた。
「あのね、蒼紫さまが、ね」
さりげなく切り出したつもりであろうが、 そこにささやかな緊張感がある。
「・・・緋村と茶の湯でもするかって」
「え?ほんとに!?」
ぼそりと零した操の言葉に、薫が大きく反応する。
―――あの己から人を遠ざけ続けた蒼紫が、 剣心と話そうとするなんて。
「えっとそんなにはっきりとは・・・ただ薫さんたちが もうすぐ帰るって聞いて。
 そしたら緋村と約束したことを思い出したとかなんとか」
やや顔を赤らめながら。
訥々(とつとつ)と操は薫に説明した。
その様子がどこか愛らしくて、薫はまじまじと操の顔を見遣る。
「操ちゃん・・・がんばったんだね」
「え?」
「あおし・・・四之森さんの話をする時とても優しくなった。
 前はただかわいいなあ、って思ってたけど」
ぼん、と音がするほど操は顔を赤くした。
そして「やだああ!薫さんったら!」の言葉と同時に 豪快な平手が、薫の背を直撃する。
「げほっ、」
「あ、ごめんなさい!!」
「だ、だいじょ、ぶ・・・」
「もうあたしったらつい」

ホントに大丈夫。
薫は笑いながらそう心の中で呟いた。
操ちゃんたちは、大丈夫だ―――・・・

「薫さん?  やだ、痛かった?」
押し黙ってしまった薫を心配して、操は彼女の顔を覗き込んだ。
「ううん―――平気、ただ・・・」
「?」
ただ、薫は思うのだ。
自分ひとりが立ち止まっているのではないか、と。
巴にも恵にも追いつけない。
操ですらしっかり歩いている。
では自分は・・・?
「ちょっと元気がないよね、薫さん。
 どうしたの?って訊いていい?」
同じ年頃の少女たちより、心持ち低い声で。
操が優しく問う。
きょとんとして、薫はまじまじと操を見つめた。
(操ちゃんったら、ほんとにいいこなんだから)
そんな風に操の優しさに胸を熱くしていた薫は、 不意に弥彦や恵との会話を思い出し。
やがて連鎖反応のごとくそれらの言葉全てに胸を熱くした。
(わたしったら)
(今になって)
(やっと、わかった)

恵は薫は薫で、それでいいと。
弥彦は薫の傍に、ちゃんと居てやると。
・・・そう云ってくれたではないか。

(弥彦も恵さんも操ちゃんも)
(剣心や、巴さんも)
(わたしが、“歩ける”って信じてくれてるんだ)
自分は、己の力だけで生きてきた訳じゃない。
たくさんの、数え切れない、助けを借りながら。
わたしはここに、こうやって、存在している。
(なに焦ってたんだろ?)

「・・・わたしは、操ちゃんになりたかった」
ふふ、と笑いを零しながら。
薫はそう告げた。
「へ?あたし!?」
面食らったように操が声を高くする。
「うん。
 操ちゃんは大切なもの、最初から知ってて。
 ちゃんと手にしたから」
「・・・・・・」
「そうだよね、わたしもちゃんと掴まないと。
 わたしの、大切なもの―――」
えへへ、と照れたように微笑めば。
あはは、と操が明るく笑った。
「まだまだだよっ!」
勢いよく立ち上がって。
操が薫を見下ろした。
「あたしもまだまだ!
 ―――薫さんと一緒だよ」
拳にぐっと力を込めて、操は自分や薫を 励ますように言葉を続ける。
「何が正しいのか、これでいいのか、 他の選択肢はないのか。
 ぐるぐるぐるぐる考えてもわかんないんだけど!」
「けど?」
くすくすと笑いながら薫が訊く。
「けど!心とか自分のほんとに望んでることを無視しちゃ だめだって、そう思う!」
「―――だね」

そうだ、ね。
くすくすくす。
だってわたしたちは、若いから。



ぶんぶんぶん

弥彦の竹刀を振る音が単調だ。
気合いが入ってないのかと、左之助がひょっこりと 弥彦の背中側から声をかけた。
「どーした、もうすぐ東京へ帰るから 身に入んねーのか?」

ぶんぶんぶん

半分からかいの混ざった左之助の問いに答える気は さらさらなく。
弥彦はただ竹刀を振っている。
(・・・機嫌が悪いっつーわけでもないよな)
懐に手を所在なく突っ込んで。
左之助はぼんやりと弥彦の動きを目で追った。

ぶん

そして唐突に弥彦はその動きを停止してしまったのだ。
「何やってんだ、あ?」
訊かず推測するなどとは、左之助の脳裏にはない。
なので直球に、疑問をぶつけてみた。
視線だけで弥彦はちらりと左之助を見遣り「別に」と 応えるとすぐにまた竹刀を振り上げようとする。
「コラ!まて!」
「なんでもねーよ!」
ほぼ無視された左之助が文句をつけようと口を開くと同時に、 弥彦はびしりと否定の言葉を吐く。
別段弥彦の表情が暗いわけでもなかったので、 左之助はどこかで安心しながら(もちろん無自覚である)、 かりかりと首筋を掻いた。
「んじゃなんだ、練習する気分じゃないってだけか?」
「・・・」
図星なのか、弥彦は押し黙って諦めたように 竹刀を持つ右手をだらりと下げた。
そして左之助の方へ向き直り、じっと彼を見つめ。
やがて観念したかのように息を吐(つ)く。
「―――強さの意味を考えてた」
「は!?」
ぼそりと零された言葉に、思わず左之助は大声を上げた。
自分と同じ鳥頭の少年が、自分より難しいことを考えて 悩んでいるとは。
呆れたような感心したような複雑な思いで、左之助は まじまじと弥彦を見た。
しかし弥彦はそういった左之助の感情には頓着せず、 再度ぼそりと呟いた。
「・・・強いってどういうことなんだ?」
そうして漸く弥彦は左之助を正面から捉える。

おまえは、知っているのか

そう、問う。
「・・・あー・・・・・・」

んなこと俺が知るか。
そう云ってしまえればどれほど楽か。
うろうろと視線を彷徨わせた後、 左之助はいきなりわしわしと弥彦の頭髪を掻き回した。
「っ、いってー!!なんだよ、人が真面目に訊いてるってーのに!!」
「そいつはな」
「は!?」
ぴん、と弥彦の額を人差し指で弾く。
「・・・このっ!!」
思い切り仰け反った弥彦は、かっと目を見開いて 怒声を浴びせようとした、が。
「ない」
「はっ!?」
「だから、そいつはな、答なんてねえ」
「・・・・・・」

弥彦はしばらくきょとんとし。
やがて顔を赤くして大声を上げる。
「お前に訊いた、俺がばかだった」
「おい、まてコラ」
弥彦の首根っこを掴まえて、左之助はじたばたする 弥彦を軽く持ち上げた。
「はなせよ」
「“ない”んだよ、わかったか」
「・・・」

力説しているうちに、左之助はだんだん自分の言葉に 自信を持ってみたりする。
それでつい調子に乗って訊いたみた。
「おまえ、なんでそんなこと考えたんだ?」
すとん、と落とされて、弥彦は悔しそうに 左之助を見上げた。
悔しそうな表情の中の、瞳はそれでも 純粋な輝きを放っていた。
そしてようやく左之助は思い至る。
こいつは強くなりてえのか。
己にとって“正しい”意味で。

「おめえ、その歳で・・・」
「あ?なんだよ?」
「・・・・・・いや別に」

弥彦はコイツに問うたのが間違いだったと、 軽く嘆息すると再び竹刀を手に持った。
そんな弥彦の頭をぽんぽんと軽くはたくと、 左之助はすたすたと歩き去る。
竹刀を振る音は先ほどよりましになったようだ。
(・・・十歳だっけか?
 あの歳で守りてえもんがあんのか)
「うー・・・ん」
左之助はぽりぽりと頭を掻きながら、 弥彦の守りたいものが何かを考えてみた。
しかし皆目わからないので、彼はそのまま考察を 停止して自分も鍛錬でもするかと伸びをする。
後日、この出来事を恵に左之助は話したのだが、 その時の恵の答は単純明快だった。

そりゃあんたには理解不能よ。
あんたは何かを守っても、
ひとところにはとどまらない風だもの。

単純明快ではあったが、やはり左之助は理解は出来なかったのである。





「・・・・・・」
「あら・・・」

ぴよぴよと愛らしい山鳥が頭上でさえずる。
二人の立ちすくむその先には、すっかり無人となった小屋がひとつ。
「っ、ばっくれた!!」
我に返って、剣心は呆れたようにそう云い放った。
「つい先日まで此所にいらしたのに・・・すばやいお方ですね」
半ば感心したように巴が嘆息する。
「そうだな・・・似たような場所にばかり居着くくせに、 じっと同じ場所で暮らすのは性に合わないとか」
「ちゃんとご挨拶しておきたかったのですけど。
 今からお探しすることもできないし」
もぬけの殻となった小屋の前で、剣心は至極残念そうな 巴の言葉を聞きながら、内心は歓喜に打ち震えていた。
(師匠がすでに引き払っていることを少しは期待してたけど)
(本当に移動してたなんて)
(今回だけは感謝します!師匠!!)
知らず知らず剣心の口元に笑みが浮かぶ。
これで暫く、あの恐怖の人間と向き合わなくて済むのだ。
嬉しくもなろうというものである。
「比古さまに・・・」
そんな時、巴の声ではっと我に返ると剣心は慌てて 頬の緩みを引き締めた。
「比古さまにもう一度お礼を云いたかったのですが」
巴はそんな剣心の様子にかまわず、 人の気配のない淋しげな小屋をじっと見つめている。
「・・・“お礼”なんて師匠は聞きたくないんじゃないのかな」」
「え?」
曇りのない声でさらりとそう云った剣心へ、 巴は意外そうに振り向いた。
「あの人は自分のやりたいようにやって、それで満足なんだよ」
剣心のそれは、まるで笑いを堪えているかのようで。
「酒を飲みたくなれば、俺に酒を買わせて。
 月が見たくなれば、俺をほったらかして一晩中帰ってこない。
 そうして。
 そんな風に―――後世に残すつもりの無かった剣を、俺に教えたんだ」
「・・・・・・」
巴は、剣心がただ語る言葉を。
遮ることなく、耳を傾ける。
幾年かをこの清閑な山で、剣心と比古がふたりきりで、修行に明け暮れた日々。
彼女はそれをただ、黙って聞くしか出来ないのだから。
「あの時」
剣心はゆっくりと巴へと振り向き。
まばゆそうに目を細めた。
「あの、時?」
「・・・うん、奥義を会得したときに師匠が云ったんだ。
 お前は“比古清十郎”を名乗るにはほど遠い存在だって」
それは飛天御剣流を継承する者に受け継がれてきた名前だ。
その時代、時代に人々を救う為に振るわれる剣。
一見、剣心の生き方は飛天御剣流の理と同じく思えるのだが、 巴はぼんやりと比古の語った意味がわかるような気がした。
―――己が、剣心の傍にずっと寄り添っていることが。
何よりもその証だと、思う。
「・・・でもおそらく、“現在(いま)”の比古さまの後継者はあなただけだと 思います」
巴は柔らかく微笑むと、そっと剣心の右の手を握った。
剣心は思いもよらぬ言葉をかけられ、瞠目したまま暫く動けなかったが。
やがて小さく、そして嬉しそうに頬を弛めた。
「ほんとに君にはかなわない。
 こんな風に容易く俺を・・・」
そこで剣心は言葉を切った。
作為的ではなく、ただ単に照れて口に出せなかっただけだ。
巴も敢えて続きを促そうとはせず。
その柔らかな指を、剣心の指に絡めたまま、ただ寄り添うように佇んでいる。

(ほんとうに、君は)
(たったひとつの言葉で俺を幸せな気分に、させる)

言葉だけでなく。
彼女の瞳に、唇に、体温に。
どれだけ幸せをもらっただろう。

しばらく懐かしげに剣心は小屋を眺めていたが、 ふと何かに思い当たったように目を細めた。
「・・・ちょっと、中を覗いてみようか」
「どうかなさいましたか?」
不思議そうに巴が首を傾げると、 剣心は困ったように笑った。
「いや、なんとくだけど・・・置き土産があるかもしれない」
「そういう方ですか?」
「ははは」
乾いた笑いを張り付かせて。
剣心は一歩踏み出した。
あの師匠のことだ。
嫌味のひとつふたつも云わずに立ち去るなんて考えにくい。
拳骨一発、張り手一発、怒声一発、そうでなければ 無言で実力行使。
それらをせずに、姿を眩ましたとあれば。
(ああ見えておせっかいだから)
何らかの形を残して去ったのではないか。
剣心はそう感じたのだ。
「そう、ですね・・・ああみえてお優しい方ですし」
剣心の思いとややかけ離れた言葉を巴が零す。
「あ〜、まあ、優しい、かな・・・(女性だけには)」
「ちゃんと貴方のことを考えてくださいましたよ?」
「否定は、しないでおくよ」

そんな会話を交わしながら。
かたん、と剣心は古ぼけた扉を滑らせた。
すでに小屋の中は薄暗く、それでも少なかった家財道具が 一切合切なくなっていることは理解できた。
剣心は、戸を開けたそのままの姿勢で。
暫し動きを止める。

「あれは・・・」
巴が小さく呟いた。
剣心はやがて肩を震わせて、そうして「あはは」と 声を立てて笑う。
色が抜け、毛羽だった畳の上にぽつんと。
比古愛用の酒瓶が残されていた。
薄暗い部屋の中で、たったひとつ残っているもの。
「ふ、くくっ」
ようやく笑いを納めて、剣心は首だけを動かして背後の巴を見た。
「どうしようか?」
それはもちろん酒瓶のことだ。
巴は唐突な問いに一瞬困ったような顔をしたが、 微かにため息をつくと「いただきましょう」と頷いた。
「・・・それは、貴方だけに比古さまが残したものですから」
剣心は「ありがとう」と小さく応(いら)えると、 一歩二歩と奥へ上がるとそっと酒瓶を手に取った。
たぷん、とまろやかな液体が揺れる音がする。
それだけで過去の様々な出来事を思い返し、 剣心は懐かしい思いに駆られた。
たぷん
もう一度かるく揺らして剣心は巴の傍へ戻ると、 手にある酒瓶を彼女の目線にまであげてみせる。
「ひどいよな、呑みかけだ」
言葉とは裏腹に、剣心は楽しそうだった。
巴はそんな剣心をやはり嬉しそうに見つめている。

(師匠)
(俺は)
(俺は、師匠と一緒に)
(酒を酌み交わしても、いいんですよね)

・・・比古と初めて出逢った時からの、長き年月を剣心は思う。
そして今日この時初めて。
比古は剣心に酌をしたのだ。

「今度会われるときには、ちゃんと比古さま自らの手で お酒を持って来られるかもしれませんね」
柔らかな陽射しが広がりつつある小屋の中を、見渡しながら巴が云う。
剣心はゆっくりと歩き出しながら、肩を竦めた。
「さあ、どうだろう・・・あの人は巴と呑む方が楽しそうだし。
 それにやっぱり俺はあんまり顔を合わせたくないし」
暴力的だし、口は悪いし、すぐ嘘吐くしな。
悪口雑言並べ立てながら、どこか口調を弾ませながら。
剣心はすたすたと足を動かしてゆく。
巴は剣心によって入り口を閉ざされた、その小さな建物に向かって 深く頭を下げた。
(今度お会いするときは)
(ちゃんと付き合ってくださいませ)
(きっとあの人は、貴方の盃を拒むことはないでしょう)
それから小走りで剣心に追いつくと、その所在ない右手を握る。
振り返ることはないまま、剣心はその彼女の手をぎゅっと握りかえした。
その手の温かさを、巴はとても嬉しいと思う。
幾つかの大事な温かさを、巴はその手に掴むことが叶わず逃してきた。
けれど剣心と出逢ってからは、幾つもの温かさを己の掌中にしてこれたと 考えている。
(悩んで苦しんで叫んで絶望して)
どん底だった自分が、今こうしてこの人と手を繋ぐだけで 酷く満ちたりる。
(あの時)
(初めて差し出された貴方の手を、取った時)
(わたしの中の、何もかもをも・・・押し流すほど)
嬉しかった、幸せだと思った、人間の脆さを我が身で 思い知らされた。
―――それでもやっぱり、嬉しくて。

「離さないで居てくださいね」
「え?」
思わず振り返った剣心に、巴が笑いかける。
「・・・あなたの、せいでもあるんですから」