見上げれば青い空が広がっていた。
そのままやや斜め右下に視線を移せば。
剣心が、彼の師と修行していた山が視界に入る。
その山から驚くほど近い地点に、 巴と縁は居たのである。

アイツは葵屋へ戻った

そう縁から聞かされたのは昨日のことだ。
縁は簡潔に、しかし要点を逃さず巴に事の次第を 告げていた。
志々雄の京都大火を未然に防いだこと。
蒼紫と翁のこと。
全てを知ってしまった、操のこと。
・・・操に剣心が、“約束した”こと。
そして。

「比叡、山」

そうして剣心たちは。
決着をつけるべく、志々雄の元へ向かう。

(・・・あなた・・・)

消せない不安が、ある。
巴は右手をぐっと心の臓のうえに押し当てた。
剣心は奥義を手に入れたのだろう。
でなくては葵屋には戻らないはずだ。
(あの人は強い)
それは確かだ。
(けれど・・・相手もおそらく)
相応に強い。
信念が違えど、剣心をここまで追いつめたのだから。

「十本刀」
不意に背中から聞こえた声に、巴は振り向いた。
「志々雄の手駒たちだ、なかなか強力だぞ」
縁がゆっくりと彼女に近づく。
さらさらと風が巴の髪を揺らした。
「十本、刀・・・」
「アイツにも二人ほど居るらしいが、数の上では不利だな」
馬鹿にしたように縁が肩を竦めてみせたが、 巴はその態度の中に彼が自分を慰めてくれているのだと 感じる。
「・・・相変わらずね」
困ったように微笑めば、縁はぴくりと片眉を跳ねた。
「俺のことを何もかもお見通しって意味で笑ったのなら、違うぞ。
 今回は圧倒的にアイツが危険だって云ってるんだ」
普段の倍の早さでそうしゃべりながら、縁はそれに気づいてはいない。
巴はしかしもうそれを面に出す事はせずに、 縁の右手をそっと取った。
「あなたは、力を貸してくれる?縁」
姉の手は昔と変わらず細くて白い。
けれど指先は少し荒れていて。
それが返って彼女が 米を研ぎ、野菜を洗う、そんな生活感を強調していた。
「・・・俺は姉さんを守る、それだけだ」
「―――・・・ありがとう」

巴は綺麗に笑う。
彼女を守るということは、何よりも剣心にとっての 力となる。
そうわかってはいても。
縁の願いは、最愛の姉の幸せだから。
そして、姉の最大の幸福は・・・・・・

ち、と舌打ちして、縁は目をそらした。
巴は背がすっかり高くなった弟を、 眩しげに見上げる。
(本当に、“大きく”なったのね・・・)

ゆっくりと陽が高くなる。
今は隠れ家でもある小屋へ戻ろうと縁が一歩踏み出した。
「・・・・・・」
しかしそのまま、縁の足は動かない。
どうしたの、と巴が声をかけようとして、 ぐっとそれを堪えた。
ふたり以外の、人影に気づいたからだ。
「誰だ?」
縁が低く問いかけた。
しかしそれほど緊迫したものが感じられないのは、 相手の無防備な風体の為だろう。
「すみません、お姿を拝見するだけでよかったんですが、 見つかってしまいましたね」
かさかさ、と朽ち葉を踏みながら“彼”は全身を現した。
・・・邪気のない笑顔で、まだ少年と言いあらわしても遜色ない。
(殺気はない)
(だが隙もない)
妙だ、その思いが縁に警戒を解かせない。
巴も“彼”の笑顔に、どこかしら違和感を覚えている。
“彼”はぺこりと頭を下げ、また微笑んだ。
「初めまして、瀬田宗次郎といいます」
巴は、瀬田と名乗った少年の顔をじっと見る。
にこにこと笑顔を崩さず、そよとした朝の風に吹かれながら、 彼は巴の視線に気づいた。
「あれ?僕どこかおかしいですか?」
「いいえ・・・そうではなくて」
(そうじゃない)
(なにか)
(ひっかかる)
その瞬間、巴は息を呑んだ。
この掴み所のない雰囲気は。

「十本刀・・・!」

縁の背が、強ばった。
当の本人は目を丸くして驚いている。
「びっくりしました。
 どうして僕のことをご存じなんですか?」
宗次郎はそこでああ、と手を叩いた。
「あの人から聞いたんでしょう、ね?“緋村”巴さん?」
こくり、と巴は頷く。
殺気も剣気も持ち合わさない『天剣』の宗次郎――― そう剣心が語ったことを巴ははっきりと思い出した。
予想外だった、というかのように宗次郎は眉を下げ。
はああ、とため息をつく。
困ったなあ、そんな言葉を小さく呟いて。
「・・・どうするつもりだ?」
縁がぎらぎらした瞳を宗次郎へ向けた。
刀に触れてはいないが、目にもとまらぬ早さで 宗次郎へ切っ先を向けるであろうことは想像に難くない。
だが宗次郎はそれを歯牙にもかけず、あははと笑った。
「別に。
 何も考えてません。
 だから、何もしませんよ」
「・・・」
やりにくい相手なのだろう、縁が眉根を寄せて舌打ちする。
事実、宗次郎は何をするつもりもなかった。
抜刀斎を監視するうちに、偶然巴の居所を知ってしまったに過ぎない。
彼女のことは、十本刀はおろか志々雄にすら報告はしていなかった。
ただ、興味があっただけだ。
人斬抜刀斎と呼ばれた男をひとりの緋村剣心へと・・・変えた女に。
だから。
「顔とか、見てみたかっただけですから」
宗次郎のその言葉に偽りはない。
しかし縁がそれを、鵜呑みにするはずもなく。
指一本動かしたわけではないが、弟が眼前の青年へと向ける 殺意に巴はすぐに気づいた。
「縁・・・」
そっと手を伸ばして、弟の上腕に触れる。
縁が視線だけで振り向けば、小さく巴は首を 横に振った。
「―――彼は、本当に何もする気がないわ」
反論しようと縁が口を開こうとする。
しかし賢(さと)い彼は巴の云っていることが 正しいと解っていたのだろう。
縁は結局何も云わず、殺気も霧散した。
宗次郎といえば、そんなふたりのやり取りを意にも介さず ただにこにこと突っ立っている。
「姉さんの顔も見たことだし、もう用はないだろう?」
いらいらと縁が口を開いた。
へらりと笑い返し、宗次郎は右手で頭を掻く。
「ええまあ、そうですね。
 でもこうなったらちょっとお話とか・・・」
縁はなおも不機嫌な表情(かお)をしていたが、 巴はにこやかに会話を続ける宗次郎をじっと見つめた。
「・・・わたしに、なんのお話ですか?」
穏やかな声音で問いながら、巴はゆっくりと宗次郎に近づいてゆく。
縁はそれを容認しながらも、緊張の糸を弛めることはなかった。
「あれ?そういえば話したい事なんて考えてませんでした」
その場にそぐわない明るい声が響く。
「なら帰れ」
間髪入れずに縁が突っ込む。
「やだなあ、そんなせっかちな」
「じゃあさっさと質問しろ」
「寺子屋ですか、ここ」
「・・・ガキめ」
「まあ、実際あなたより若いですし」
「っ・・・っ!」
「あらあら、埒があかないことばかりを」
口をぱくぱくし始めた縁を、巴は素早く背後に回し にこりと宗次郎に微笑んだ。
微笑まれた宗次郎は、目をパチパチとさせ 嬉しそうに喉を鳴らすように笑う。
「さすがですねえ、冷静で頭の回転も速い。
 美人だし文句ないや」
空々しい科白に巴は軽く肩を震わせた。
(この子、何かが“からっぽ”みたいだわ・・・)

「だけど、どうして」

突然の背後の気配に、縁は慌てて振り向く。
今さっき自分たちの前にいた宗次郎が、 いつの間にか縁の背中からやや離れたところに立っている。
巴は何が起きたのかわからなかったのだろう。
大きく目を見開いたまま、ゆっくりと縁とそして、 宗次郎の方へ振り返った。

「―――どうして抜刀斎は人を斬らなくなったのかな?」

(こいつ・・・!)
不意を突かれたとはいえ、 縁ですら捉えられなかった宗次郎の移動。
それでも縁が不用意に動かなかったのは、 巴が視線で弟を抑えたからだ。
静かに息を吸い込み、 巴は宗次郎の正面に向き直った。
「他人(ひと)からの答であなたは満足、するの?」
巴が、問いかける。
「あなたが本当に知りたいのは、自分の答、なのでは?」
「・・・どういうことですか」
宗次郎は相変わらず微笑みながら、首を小さく傾げた。
「僕は、知りたいと思った。
 不思議で仕方なかったから。
 だけど答を教えてくれないのなら、もう帰りますね」
一気にそう語り、宗次郎はぺこりと会釈する。
巴はまだ何か云いたげではあったが、 そのままただじっと宗次郎を見つめていた。
「あ、志々雄さんにはこのこと内緒にしてくださいね。
 勝手なことしたって怒られてしまいますから」
去り際にそう云い残し、宗次郎は瞬く間に木々の中に消えてゆく。
そして巴は暫し、その背中が消えた先を見続けていた。

(答が知りたい、というのは)
(あなたが答を探している、ということ)

それはすなわち、迷いだ。
あの少年は、おそらく“強い”けれども“迷う”時に、きっと。
(崩れるかも、しれないわ―――)

縁はち、と苛立たしげに舌打ちして、巴へ顔だけを向けた。
「・・・志々雄真実に内緒にしてくれ、だと。
 つまりここで姉さんと遭遇したことは、志々雄に報告しないってことか」
「ええ・・・そのようね。
 おそらく志々雄真実にとってわたしは“ついで”なんだわ」
やや眉根を寄せただけであったが、縁も同意だったのだろう。
だから、宗次郎を追うことをしなかったのだ。
「ある意味、怖いな。
 志々雄はその手で、緋村を抹殺すると決めてるんだ。
 ―――緋村を最大の障害とみたか」
「・・・縁」
くるりと縁の前に回り込むと、巴は彼の手を強く握った。
「もしも葵屋が襲われたら・・・お願い」
僅かに目を瞠りながら、それでも落ち着いた声音で縁は応える。
「あそこは障害になると、志々雄が判断すると?」
こくりと、巴が頷く。
彼女の脳裏に薫や弥彦、操たちの顔が浮かんだ。
関係ない奴らのことまで気が回るかと 縁は心の奥でぼやくが、 姉の達(たっ)ての願いを無下にはできない。
「ちょっとでいいの。
 “彼ら”も強いのだから・・・」
はああ。
掌を合わせて、自分に頭を下げる姉に。
これ見よがしに縁は嘆息した。
「もういい、わかったよ」
最初から負けは見えている。
自分はきっと永遠に姉には敵わないのだから。
「縁・・・ありがとう」
巴はにこりと微笑みを縁へ向けた。
がしがしと髪を掻き回しながら、 それでも縁は姉の笑顔を見れば気分が高揚する。

「ほんの少し―――だからな」

約束通り、縁は葵屋へ向かった。
ぎりぎりまで加勢せず、加勢してもけして敵にも味方にも 自分の存在を知られることはなく。
故に比古が出現するまで葵屋はかなりの損害を被ってしまったわけだが、 それはまた別の話になる。





空は、満天の星。

よく比古に怒られては落ち込んで。
こっそりこうして屋根の上に上ったものだ。

剣心は明(さや)かな星を見上げ、そして脳裏に妻の面影を浮かべた。
彼女は。
今頃どうしているだろう?
同じ星を、見上げているのだろうか。

「・・・剣心」
いろいろなことを考えていると、ふいに後ろから 薫が声をかけた。
にこりと振り返り、剣心は少し腰をずらす。
慣れたようにひょいと薫は隣に腰掛けた。
「明日は大変な日だって云うのに、もう寝ないの?」
「充分睡眠は取ったさ」
「そう・・・」
顔をうつむき加減にして、薫はどうしようかと目を泳がす。
「どうかしたのか?薫殿」
「うん、あのね・・・巴さんのことなんだけど」
ああ、と剣心は頷く。
そういえば薫たちに縁のことを伝えていなかった。
薫は云いにくそうに左右の手の指を絡ませていたが、 やがて顔を上げるとはっきりと問う。
「絶対安心な人に預けたって、云ったわよね?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「ああ、大丈夫。
 彼女の弟が、彼女を守ってくれてる」
ようやく得心がいったのだろう、薫は 安心したかのように破顔した。
「そっか、なら良かったわ。
 剣心が帰ってきたのに、姿を見せないから てっきり面倒なことが起きたんじゃないかって、 余計な心配してたの」
「・・・大丈夫だよ」
剣心も笑顔で応える。
縁が巴を守りきることは、剣心がよく知っていた。
「それにしても巴さんに弟が居たなんて。
 ね、やっぱ巴さんに似て優しくてかっこいい人?」
「・・・・・・・・」
「剣心?」
いきなり剣心が無表情になったことに、薫は首を傾げた。
「剣心ったら」
やや力を込めて剣心の肩を揺する。
しかし反応がない。
(やだ、もしかして)

巴さんの弟の話は鬼門?

だからこれまで彼の口から、巴の弟の話は 出てこなかったのだ。
剣心はおそらく無意識に避けていたのだろうから。
「あ、ああ、そういえばね」
薫は賢(さと)くも“巴の弟”の話題に終止符を 打つことにした。
「あのね、操ちゃんの本当の望みを、救ってくれてありがとう」
「・・・え?」
やや面食らって、剣心は目を瞬かせる。
薫は膝を抱えるようにしてはにかんだ。
「うん、だってね、最初は蒼紫のことを切り捨てようと してたじゃない。
 京都御庭番衆の長として。
 だけどあれ、どうみても嘘だったから」
薫は剣心の相づちを待たずに続ける。
「わたしもね、わかってたんだけど、みんなもね、知ってたんだけど、 なあんにも言ってあげられなくて。
 自分が情けなかったんだけど、剣心がちゃんとわかってくれてたから ・・・嬉しかった」
「俺は、ただ自分がそうしたかっただけで・・・」
戸惑うように答えれば、薫は小さく首を振る。
「ううん、あれは剣心でないとだめだったわ。
 ちゃんとその手で、蒼紫を操ちゃんの元に 連れてきてくれる人じゃないと、きっと操ちゃんは 泣けなかったと思う」
「・・・」
やや照れたように剣心は薄く笑うと肩を竦めた。
「じゃ、責任重大だ」
「ふふ、そうだね。
 だからね、ちゃんと帰ってきて―――ね?」

薫は願っている。
これが終わったら、またみんなで東京に居られたらいい。
剣心と巴さんと、弥彦と左之助と恵さんと。
それからそれから・・・・・・

そんなことを願っていると、また別の声が彼らに加わった。
「こんな屋根の上でなぁにやってんだよ。
 これから大変だってのに」
ぶっきらぼうなその声に、薫はふふっと小さく笑う。
「オコサマはまだ寝てなきゃ、弥彦」
「オコサマゆーなっ!」
弥彦はぷくりと頬を膨らませ、怒鳴り返した。
そしてすぐ軽く咳払いをすると「起きてるの、俺だけじゃねえし」と 視線を下に向ける。
そこには、操を始めとした、葵屋の面々が顔を揃えていた。
なんだか嬉しくなって、薫が顔を綻ばせる。
「待ってっからな、帰ってくるの」
薫の隣に弥彦がどかりと腰を下ろした。
「そう、だね。
 待ってる・・・剣心と巴さんを」
薫が願いを込めてそう呟いく。

朝陽が、闇を追い払い始めた。





きつめの香の油が、鼻先をくすぐった。
(あ、由美さんだ)
かたかたと床を鳴らしながら、女が大声を上げた。
「ボウヤ!この大事なときにどこをうろついてたのよっ!」
勝ち気な美しさが、怒りの表情と相俟って迫力がある。
「・・・お団子が食べたくなったので」
宗次郎は笑いながら、しれっと答えた。
「だ、だんご・・・?」
由美はいかった肩をがくりと下げる。
(云いたくないってわけ?
 それともほんとに団子?)
一辺倒の宗次郎の笑顔からでは、由美とてその真偽が 判断できない。
ふっと眉を下げて由美は仕方なく笑い返した。
「・・・もういいわ、あんたのことだから宇水のように 警戒しなくていいし」
「美味しかったですよ、団子。
 今度由美さんにも買ってきますね」
「・・・みたらしにしてちょうだい」
「はいはい」
宗次郎は由美の横顔を見ながら、密かに出会った巴のことを 思い出す。
(どっちも綺麗なんだけど、こんなに違うなんて)
男の野望を全て肯定する女と。
男の人生を導く女と。

(だけど)
(こんなに違うのに、彼女たちは似てる気がする)

何故なのかは現在(いま)の宗次郎にはわからない。
もしかしたら一生わからないのかもしれない。
だが、志々雄を肯定するのは、自分も由美と同じはずなのに。
(どこか、僕は由美さんとは違う)
・・・どうしてだろう?と宗次郎は由美の背中をぼんやり 見つめながら、その妙な違和感を拭えない。
(僕も、志々雄さんに命を預けてるのに)

「由美さんには敵わない気がするなあ」
小さく漏れた声に、由美が反応して振り返った。
「ボウヤ、何か云った?」
にこり、と宗次郎は笑って首を振る。
「いいえ、何も」

そうだ、自分は。
考えるなんてことをしないで。
志々雄さんに従えばいい―――





暮れてゆく陽を見ながら。
巴は不安に襲われる。
明日は決戦の日だ。
剣心は、無事に自分の元へ戻ってくるのだろうか?
「・・・会いたい」
本当は。
離れたくなどなかったのだから。
「何してるんだ?」
後ろから声をかけられて、巴は我に返った。
そうして止まっていた手をまた動かし始める。
「ああ、ごめんなさい。
 ・・・掃除をしてたんだけど、ぼーっとしちゃって」
「ふーん・・・」
縁は小屋の前で興味なさそうに相づちを打った。
こんなところを掃除しても意味はない。
ただ、巴はじっとしていられなかったのだろう。

(全くアイツとこんな生活を何年も送っているのに、 姉さんは慣れないんだな)

「それよりも飯を頼む」
「え?」
「明日は早いからな」
「縁・・・」
戸惑うように名前を呼び、そして彼の真意に気づいて 巴は柔らかく微笑んだ。
(明日、葵屋へ行ってくれるんだわ)
彼にしてみれば迷惑な頼み事であっただろうに。
最終的には巴の望みを聞いてくれる、優しい弟なのだ。
(この優しさを、緋村にも少しあげればいいのに)
弟と夫の仲の悪さを思い出し、巴はそっとため息をつく。
あ、俺沢庵嫌いだから、と縁が付け足しながら。
面倒くさそうにさっさと小屋へ入った。
「・・・わかってるわ」
口下手な弟に対して、巴は苦笑しながら後に続く。
そういえば、昔の自分は言葉が足りなかった。
大事なときに、必要なときに、云えなかった。
そんなことを思い出して、巴は縁の腕を慌てて掴む。
「姉さん?」
「大好きよ、縁」
「・・・な、なっ」
「本当に、感謝してる・・・ありがとう」
「お、俺はっ!べ、別に・・・!」
どう返せばいいのか混乱している縁を、 久々に可愛いと思いつつ。
巴は夕餉の支度にかかった。
縁はがっくりと肩を落としながら、床に腰を下ろす。
(一時期鳴りを潜めてたけど、俺を脱力させるのが 上手いよな・・・姉さん・・・・)






「それじゃあちょっと行ってきます」
いつもの笑みを浮かべながら、宗次郎は 部屋を後にした。
(強ければ生き、弱ければ死ぬ)
呪文のように反芻する言葉。
(強ければ)
それだけで―――――

“あなたが本当に知りたいのは”
“自分の答、なのでは?”

あれ?
これ誰の言葉だったっけ?

“あなたが本当に・・・”

答はもう見つけた。
志々雄さんが、教えてくれた。
(四乃森さんも安慈さんも強かったけど)
だけど、彼らはきっと油断したんだ。
彼らが、抜刀斎を甘く見たとは宗次郎は思ってはいない。
彼は無意識に避けていたのだけれど、宗次郎が安慈や蒼紫に 感じていたものはまさしく“迷い”の類であった。

(僕は強い)
(だから負けない)

『無間乃間』に足を踏み入れる。
抜刀斎と呼ばれた男と、再び相まみえること。
それが少し嬉しくも思う。
これで、決着がつくからだ―――彼と、僕の“真実”が。

(強ければ生き)
(そして)
(弱ければ・・・)

それが摂理。
僕の。


そして、それは崩れる。



「・・・安慈さんはどうするんですか?」
「出頭して、罪を、償う」
「罪?
 安慈さん、悪いことしました?」

安慈はゆっくりと振り向くと、宗次郎の頭をぽんと一度だけ その無骨な手を置いた。
足下には未だ目覚めぬ方治がいる。

「悪と、罪は、同じではない」

きょとんとした宗次郎へ変わらぬ表情を向けたまま、 安慈は空へ上る白煙へ視線を移した。
釣られるように、宗次郎も空を見る。
「・・・志々雄さん・・・由美さん・・・」
(弱肉強食の、本当の意味を)
(僕はわかってなかったのかな・・・)

方治が目を覚まし、慟哭し。
それを宗次郎はどこか冷静に見つめていた。
そうして、やはり旅に出ると云い残し。
安慈と方治をそのままにして、ぶらりと歩き出す。

(真実)
(僕の)
(・・・ほんとう)

志々雄から旅立ち、二本の足で歩き、 自分だけの“答”を、探し続ける。
永遠に見つからないかもしれないけれど。
それはそれで。

「―――いいんじゃ、ないかな」





酷く身体が重たかった。
それでもずっとどこかで、自分を呼ぶ声。
たくさんの、声。

(剣心)
(剣心)
(緋村)
(剣さん)
(・・・あなた)

「!!」
一気に記憶が流れた。
びりびりと首筋が、痺れる。
あれほど重かった目蓋が、何かに弾かれたように 開いた。
そうして、手のひらにひんやりとした心地よさが触れる。
ああ、これは。
この優しい手を、自分はよく知っている。

「・・・と、もえ?」

ようやくはっきりとした視界で捉えたのは。
一番会いたかった女性(ひと)の顔。

「はい」

巴は嬉しそうな、それでいて泣きそうな、そんな表情で。
剣心に柔らかく微笑んだ。
「巴・・・」
己の手を包む、彼女の指をぐっと握り込む。
にこりと笑って、再度彼女の名を呼んだ。
指先が意志通りに動くことに、やや巴も安堵したようだ。
「ごめん、心配かけた・・・」
「いいえ、無事にこうして戻ってきてくれたんですから、 もう充分です」
巴は握りしめた剣心の手を、そっと自分の頬に寄せる。
「傷、痛みますか?」
「いや・・・それほど。
 薬が効いてるのかな?」
「恵さんが、処置されたんですよ」
「え・・・?」
彼女は確か東京に居るはずなのに。
「無理を云ってこちらへ来ていただきました」
剣心の意をくみ取り、巴はそう答えた。
剣心は暫し目を丸くしていたが、 やがてくたりと布団の上で脱力する。
「ありがとう・・・正直助かった」
「そうですよ、あんまり心配、させないで くださいな」
流れるような仕草で、巴は剣心の寝床を整えた。
こうやって帰り着く処に、巴が居てくれることに。
剣心はとてつもなく嬉しく思う。
「うん、ありがとう」
「もう少し、眠った方がいいですよ」
「―――じゃあ眠るまで、ここにいて欲しいな」
巴はそっと指で剣心の髪を梳いた。
「いいですよ」
ふわりと剣心は微笑むと、またすぐに寝息を立てる。
ゆっくり、ゆっくり、その傷んだ髪を梳きながら。
巴は泣きそうな表情になった。
「ほんとに、よかった・・・」



「剣さん、気づいたんですって」
恵が薫の居る部屋を覗いてそう声をかける。
ちょうど薫は弥彦の食事の補助をしていたところだったので、 驚いて箸を落としてしまった。
「おい、気をつけろよ・・・」
「え?あ、ごめんなさい!」
弥彦はやれやれとため息をついた。
「葵屋に辿り着いてすぐに恵の治療を受けたんだ。
 しっかり回復するに決まってらあ」
「・・・うん、そうよね」
どことなく意気消沈している薫を、弥彦は訝しく重い、 ちらと恵の方を見る。
恵も弥彦と同じ思いなのか、小さく頷き返した。
「剣さんのとこ、行かないの?」
恵は今度は弥彦の傷の様子を看ながら、 薫に問う。
薫は「うん・・・」とまた歯切れの悪い言葉しか呟かなかった。
「あらあら、あなたのそれはホント悪い癖ね。
 ぐだぐだ考えてないで、口にしてみたら?」
ぴん、と人差し指で薫の額を小突くと、恵はまだやることが あるからと、さっさと部屋を出て行く。
思いの外痛い額をさすりながら、薫はちらと弥彦を見遣った。
弥彦は不自由そうに焼き魚の身をほぐしながら、 恵と薫の会話には無関心そうだ。
けれど薫はこれまでの経験から、 弥彦がわざとそうしていることに気づいていた。
(ちゃんと、聞いてもらおう)
薫はやっと踏ん切りをつける。
(ちゃんと、自分の感じたことを)
黙々と箸を動かす弥彦の傍らで、 ぽつりぽつりと薫は口を開いた。
「あのね、ほんとに、何でもないことなんだけど」
「なんでもねーなら聞く必要ねえだろ」
「なっ!それはないでしょっ!」
「はいはい、それで?」
「・・・巴さんがここに戻ってきたときに、ね」

―――お願いがあります
―――恵さんを、すぐに呼んでくださいませんか?
―――それと、

「そうして巴さんは、治療に必要な道具なんかを 揃えるように指示したでしょ?」
ぽつりぽつりと薫は言葉を紡ぐ。
「それがね、ちょっとこわかったんだ」
「・・・」
「巴さん、わかってたんだ。
 志々雄相手に、剣心が大怪我すること。
 ううん、もしかしてもっと最悪なことを」
ぎゅっと拳を握りしめ、薫はそこで一旦黙り込んだ。
弥彦はただ、じっと薫を見ているだけだ。
沈黙は、ほんの僅かな間。
薫は震える声で、しかしはっきりと続けた。

「最悪な、ことを」
「覚悟してたんじゃないかって・・・」

当然だろ、と云いかけた弥彦を、遮るように 薫は首を振った。
「だって掛け替えのない人だよ?
 何が何でも・・・望みが薄くてもきっと帰ってくるって、 一生懸命信じてなきゃだめじゃないかって、思うの。
 万が一とかもしもとか、そんなんじゃなくて、まるで 覚悟してるみたいなのって」
わたし、わからない。
そうして薫はまた首を振る。
弥彦はぎこちない動きでぽりぽりと首の後ろを掻いた。
「俺はどう云ったらいいのかわかんねえけど」
俯いた薫の、背に流れる髪が揺れる。
「剣心たちは、ああいう風にして十年ぐらいを生きてきたんだろ?
 薫のさっきの良い方向だけ見て祈るような気持ちとか、充分すぎるくらい ・・・巴さんは」
そこで弥彦はむずむずしたかのように唇を舐めた。
この先を、どんな言葉で綴って良いのか。
つまり彼は、行き詰まってしまったのだ。
(きしょー、うまく云えねえ)
彼は自分がまだ子どもであることに歯噛みした。
目の前の少女は、最初から片思いの相手への葛藤に加えて、 その相手と一蓮托生ともいえる女性の生き様に 圧倒されている。
もっと平易に例えるならば。
自分と“彼女”の差が、悔しいのだろう。
(だって、こいつはまだ)
剣心と巴のような、恋は、知らない。
弥彦は幼かったとはいえ、死活ぎりぎりだった両親を覚えている。

「・・・わたし、いつも、大丈夫って、そう思ってがんばって」
弥彦の焦燥感を知らず、薫はまだ俯いたままだった。
それでもきちんと弥彦の話を聞いていたのだろう。
彼にちゃんと応えようとしていた。
「大丈夫、きっと大丈夫って。
 そう思わないとへこんじゃうし」
「相変わらずオバカね!」
からりと襖が開いて、いきなり恵が戻ってきていた。
恵はせかせかと弥彦に薬包を渡すと「ちゃんと白湯で飲むのよ」と 念を押し。
また薫の方へ振り返って「あなた頭の中、海綿なの?」と唇を釣り上げる。
「な、なによお。
 そりゃ恵さんはオトナだから。
 わたしはどうせ・・・」
ふっと鼻で笑うと、恵は腰をすっと伸ばした。
「誰も、あなたのことを否定なんかしてないのよ・・・オバカさん。
 あなたと彼女は違う人間、それだけのことよ」
え、と顔を上げた薫の視線に。
ちらと笑いかけると恵はまた忙しそうに部屋を出て行く。
あっぱれだ、と弥彦は去りゆく恵の背を見て感嘆した。
彼女は薫を肯定し、さらに巴を肯定したのだ。
そうして剣心と巴は、ふたり離れていても、互いが互いの 帰るべき場所なのだとぼんやり弥彦は理解する。
だから何があっても必ず互いへと辿り着き、きっといつか 共に果てるだろう。
少なくとも彼らはそう思っている。
薫にはそれがまだ一方通行みたいなものだから、 大丈夫と自らを納得させるしかないのだ。
恵の捨て科白にいまだきょとんとした薫の顔を見ながら、 弥彦は手にしていた椀を下ろした。
そしてまだ薫よりも短い腕を精一杯伸ばして、 薫の頭をぽんぽんとはたいく。

「な、なに?急に。
 どうかしたの?」
「俺は、おまえをひとりにしない」
「えっ・・・?」
「俺は、ずっとあの道場に居てやるから」

ほろり
薫の瞳から、一粒涙がこぼれる。
彼女は自分でも驚いたようで、 慌てて手のひらを頬に押し当てた。
「え?やだ、なんで・・・!?」
わたわたと目をこすり、涙の跡を消す。
弥彦は黙ってそれを見ていたが、突然ばん!と 背を薫に叩かれた。
「やだっ違う!
 わたしは、わたしは、ひとりなんて・・・」
「かお、る」
「ひとりなんて、へいっきっ、なんだかっ」
「薫」
「ひっ、ひっく、う・・・うああああん!」
ぎゅううと唇を引き結んだかと思った途端、 薫は堰を切ったように大声で泣き出す。
彼女自身もそれに驚いたが、なかなか止めることはできなかった。
声を上げて泣くなんて、一体どのくらいぶりだっただろう。

弥彦はただじっと。
薫が泣き止むまで―――待ってくれていた。