か、か、かかっ

氷を砕く、小気味よい音が響く。
(誰かしら?)
小さなたらいを抱えたまま、巴は暖簾を潜った。
その気配を感じたのか、動かしていたキリを止めて。
その人は長いお下げを揺らして振り返る。
「あれ?巴さん、どうしたんですか?」
巴は柔らかく微笑むと「お水を換えに」と答えた。
お下げの少女―――操はにっこりと笑うと、 今し方自分が砕いていた氷をがらがらと巴の空になっていた たらいに両手で移す。
「ここ数日暑いし、これで緋村を涼しくしてやってよ」
「いいんですか?
 操さんがお使いになるために砕いていたのでは?」
えへへっと操は白い歯を見せるとまたがしがしと 氷の固まりを砕きだした。
「だいじょぶ、だいじょぶ、ほらまだあるし!
 あたしこーゆーの得意なんですよ」
ががががっ!
軽快に細かくなってゆく氷のかけら。
なるほど、操の云っていることは本当らしい。
「・・・四乃森さんに?」
巴がぽつりとそう問うと、ぴたりと 操の動きが止まってしまった。
しかしその不自然さに気づいた操はすぐにあははと 笑って誤魔化す。
「あ、蒼紫さまにも涼しくなってもらおうかな〜とか。
 氷水(こおりすい)なんて美味しそうだし」
巴はかたんと幾らかの氷の入ったたらいを脇に置いて。
操の隣に立った。
「彼とまだ、ちゃんと話し合ってないんですか?」
ぴたっと動作を止めて、操はうーんと首を傾げる。
それからほんのりと頬を染めながらこう答えた。
「・・・お帰りなさい、って云ったら、ああ、ってひとこと」
あらあら。
なるほど蒼紫らしいとも巴は思うが、 長い間待たされた操の身にもなって欲しいものだとも思う。
操のことだから、我が儘も云わずじっと座禅を組む蒼紫を、 ただ見つめているだけなのだろう。
操はまだ赤い頬のまま、言葉を続けた。
「あ、それとちょっと感じが変わったってゆーか」
「感じ?」
「うん、以前(まえ)は四六時中ぴりぴりしてたんだけど、 今はね、なんてゆーか・・・近づきやすくなったかな?」
操は柔らかな表情で語る。
「そう、ですか。
 ・・・もっとたくさんお話しできる日が来るといいですね」
「え?う、うん・・・そうだね」
そうはにかむ少女の、なんと輝いていることか。
「氷、ありがとうございました」
礼を述べ、会釈して立ち去ろうとした巴だったが、 すぐさま操が呼び止める。
「と、巴さん!
 あのっ、あとで話したいことあるんだけどっ!」
さらりと髪を揺らして、巴は振り返った。
「はい、いいですよ」
「ありがとう!
 じゃわたし蒼紫さまに氷水(こおりすい)持ってくから!」
ええそうですね、と器を持ってゆく操に相づちを打ちながら。
巴はことりと首を傾げた。
(四乃森さんは、やはり緋村に似ているところがあるわね・・・)



「そういえばあれきり蒼紫の顔を見てないな」
同じ屋根の下だというのに。
かりっと剣心は小さな氷の固まりを口に含みながら、 冷たさが凍みるのか顔を歪めた。
「実は、わたしもなんです。
 毎日禅寺へお通いとか。」
巴は困ったように笑う。
「ああ、だからか。
 ・・・操殿は氷水を渡せたのかな?」
「そうですね。
 あのおふたりはもう少し会話が必要でしょう」
ちらと巴の方を見て。
剣心は冷たくなった指先をこすった。
「蒼紫はおそらく・・・背中で語る、かな」
「それって語らずとも通じるってことですか?」
巴がくすくすと笑う。
そんなの、男の幻想ですよ、と。
「そうだね」
釣られるように剣心も笑った。
「巴も俺も、身に覚えがある。
 たまには喚き立てるくらい、相手に自分のことを 云っておかないと・・・後悔する」
「後悔、だけで済めばいいですが、 取り戻しがつかないことになることもありますし」
剣心はまた小さな氷を口へ運ぶ。
それを見ながら巴が ぱたぱたと団扇で氷を扇げば、ひんやりとした空気が流れた。
「・・・京都の夏の蒸し暑さ、本当に堪えるな」
「操さんからの贈り物は、とてもありがたいですね」
ぱたぱた
かりかり
夏の陽射しだけがくっきりと、暑い。

「巴」
不意に剣心が、巴の手首を掴んだ。
そのまま彼女の唇に自分のそれを近づける。
「あ」
びっくりした巴は、小さく声をあげかけたが、 やがてそれは剣心の深い口付けの奥に消えてしまった。
氷で冷えた舌先が、強引に巴の唇を割ってゆく。
「・・・ふっ・・・」
だがその冷たさも、ふたりの舌が絡み擦りあうと、 瞬く間に熱さを帯びてきた。
「んんっ」
くいっと巴が剣心の袂を引っ張る。
しかし剣心はそれを無視して、そのまま 巴の口腔内を味わっていた。
歯列をなぞり、上あごを擦り。
彼女の暖かな舌を吸う。
息継ぐ暇(いとま)も与えず貪るので、 巴の口の端から飲みきれない唾液が零れた。
ぎゅ
袂を掴む指が、縋るものを求めて強く握りしめられる。
息苦しさにほんのり頬を赤く染めた巴が、 今度は逆に剣心の舌を吸い出すように動いた。
(・・・っ)
思いがけない行動に剣心が驚いて一瞬動きを止める。
その隙に、ぐいと巴は剣心の肩を押し離した。
はあ、と大きく呼吸して。
巴があきれたように口を開く。
「・・・ここをどこだと思ってらっしゃるんですか?
 しかもまだ安静が必要だというのに」
「うん、わかってはいるんだけど」
剣心の右手はまだ巴の手首を握ったままだ。
どくどくと彼女の激しい動悸が、まるで手首から 指先に伝わってくる感じがした。
「だったらもう少し我慢してください」
「それもだめ」
あっさりと返された“否定”に巴が動揺したと同時に。
再度剣心は巴の唇を塞ぐ。
「や・・・めっ」
否定の言葉はすぐに濡れた水音に消されてしまった。
くちゅり、と上唇を舐められ。
巴の背が少し反れた。
やがて剣心の右手が、するりと着物の裾を割った。
ぴくりと巴の肩が震える。
少しかさついた指先が、彼女の大腿部を滑った。
「っ、あんまり節操がないと怒りますよ?」
荒い息で、巴がそう小声で呟いた。
剣心の指は柔らかな大腿をなで回しながら、少しずつ狭い奥へと 進んでゆく。
「ちょっとだけ、だから」
「も、う・・・何がちょっとですかっ」
ひた、と剣心の指先がとうとう足に付け根に辿り着く。
そのまま力を込めている太腿の間を力任せにこじ開けていった。
「あっ」
巴は思わず大きく上げそうになり、慌てて手で自分の口を抑える。
「ん、ん、んんっ・・・」
それでも指の隙間から微かに声が漏れ出た。
自分の身体がよく覚え込んでいる、慣れた指の動き。
細くて、それでいてしっかりした節が。
否応なく巴の快感を拾ってゆく。
ぬるりと彼女の秘められた奥へ、進入してゆく。
「酷く、しないから・・・少しだけ気持ちよくなって?」
剣心が、巴の耳たぶを噛みながら囁いた。
「わたしは、別にそんな・・・」
「うん、俺のわがまま、だから」
そうして剣心は、また巴の唇に口付ける。
巴の襟元も帯も、傍目からは全く乱れていない。
ただ、裾を割って剣心の腕が蠢くだけ。
「・・・あ、はっ!」
周りに気を遣い、巴は手のひらで己の口を押さえた。
くち、と剣心の指が一本から二本へと増えてゆく。
崩れ落ちそうになる巴の身体を、剣心は左の肩と腕で支えた。
彼女の奥を探る指を、器用に動かすだけで。
ぶるぶると小さく震えて、自分の腕に縋りきつく握りしめてくる。
こうやって彼女を熱くさせているのが自分だと思うと、 剣心の胸は弾むような喜びさえ覚えるのだ。
巴が、自分の手で―――恥じらいよがる姿に。
「あ、んん、ん・・・っ」
額をすり寄せる巴の背を、抱き締める。
汗ばむ彼女の身体から、匂い立つ色香。
剣心は逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと彼女を快楽に溺れさせていた。
体内の二本の指が焦らすかのように動き、 その動きに合わせるかのように巴の身体がふるりふるりと揺れた。
やがて剣心が同時に巴の敏感な部分を指先で擦ると、 巴は仰け反り白い首筋を晒す。
剣心の左腕は彼女の身体をしっかりと支えていた。
遠目で見れば、抱き合っている位にしか見えないだろう。
巴が崩れそうになる度、剣心はまだ痛む腕に力を込める。
もっと、本当は。
もっと彼女を抱き締めたかった。
そう、彼女が折れてしまうほど。
完全に回復していない身体をもどかしく思いながら。
それでも今のありったけの想いで、剣心は彼女を抱(いだ)く。
「あっ、あっ・・・!」
声を抑えることに堪えきられなくなった巴が、その 白い歯を剣心の左肩に布越しに立てた。
剣心はそれにかまわず、右の指で巴を追い立てる。
彼女の奥深くで数本の指先が蠢くと、 ひくりひくりと柳腰が痙攣した。
足を摺り合わせて巴が剣心の手首を強く挟む。
それは拒むというより、誘っているような気がして。
剣心の唇が弧を描いた。
「んんっ・・・んっ」
布を噛んだまま、巴が呻く。
熱い肉壁の覆われた剣心の指が、きゅっと締め付けられた。
「あ、あ、ああ・・・っ」
微かな悲鳴とともに巴はくたりと身体を剣心に預ける。
はあ、はあ、と吐き出す息とともに。
揺れる彼女の背中を、剣心は優しく撫でた。
汗ばんだ巴の額を、その手のひらで拭う。
「巴・・・大丈夫?」
「・・・・・」
小さく巴の唇が動いた。
耳を寄せて、剣心が聴き取ろうとした時。

むぎゅ

左の頬がいきなり強く抓られ、ぐぐっと引っ張られた。
「いたっ!ちょ、とも・・・!」
「お仕置きです、オバカさん」
普通のオイタならすでに解放されているはずの頬は、 いまだぎりぎりと巴の白い指が容赦なく抓っている。
「い、いたいって・・・巴さん!!」
ようやく巴は剣心の頬を解放すると、 むくれた顔で剣心を睨んだ。
しかしその表情は先ほどの情事のせいなのか、 ほんのり頬は赤くその瞳は艶やかに濡れている。
(そんな顔で怒っても、迫力ないな)
心の内でそう思いながら、困ったように剣心は苦笑した。
剣心は側にあった濡れた手拭いを手に取り、 慣れたように巴の汗や大腿部の汚れを拭く。
「・・・もう少し俺が元気だったら、 もっと啼かせられたのに」
「は?」
「あんまり酷くしなかっただろ?」
「・・・・・・」
巴の片眉が微かに跳ね上がり。
再度そのしなやかな指は、剣心の頬を遠慮無しに 引っ張っていたのだった。
痛い、痛いと小声で喚く剣心を。
もう恥ずかしいことは云わないでください、と念押しして巴は 汚れた手拭いと、すっかり溶けてしまった氷を土間へ運ぼうとした。
だがそれを、剣心が彼女の手首を掴むことで邪魔してしまう。
まだ赤い目元を向けて。
どうかしましたかと巴が首を傾げて問うた。

「―――ずうっと考えてた」
「・・・え?」
「俺の答は、君に合格点をもらえるのかな?」
「あなた・・・」

巴は己の手首を握る、温かな手に。
そっとその白い手を添える。
「聞かせてください、あなたの答を」
剣心は足を組み直し、巴は彼の前で姿勢を正した。
やや躊躇うかのように剣心は乾いた唇を舐めたが、やがて その淡い瞳を巴へ向ける。
「・・・認めなきゃいけなかった、それだけはわかってたのに。
 抜刀斎は、紛れもない“俺”だということを」
「はい」
「その“俺”を制するでもなく、抑えるでもなく。
 もちろん消すわけでもない―――俺は」
巴が淡く微笑み返す。

「俺は、君が好きになってくれた“俺”を好きになろうと、思う」
「・・・はい」

普段と変わらない、巴の笑み。
それが今は何よりも剣心は嬉しかった。
十年以上の年月を経て、やっと得られた答。
それは彼女が、自分とともに居てくれたからこそ。
剣心は酷く優しい手つきで、巴の頬に触れた。
さらりと流れる黒髪を指に絡ませる。
そうして大切なものが壊れてしまわないように、 ふわりと抱き締めた。

過去(あと)にも未来(さき)にも、彼女ひとりだけだろう。
ありのままの、そう、本当に自分の全てを受け止めてくれるのは――――・・・

不意に細い両腕が。
剣心の首に縋った。
強く強く、縋った。
抱き締めて、もっと、強く。
わたしは壊れませんから。
あなたと居れば、わたしは。

巴の想いに呼応するかのように、剣心は動く左腕で 彼女を抱き締めた。
あらん限りの力で。



それは。
気の遠くなるほど長い、贖罪の人生。
それは。
ふたりが同じ道を歩む理由であり、必定であり。



それは。
ただの男と女の姿だった。







恵は長身の男が帰ってくる姿を認めて、縁側から外へ身体を向けた。
「あら、左之助。
 どこに行ってたのよ」
「・・・ちょっと野暮用」
ぽりぽりと頭を掻きながら。
左之助は空いた方の手で腹を撫でる。
それに気づくと恵は仕方ないわねと肩を竦めた。
「お腹すいてるのね・・・何かもらってきましょうか?」
正直その通りだった左之助は否定もせず、 右手を挙げて「よろしく」と拝む。
そこで恵はあることに気づいて、左之助に問うた。
「あんた、比叡山へ行ってたんですってね」
「ん?ああ」
「・・・斉藤一?」
その名を聞くと、左之助は黙りこくる。
恵にどう伝えて良いか、言葉が出てこないようだ。
「生死不明、ですってね―――以前してやられたあんたにとっては 歯がゆいってところ?」
「るせー」
くすくすと笑いながら恵は歩を進めた。
「ああ、そうだ。
 剣さんも巴さんも斉藤のこと、普段通りに語ってたわよ」
 そう、捨て台詞を残して。

「・・・・・・」

つまりあれか? 剣心も巴さんも斉藤の心配をしてねえってことか。
左之助はどかりと縁側に腰を下ろした。
(っつーことは)
ヤツは生きてる。
また闘(や)れるってことか。
ざわざわと左之助の血が歓喜に蠢く。
これだ、この感覚。
俺はこのために、生きてるって気がする。
おそらく一生。
“コイツ”からは逃れられない――――

(ほんとに血の気が多い男ね)
それを隠す気もない辺り、剣さんとは大違いだわ。
恵はそんなことを思いながら五つほどの大きな握り飯を 小振りな風呂敷に包んだ。
とそこへひょっこりと左之助とよく似た形の頭が、視界に入った。
「あら、弥彦くん。
 あなたも小腹が空いたの?」
弥彦はぴくりと肩を震わせ、そろそろと振り返る。
「あ、ああ、ま、そんなとこ・・・」
「あら、じゃあついでに弥彦くんにも何か食べるものをもらって あげるわ」
にこやかに恵がそう告げると、安心したかのように 弥彦は微笑む。
「よ、よろしく頼む」
「いいえ。
 まだ傷口がちゃんと塞がってないのにうろうろしてた人には、 ちゃあんと栄養取ってもらわなきゃね」
ああ、やっぱり叱られた。
薫と違い、恵は個人的感情で叱らない。
あくまで正当性のある理詰めだ。
正直薫に叱られるより、弥彦は堪えた。
「すまねえ・・・」
ぺこりと頭を下げ、弥彦は素直に謝る。
恵はそんな弥彦の見て、くすりと笑った。
「あらやだ、わたしの言い付けを守らなかったこと、 気にしてたのね」
「ま、まあ」
「ふふ、反省してるならうーんと染みる傷薬を使うのは やめておいてあげるわね」
(ええー!?)
かろうじて弥彦は心の中で叫んでおいて、 真っ青な顔で恵を見た。
ふふふ、と微笑む恵の頭にぴょこりと狐の耳が生えている。
(あ、しっぽまで見えらあ・・・)
そのしっぽをふりふりしながら、恵は弥彦の向こうを指さした。
「あっちの縁側で左之助も居るから、一緒に待ってて」
それから恵は「あ、そうそう」と行きかけた足を止めて振り返る。
「弥彦くんはずっとあの道場に居るのよね?」
「ん?ああ、俺は薫とずっと居んだろ」
「・・・そう、それは頼もしいわ」
恵はやけに楽しそうな表情(かお)で歩き去った。
弥彦は空腹で鳴る腹をさすりながら、左之助の元へ向かう。
彼はいまだ己の失言に気づいてはいなかった。
―――恵にとって都合の良いことに。

(十かそこらのくせに、ある部分“男”なのねえ。
 一体幾人がそれに気づいてる事やら)

剣心は、無理だろう。
これはおそらく薫ですら気づいていないこと。
(巴さんなら・・・感づいてるかしら)
楽しそうに、嬉しそうに、恵はころころと喉を鳴らした。



ようやく傷がほぼ癒えた剣心は、比古の元へ出かけていった。
朝の手伝いを終えた巴は、 通りで水打ちしている操に声をかける。
「操さん、お時間取れますか?」
気だるそうに水を撒いていた操は、その声に気づくと 俄然張り切りだした。
「大丈夫!すぐに終わらせますから」
ばしゃばしゃばしゃばしゃ
音だけは賑やかなそれに、隣で箒を持つお増があきれて肩を竦める。
ぱーん
最後とばかり元気よく桶ごと撒くと、操はくるりと回れ右で巴へ振り向いた。
「じゃ、行きましょう巴さん!」

操の部屋は日当たりの良い南向きにあった。
残暑を避けるための京すだれがかかっている。
「あのさ、実は・・・蒼紫さまのことなんだけど」
巴の予想通り、操は蒼紫の名を出した。
「やっぱり彼のことですか。
 わたしなどがお役に立てますか?」
そりゃもう!
そう云わんばかりに操は首を縦に振る。
「だって、蒼紫さまと緋村は似てるから」
「・・・なぜそんな風に思われるのですか?」
優しい言い方ではあるけれど、はぐらかすような返答を 許さない、真摯な響きが巴の言葉にあった。
操は小さく唾を飲み込むと、真剣な眼差しで巴を見据える。
「昔、ちゃんと・・・生きてなかったトコ。
 その過去を背負い続けていってるトコ」
巴は操を凝視した。
まだ子どもの丸みを残した、明るい女の子。
それが蒼紫が関わると少女はこうも大人の女性へ 近づいてゆくのか。
「・・・そう、ですね。
 緋村も、四乃森さんも―――彼らは自分の為でなく、誰かの為に必死だったのに」

それなのに。
その必死さはどこかでボタンを掛け違ってしまったかのように。
過ちとなってしまった結果を、過去に戻って正すこともできないまま。

巴は暫し押し黙り。
その沈黙の深さを何となく感じた操も口を利くこともなく。
じーじーとどこかで蝉の鳴き声だけが響いた。
「そ、それでね」
痺れ始めた足先を持て余すように操は腰を浮かせ、 ようやく話題を振る。
巴もにこりと微笑み返し、「なんですか?」と聞き返した。
その笑みを心強く思ったのか、操はようやく自分の調子を取り戻す。
「蒼紫さま、以前(まえ)はぴりぴりして感じがあったけど、 今はそうでもなくなったってゆーか」
「それは良かったですね」
「うん、でもさ!
 ここはもう一押しだと思うんだよね。
 禅寺よりやっぱり葵屋に目を向けて欲しいし」
明るいけれど、操の瞳にはどこか切迫したものが看て取れた。
そして巴は、やっと操が自分に訊きたいことを理解する。

(ああ、そうなのね)
(この子は)
(自分をもっと彼に見て欲しいのね)
(もっと)(もっと)

それは恋する女性ならば、当たり前の望み。

「・・・・・・」
巴は陽に焼けた膝の上で、縮こまっている操の手をそっと取った。
「綺麗な、指をしてるわ」
「え・・・?」
「皆から、愛されてきたんですね」
ぱちぱちと瞬きを繰り返して、やがて操はゆっくりと頷く。
「あの方も―――きっとあなたを大事に大事に思って来られたのだと、 わたしは思います。
 そうしてそれ故に、あなたに簡単に触れられないのでしょうね」
操は唇を噛みしめ、ふるりと頭を振った。
「あたしはやだ。
 大事にしてくれるのは、嬉しいけど。
 だからといって近づいてきてくれないなんて、そんなのやだ!」
巴は操の手を、ぎゅっと握りしめ。
遠い過去に、思いを馳せる。
「ええ、本当に・・・見守るだけではいけないのですよ」
互いを必要とするのなら、“離して”はだめだ。
巴はなおさら言い募った。
「迷惑をかけないように、困らせないように、あの人の負担にならないように。
 ―――それは、ただの綺麗事。
 そんな、きらきらしたものは・・・脆くて壊れやすいのだとわたしは思います」
操は少し驚いたように巴を見る。
聡明で落ち着いた女性だという印象であったが、 今、自分の目の前にいるのは。
(・・・激しい・・・・・・)
そういえば剣心も普段は柔らかな笑みしか浮かべないのに、 激昂すると顔つきまで変わってしまう。
「巴さんも・・・緋村も。
 そんな恋、だったの?」
操がそう訊ねれば。
巴は小さく首を傾げた。
「それは・・・自分ではよくわかりません」
ほら、あの時は無我夢中で、あんまり周りが見えてなかったですし。
困ったように笑う巴はなぜだか操より少女めいてみえた。
(もしかして)
操はなんだか胸の動機が速くなった。
(もしかして、緋村と巴さん・・・まだ“恋”とか してるの?)
(阿吽って感じでこなれた夫婦のように思ってたけど、ほんとはまだ 少年と少女のようなときめきとか続いてる―――とか)
そんなことをくるくる考え出したら、操自身も顔が 赤くなってくる。
「・・・わたしは」
しかしそんな操に気づかず、巴は視線を庭へと向けた。
「わたしは、自分の本当の気持ちに気付いたとき決めたんです。
 髪を振り乱して、地べたに這い蹲(つくば)って、泥まみれになっても――― けしてあの人から離れないって」
なんて凄まじい想いだろう、と操は息を呑んだ。
それは勝手な執着でもあり。
けれどそれは底無しに深い、恋情だ。
・・・そうしてそれらを押し込めて、 彼女は剣心へ微笑(わら)ってきたのだろうか。
操は乾いた唇を舐めて、呟く。
「いいのか、な?」
巴はその囁きに気付いて視線を操に戻した。
「あたしも、傍で笑ってて・・・いいのかな?」
さわ、と生温い風が二人の長い髪を揺らす。
ほんのりと、甘酸っぱい香が流れた。
「・・・いいと、思いますよ?」
綺麗に綺麗に微笑みながら。
巴がゆっくりと頷く。
その一連の動作があまりに幻想的で、操はぼんやりと ただ巴を見つめるばかりだった。
「昔―――」
さらりと衣擦れの音がして。
巴が立ち上がる。
「昔、幼い恋をしていました」
「え・・・?」
「大好きで、大切で、だからいつもいつも思ってました。
 迷惑をかけないように、煩わしくさせないように、困らせないように、って」

それは、本当に“少女の恋”だった――――――

「あの、それは・・・」
操が掠れた声で問う。
「似てますか?――――今のあなたに」
「・・・っ」
どくどくと脈打つ音が、操の鼓膜の奥で大きくなった。
「その恋の顛末を、後悔しなくなるまで随分な時間が必要でした。
 だけれども、綺麗で優しくて忘れられない恋です」
操へ振り向いた巴は、にっこりと微笑むと
「わたしの話はこれでおしまいです」
そう云って小さく頭を下げる。
「巴さん、あたし・・・っ!」
「四乃森さんは気付いています。
 『華を添える』ということが、ご自分を押し殺すことではないということに。
 ですから操さん、あとはあなた次第かもしれません」
「・・・・・・」
かくんと操の力が抜ける。
巴はそのままゆっくりと操の部屋を去っていった。
残ったのは甘酸っぱい彼女の残り香だけ。
(あたし・・・次第・・・?)
どういうことなのだろう?
操は必死で冷静になろうとした。
(巴さんと、緋村)
(巴さんの、昔の恋)
(あたしと、蒼紫さま)
(あたしの・・・恋)
くるくると言葉が頭の中を巡る。
「ええい、やめやめ!!」
不意に操は声を張り上げた。
巴は、自分が蒼紫の傍に居てもいいと云った。
そう、いいのだ。
あたしは蒼紫さまの、傍に居る。
あたしの、想いと意地と、願いと望みと。

「・・・よし」

ぐっと拳を固く握りしめ。
操は力強く立ち上がった。
(あたしは、蒼紫さまが好き)
(ちっちゃい頃からずっとずっと追いかけて)
(それで)
「“この手”に捕まえるんだから!」
くるん、と身を翻し、操はさっそく禅寺に居る蒼紫に 会いに行こうと思い立つ。
そうして巴の残した言葉が、漸く呑み込めたような気がした。
「髪を振り乱して、地べたに這い蹲(つくば)って、 泥まみれになっても・・・か」
本当に理解できるのは、もっと先のような気がするけれど。
今はそれが、自分を奮い立たせる言葉になる。

「うん、がんばる・・・大好きだもん」





陽がやや傾きかけた頃、剣心は葵屋に帰ってきた。
お近が「お帰りやす」と声をかける。
そのやり取りが聞こえたのか、巴が中から顔を見せた。
「お帰りなさいませ」
「・・・ただいま」
巴の言葉に、剣心は嬉しそうに微笑む。
しかし次の瞬間には、暗鬱とした表情を見せた。
「ああ、やっと落ち着けるって感じだよ・・・」
「また比古さまに苛められたんですか?」
くすくすと笑いながら、巴は冷たく絞った手拭いを渡す。
ありがとう、と答え剣心はゆっくりと腰を下ろした。
「あんまりいろいろ云われて、正直細かなところは覚えてないよ。
 ただ志々雄のこととか、奥義のこととかでは話し込んだかな」
「気のせいか隈(くま)が出来てらっしゃるようですね・・・」
その労(ねぎら)いに、剣心は甘えが出たのか。
情けない声をあげて巴に同意を求めた。
「師匠を相手にしたら、男は誰だって憔悴しきって隈が出来ると思うよ・・・」
「あらあら、“男は”ですか?」
はああ、と深いため息をついて。
剣心は過ぎ去った日々を思い出しているようだ。
「女には、甘いんだ・・・現に巴には理解ある大人だっただろ?」
「ふふふ、そうでしたね」
和やかな会話を続けながら、 剣心と巴は自分たちの借りている部屋へと向かう。
だがふと剣心が驚いたように立ち止まった。
「・・・蒼紫がこんな早い時間に帰ってきてるのか」
巴がその言葉にやや驚いたように瞠目する。
「本当ですか?」
「ああ、この気配・・・おそらく」
「そうですか。
 きっと操さんが関係してるんでしょう―――」
ぴくりと剣心の右眉が跳ねた。
ゆっくりと巴の方へ向き直る。
「なにかあった?巴」
「いえ、それほどのことは・・・」
まだ剣心は訊き足りない表情(かお)をしたが、 近いであろう蒼紫の気配に遠慮してそのまま歩き出した。
そして巴はその後ろをついて行く。
(巴が直接蒼紫に何か云ったのか?
 いやそれは考えにくい)
歩を進めながら、剣心は様々なことを思案した。
(けれど蒼紫からっていうのもなあ・・・)
「いつまでぼんやりなさってるんですか?」
突然巴が袖を引っ張る。
気付けば目的の部屋まで帰ってきていた。
「あ、ああ、ごめん」
「・・・四乃森さんのことが気にかかりますか?」
やや目を見開いて、剣心は困ったように眉を下げる。
「何かした?巴」
「そんな大げさなことではありませんが――― 操さんと話しました」
ふわりと笑って巴は膝を揃えて座った。
剣心も倣うようにして、彼女の前にあぐらを掻く。
「操殿に・・・なるほど。
 あの蒼紫がこうもすぐに動いたのが、不思議で仕方なかったけれど ・・・得心がいったよ」
「あの人は、とても操さんを大事に思ってらっしゃるんですね」
「うん、そうだね―――今の蒼紫を動かせるのは確かに操殿しか居ないだろう。
 君はちゃんとわかってたんだろう?」
穏やかに微笑みながら。
巴は小さく頷いた。
肩を竦めて剣心は頬を掻く。
「時々君は、大胆に行動(うご)く。
 あんまり冷や冷やさせないでほしいな。
 ・・・操殿が、君が背を押したことで反対に 怖じ気づいたらどうするんだ?」
「はい、すみませんでした・・・でも」
「でも?」
巴は困ったように眉を寄せるが、すぐに笑みを取り戻すと 思い切ったように云った。
「彼女が・・・操さんが“今の”操さんのうちに、と思ったんです」
「“今の”・・・?」
剣心の色の薄い瞳が揺れた。
巴はその視線を受けて小さく頷くと、彼の頬のまだ赤い 傷跡に、そっと自分の指先を触れさせる。
「操さんが―――本当の闇を知らないうちに」
剣心は愛しげに己の傷を滑る指を、 その左手でそっと包む。
「君と俺のように、ならないうちに?」
「はい・・・」
巴はそのまま重ねられた互いの手に、ゆっくりと頬を寄せた。

剣心の頬の十字傷は、巴自身の傷でもある。
将来消えるかもしれないし、ずっと残るかもしれない。
ただ。
巴にはそれが消えてしまうことは、到底想像がつかなかった。

(消えてしまえばいい)
(消えないで)

相反する感情が、同時に叫ぶ。
剣心が、ゆっくりと巴の肩を抱き寄せた。
ふたりは、互いの想いを知っている。
巴はそのかんばせを彼の胸に沈めた。
ぎゅ、とその襟元を掴む。
「・・・わたしたちは」
互いが、近すぎて。
「きっと家族には、なれませんね」
「うん」
「だけれど、多分一番近い存在でずっと居られる」
「・・・うん」
ぐぐ、と剣心の巴を抱き締める腕の力が強くなった。
その拘束の強さに。
巴は幸せそうに瞳を閉じる。
剣心がその額に、唇をひとつ落とした。
「俺は、これでいい。
 俺は・・・“君”だけが、いい」
「―――はい」

幸せだと、断言できる。
現在(いま)のふたりの有り様が、自分たちを罰するものであるかも しれなくても。
彼らは、幸せだ。

「操殿のあの前向きな明るさは、蒼紫を救うだろう」
剣心が巴の髪を指で掬いながら。
ぽつりと呟く。
ただそれは、蒼紫が歳を取り心身共に疲れた時どうなるかという 懸念もあった。
(―――その傷は癒えない)
(ただかさぶたとなって隠れるだけだ)
(いつかこの先、また傷が膿むかもしれない)
(消滅させられる傷みなら)
(もっともっと俺は・・・)
知らず剣心は拳を固くする。
巴はそっとその拳に己が手を添えた。
「わたしたちは、力及ばずとも願うことはできます」
落ち着いた巴の声音に、剣心の拳が緩む。
いつの間にか入っていた肩の力を抜いて、 剣心は再度巴を抱き締めた。
彼女の、細い肢体が。
何にもまして剣心にとっての支えだ。
「・・・そう、だね・・・巴の云うとおりだ」

固く固く絡ませた互いの指。
祈るは何を。
祈るは誰がために。

やがて剣心は、巴の唇を啄み、 巴は剣心の赤毛をもてあそんだ。
静かに更けてゆく夜の闇が。
今の二人にはとても心地よかった。
「・・・東京へ、帰ってもいいのでしょうか?」
やがてぽつりと巴が問うた。
今度は剣心が巴の黒髪を指先で絡ませて遊んでいたが、 彼女のその言葉に剣心は柔らかく微笑んだ。
「そうだね、あそこは居心地がよかった」
「はい」
「・・・出来れば、あの壁の薄い長屋に戻りたいかな」
くすくすとふたりで笑い合う。
しかしふたりに仕事を伝えるのは、主に斎藤の役目だ。
ここしばらく事後処理に忙しいのか、ぱったり姿を現さない。
剣心は別段会わなくても良いが、 それでも必要であれば顔を会わさねばならない男を、ちらりと思い浮かべた。
「ああ、そうか」
「どうしました?」
「斎藤のやつ、俺ほどじゃなくともかなりの怪我を負ってたらしいから、 その姿を見せたくないんだな」
「・・・」
「絶対だ、確約する。
 今度アイツが目の前に現れたら・・・きっと怪我を治してるぞ」
心底厭そうに云うが、実は斎藤のことを一番解っているのは剣心なのだろう。
込み上げる笑いを抑えて、巴は顔を上げて剣心の肩を両腕で抱きしめた。
「斎藤さんは時尾さんの前でも強がるそうですよ?
 時尾さんが全部お見通しなのも承知で。
 ・・・あなたも、斎藤さんも、そんなところはよく似ています」
「そう、かな・・・」
剣心は思い切り眉根を寄せて、不愉快そうに唇を突き出す。
それがまるで子どもの仕草で。
巴は今度こそくすくすと笑いを零した。
「そんなに笑うなよ、巴」
「ごめんなさい、でもあなたのそんなところ・・・ 出逢ったときから変わっていません」
「俺にはわからないけどな。
 むしろ君と出逢ってから随分―――変わったと思う」
剣心が、愛おしそうに右手で巴の頬を撫でた。
少し頬を赤らめて。
巴は自分に触れる、剣心の指先を心地よく受け止めている。

「帰ろうか・・・東京へ」
ふと剣心が思いついたように呟いた。
「いいのですか?」
瞳を動かさないまま、耳だけで聞いた巴が訊ねる。
「斎藤も俺の前に現れないし、多少の休暇はくれるつもりなんだろう」
「・・・そうですね」
ころころと巴が喉で笑った。
剣心はずうっと巴の頬に指を這わせたままだ。
「帰ろう」
剣心が再度呟く。
「はい」
そう答えると巴は抱きしめる腕の力を強くした。

あなたと居られるなら。
どこでも良い・・・何処へだってついてゆく。
けれど。
出来るならあの賑やかだった場所へ戻りたい。
いつか、それぞれが自分の居場所を見いだす時までの、 短い間ではあるけれど。

「あ、」
巴がいきなり何かを思い出したかのように、顔を上げた。
「なに?」
怪訝そうに剣心が巴の顔をのぞき込む。
「京都を発つのなら、せめて比古さまに挨拶をしておかないと・・・」
「いいから」
「でも」
「いいから」
「お願いしますってお別れしたんです、ありがとうございましたって」
「いいから」
「・・・・・・・」
はあ。
巴は嘆息した。
嫌い合ってるわけでもなく、むしろ信頼関係は厚いというのに、 会うとなると心底それを厭う。
全く困った弟子だ。
すう、と背筋を伸ばすと巴はぴしゃりと云い放った。
「ご挨拶に伺います、いいですね」

その揺るぎない声に。
剣心がそれ以上反論できなかったのは、致し方ないだろう―――