“抜刀斎”という言葉に一番反応したのは薫だった。
彼女たちはまだ断片的な“抜刀斎”しか知らない。
おそらく比古でさえ、目の当たりにしたことは無いはずだ。
この中で真実(ほんとう)の“抜刀斎”を知っているのは“巴” だけだった。
(“抜刀斎”に出逢い、そうして今“剣心”と共にいるひと・・・)
自分が知っているのは“剣心”だけだ。
この明治の時代を生きる、“剣心”と“巴”だけだ。
(あ、れ・・・?)
薫は思わず顔を伏せた。
目の奥が、熱い。
なんだか視界が揺らいで見える。
ぎし。
弥彦が身体を僅かに動かし、薫と操の間に入った。
(・・・?)
零れそうになるものを必死に堪えて薫が視線だけを上げると、 弥彦の背中が丁度周りの皆から自分を、隠していることに気づいた。
(や、ひこ、ったら)
じわっと別な熱さが込み上げて。
堰き止められない一粒が、ぽろりと頬を伝った。

一方巴は身動ぎもせず、比古を見つめている。
「・・・かまいません」
彼女はやがて、ぽつりとそう口を開いた。
比古が僅かに目を瞠る。
巴はそのままそっと視線を落とした。
「いえ、語弊がありました。
 抜刀斎に戻って欲しいわけではないんです、ただ」
「ただ?」
ほんの僅かの間、巴は沈黙した。
それはその場にいる全ての者に、彼女の頑なな意志を 感じさせる。
やがて巴はか細いが芯の通った声で、答えた。

「・・・わたしにとって、緋村剣心も抜刀斎も、同じ、ですから」

比古はただ、彼女の瞳を直視した。
薫たちはそこで初めて比古の真摯な表情を見る。
そして、彼女たちは比古に畏怖さえ覚えた。
「巴さん・・・あんた」
比古の手からいつの間にか酒器が離れていた。
ぴりぴりとした空気が、その場の者の肌を刺す。
「あんた、“抜刀斎”を受け入れるのか?」
「―――・・・」
言葉はない。
ただ、その強い輝きの瞳が。
比古の言葉を肯定していた。
薫たちはふたりの張り詰めた雰囲気に、 瞬きすら忘れてしまいそうだ。
やがて比古はふーっと大きく息を吐いた。
それはこの場の緊迫感を、相殺させるかのように 気怠いものだった。
「なあ、巴さん」
先ほどまで威圧を放っていた男は、今や ただの気難しい男に変容している。
「はい・・・」
しかし巴は身を固くしたまま、緊張した声音で答えた。
「あんたが受け入れようとしているのは、あんたと、そして 剣心を最も苦しめ続けるものだ」
「はい」
「・・・だがそれは“ふたり”を“繋ぐ”ものだ・・・そう、だな?」

忌むべきもの。
唾棄すべきもの。
狂わせたもの。
―――あれは、そういうものだったか。
否。
あれは。

「そうです・・・“抜刀斎”は、わたしたちふたりの始まりでしたから」

あれは。
ふたりの、強さであり弱さだった。
それぞれの、意志であり誤りだった。
あれは。
一生抱える、『罪』。
そして。
永遠に抱き合う、わたしたちの『始まり』。

「抜刀斎は緋村ではないわけでは、ない。
 だから、否定など出来ないのです」



さわさわと心地よい風が吹き渡る。
その柔らかさは、何故だか巴を思い起こさせた。
「帰るか」
剣心は水のたっぷり入った桶をひょいと持ち上げる。
比古が何を話したいが為に、自分をあの小屋から 追い払ったのか。
ある程度の予測はできるが、半分以上は見当がつかなかった。
(・・・奥義、か)
師の云うことは正しい。
自分は、飛天御剣流の本意には背いてはいないと思うものの、 在り方には背いてしまった。
それなのに、己の意志を貫くために最強の奥義の教えを乞う。
(巴を通して、俺を視るのか)
たぷん、と水が揺れた。
(・・・・・・)
我ながら、それは自分が自分を判断するよりも正しいと思えて、 剣心は苦笑した。



「あんたは、見かけによらず頑迷だな。
 しかも穏やかな海と荒れた海の両方を見ているようだ」
ふ、と鼻先で笑うようにして、比古はそう巴を評した。
そしてその逞しい腕を伸ばすと、 巴の頭にぽんと手を載せる。
それはまるで親が子をあやすような仕草だった。
「・・・しかしあの馬鹿弟子は、あんたのその高みに 追いつけるかな?」
比古の手が離れて、何度目かの酒を求める。
それを眺めながら、にこやかに巴は答えた。
「現在(いま)のわたしは、あの人が居てこそ、ですから。
 彼は、大丈夫です」

「・・・」
薫は自分自身の身体が、がくがくと震えているのに ようやく気づいた。
比古と巴の遣り取りは、全容が見えなくとも 剣心と巴の間にある強烈な何かを、 彼女に伝えてゆく。
まだ十代半ばを過ぎた少女には、剣心と巴の過去が どれ程のものであるかは、計り知れなかった。
(こわい)
今自分の目の前で繰り広げられていることは、 現実なのだろうか?
(こわい、のに惹かれる)
剣心と巴の、ふたりの抱えるものは。
薫にはとてつもなく大きく深く思えて。
(惹かれる、知りたい、少しでも)
彼らの手助けが出来たなら、どんなに―――

「さて」
比古はだるそうに立ち上がると、薫たちの方を見た。
「話は終わりだ。
 夜も遅い、おまえ達を宿まで送っていってやろう」
ばさりと外套が揺れる。
弥彦が慌てて立ち上がった。
「ちょっと待てよ、奥義はどうなったんだよ」
「そーよ、そーよ、緋村に教えてくれるの?」
操が弥彦に同調する。
ただ薫だけが、巴の方をじっと見つめていた。
心配そうに揺れた薫の瞳に、巴は小さく、それでも しっかりと頷く。
それを見た薫は安心したように笑うとゆっくりと立ち上がった。
そしていつもの。
元気で頑張り屋な彼女の表情(かお)で、きゅっと顎を上げて。
「・・・ありがとうございます、お邪魔しました」
凛としたその声に。
弥彦はびっくりしたように振り向いた。
操はまだ不満げに「えー」と唇を尖らせている。
「・・・いいのか?薫」
弥彦が探るようにそう訊けば
「うん、もうわかったから、いいの」
と薫はやはり笑顔で答えた。
弥彦はじっと薫を見ていたが、彼女の言葉に やがて深く頷く。
「わかった」
そう云うとぺこりと比古へ向かって頭を下げ、
そしてすぐに勢いよく顔を上げると
「・・・剣心のこと、信じてますから!」
そう云い放ってくるりと踵(きびす)を返した。
操はまだ云い足りなさそうにしていたが、 渋々薫と弥彦に同調した。
「・・・そうだね、あたしも緋村を信じることにする」
それからこの大酒飲みの大男のことも少しは信頼するとしよう。
操は首だけを捻って巴を顧みた。
「巴さん、ここはむさ苦しいからちゃんと話がついたら 葵屋に来てね」
にかっと歯を見せて笑えば、巴も優しく微笑み返す。
「薫さん、弥彦さん、操さん、お気をつけて」
ゆっくりと薫が右手を振った。
「・・・巴さん、それじゃあ剣心によろしく」
「ええ」
巴は戸口で深く頭を下げた。
先を行く操と弥彦はまたなにか口論しているようだ。
大きな白い外套はそんな喧騒にかまわずゆらゆらと靡く。
その大きな背に、巴は今一度頭を下げた。
彼(か)の人が、ここに戻ってきた時は。
緋村の厳しい修行が始まるだろう。
昔も現在(いま)も。
叱りながら、諫めながら、それでも緋村の進む道を 手助けしてくれる比古には、感謝してもしきれない―――
それから。
自分たちを心配してこんなところにまで 来てくれた弥彦と薫。
もしかして彼らの背を押したのは恵だろうか。
「・・・そういえば」
左之助さんはどうなさっているだろう?
ふと巴が心配した人物は。
確かに剣心たちに近づいてきてはいた。
道に迷いながらではあるが。



がさり。
草を踏みつける音が近づいてくる。
巴は軽く目を瞠って。
とくとくと騒がしくなった自分の鼓動を聞いた。
「あれ?巴、みんなは?」
両手に水桶を持ったまま、剣心が目の前に現れる。
「・・・比古さまが、皆さんを葵屋まで送るとつい先ほど」
「そうか」
剣心はそのまま足を動かして戸の横に桶を置くと、こきっと首を鳴らした。
「随分ごゆっくりでしたね」
苦笑しながら巴が訊けば、剣心も笑い返す。
「師匠が欲しかったのは茶でなくて時間だっただろう?」
「はい」
「だけどせっかくだから、茶くらい淹れればいいのになあ。
 人使いの荒さは変わらないな、師匠」
くすくすくす。
ふたりで顔を付き合わせて笑う。
やがて巴は剣心の手を取った。
「散歩しましょう」
「え?」
面食らった剣心が聞き返す。
巴はそのまま彼の腕を引いた。
「おそらく比古さまは、 どこかの居酒屋に寄って帰られるでしょうから」
「師匠がそう云ったのか?
 まあ、よくやることだけど」
ふふ、とどこか悪戯めいた微笑みで巴は首を振る。
「いいえ、なんとなくそう感じただけです」
「・・・そう、か」

一体どんな会話がここで繰り広げられたか、剣心は知らない。
しかし比古は自分と巴に時間をくれたのだろう。
ふたりで、何かに向き合う為に。

「真夜中の散歩は、まだ寒そうだけど」
観念したかのように、剣心は巴に引かれて歩きだした。
先を行く巴が振り返り「大丈夫ですよ」と答える。
そうして彼女はそのまま、満天の星が光る空を見上げた。
「今日は暖かな一日でしたし、それに」
「それに?」
「ほら、月や星の光でこんなに明るい。
 散歩は不自然じゃないと思いますよ?」
うれしそうに微笑みながら、巴は剣心の手を引っ張ってゆく。
なんだか自分たちは、秘密の場所へ集合する子どもみたいだと剣心は 思ってしまった。

(ああ、そうか)

此処は。
小さな自分が笑って泣いて走って転んだ懐かしい場所。
巴はまるでそんな過去へ自分を導いてゆくようだ。
やがてふたりは月光が清(さや)かに降り注ぐ、小さな原野に出た。
まだ蕾の固い山野草がぼんやりと幾つか月光に浮かび上がる。
「何を、考えてましたか?」
背中を見せたまま、いきなり巴はそう剣心に問うた。
「・・・え?」
「あなたがひとりで、水を汲みに行った時・・・何を思い出しましたか?」
「・・・・・・」
黙りこくってしまった 剣心の応(いら)えを、待つこともなく。
するりと巴は繋いでいた手を離した。
「わたしは、ずっと思い出してました」
「何を、と訊いても良い?」
こくりと頷き。
巴は空(くう)の月を仰ぎ見る。
「ずっと、あなたと出逢ってから。
 そう、今までのことを―――」

柔らかな月明かりが、彼女の鼻梁を浮かび上がらせる。
月読(つくよみ)は一般に男神とされているけれど、 もしかしたら彼女のような美しい女神なのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、剣心も 口を開いた。
「俺も。
 ・・・俺も、そうだったよ」
くるりと巴は振り返り。
そうして嬉しそうに微笑んだ。
「ほんとうに?」
「ああ」
「それでは、現在(いま)の、この自分の立ち位置を。
 後悔なさってますか?」
剣心はゆっくりと頭(かぶり)を振った。
「俺はこうして君とともにいる。
 この行く手を・・・君と進むだけだ」
す、と巴の腕が伸びた。
さらりと冷たい指が、剣心の頬に触れる。
「だい、じょうぶ。
 あなたなら、大丈夫―――」
剣心は、巴のその指に己の指を重ねた。
「・・・なにが大丈夫なんだ?」
「ふふ、内緒です」
巴の悪戯めいたその唇に。
剣心は空いていた手の、 その指先を。
ゆっくりと、滑らせる。
そのまま彼女の小さな顎を捉えて、ぐいと自分の方へ 引き寄せた。
「・・・ん」
そのまま合わさった唇は、すぐに深く交わってゆく。
きゅ、と巴が剣心の着物を掴んだ。
互いに息継ぎすら惜しむように、 唇を舐め、舌を絡め、唾液を飲み込む。
何度か角度を変えて深く口付け、やがて巴の頬が 上気してうっすらと赤みを帯びた頃。
剣心は彼女をそのまま抱き上げた。
ざ、ざ、と草を踏み分け、 彼らの腰ほどの高さのがある岩まで運ぶ。
移動している間も互いの舌を摺り合わせ、その唇を求めることを 止めなかった。
とん、と巴をその岩に載せて、剣心はようやく唇を離す。
湿って濡れた巴の紅い唇が。
酸素を取り込むためにせわしく震えた。
「・・・散歩、って云ったのに」
上気した頬のまま、巴は上目で剣心を睨む。
それをくすりと剣心は笑い流しながら、 唇を彼女の首筋に這わせた。
「俺を、誘ってたよ」
「・・・わたし、は・・・」
ゆっくりと、どこか少し緊張したように。
巴は剣心の胸元にその手をあてた。
「わたしは、がんばったんです。
 ご褒美にあなたにもっと抱き締めてもらいたいくらい」
「ご褒美?」
剣心は不思議そうに首を傾げるが、やがて思い至ったのか短く 苦笑した。
「・・・あの師匠が本気で問いかけてきたんだ?
 やっぱり俺のことか?」
ことりと剣心の肩に頭を預けて。
巴は囁くように言葉を続ける。
「あなたの答えは、わたしの答えです。
 あなたが奥義を必要とする、その意味を問われました」
耳元に触れる甘やかな息が、剣心は愛しくて。
そっと巴の身体を抱き締めた。
「・・・俺はたぶんまだ上手く師匠に伝えられない。
 巴は、すごいよ」
すると巴は照れたように頬を染めながら、 上目遣いで剣心を小さく睨んでみせる。
「あなたは、これからですよ?
 身体で示さないと」
「そ、そうだね」
困り果てたように剣心が溜め息を吐けば。
巴はくすくすと肩を震わせた。
それでも剣心は巴を抱き締めたままだ。
「こら、あんまりからかうと」

・・・―――お仕置きするよ?



「ふぁ・・・んっっ・・・」
巴の唇が薄く開き。
甘い声が漏れた。
先程までのふたり体勢は入れ替わり、 剣心に背を向けたまま、その腰を彼に強く抱かれている。
上半身は着衣の乱れはあまりないようだが、 裾が大きく開かれ、真っ白な大腿が月明かりに映えた。
ぴくりと巴が首を仰け反らせる。
剣心の少し冷たい指先が襟を割って、 そのまろやかな膨らみを握った。
「あ、あ、・・・」
何度も何度も自分を高めてきて。
剣心の指先のざらつき具合まで、巴の肌は覚えている。
この先の快感を、記憶している身体が震えた。
ちゅ、とうなじに吸い付きながら、 ゆっくりと、時に荒々しく乳房を揉んでゆく。
やがてもう片方の手が、晒されている大腿部を ゆるゆると這った。
「・・・っ、は・・・っ」
幾度も高く上がりそうになる声を、かろうじて 巴は堪える。
腿を滑っていた指が、やがて一番深い場所へ潜っていった。
「・・・濡れてる」
ぼそりと耳元で呟く声。
巴の頬と首筋が羞恥で赤く染まった。
それを気にすることなく、剣心の長い指先が 弱く強く緩急をつけながらまさぐってゆく。
「だ、だめで、す・・・っ」
これ以上高められれば、あられもなく声を発してしまう。
さやかに聞こえるのは虫の音(ね)だけだというのに。
胸の尖りを弄ればぐっと反り返った巴が、 全体重を剣心に預けてくる。
熱い吐息が剣心の耳朶に触れ、その度に 剣心の熱も温度を上げていった。
「あ、んんっ・・・!!」
敏感な部分を同時に攻められて、巴の意に反してその 嬌声はますます高く艶やかに響く。
「声、我慢しなくてもいいと思うけど?
 だぁれも居ないのに」
耳殻を舌でざらりと舐めあげながら、剣心は少しいじわるく 囁いた。
「・・・静かすぎ、て、よっ・・余計に恥ずか、ぁん・・・っ!」
途切れ途切れにそう云うと、耐え難いように巴は そのつま先を引きつらせる。
熱を持って潤み始めた巴の瞳を覗きこんで。
剣心は胸元から指を引き抜いて、彼女の後頭部をぐっと押さえて 真上を向かせた。
そのまま覆い被さるように唇を深く重ねる。
「と、もえ・・・」
「ん・・・、んん」
舌を絡めながら、飲み込めない唾液が巴の顎から 滴り落ちた。
巴の秘所を弄る指はそのままに、じわじわと剣心は 彼女の両足の間を広げてゆく。
あ、と巴がそのことに気づいた時には、 大腿どころか、下腹部まで月明かりに晒されていた。
「・・・っ!」
反射的に逃げを打つ腰をがしりと掴み、剣心はそのまま ぐっと自分の腰を彼女に押し付けるように抱き込む。
「あ、ああああっ!」
ぐぐっと楔を穿たれた。
やや性急だったために、巴の身体が強張る。
「っ、」
剣心はそれでも強引に進めた。
がくん、と前のめりになる彼女を片腕で支える。
上半身は殆ど着衣の乱れがなく、 それでいてなめらかな両足はほぼ剥き出しだ。
その艶めかしい肢体に、剣心の喉が鳴る。
再び左胸を直に愛撫しながら、右の腿を掴んで更に 己に引き寄せた。
「・・・あ、いやっ・・!!んん・・・っ」
剣心の引き寄せたことで、自分の体重ごと深く腰が沈む。
身体の、奥の奥を突かれ揺らされる、その快楽と痛みに。
声を我慢するどころではなくなった。
ぎゅうと巴が剣心の腕を掴む。
その腕は自分の脚を広げ押さえつけている腕だ。
不安定な体勢で、激しく揺さぶられて、巴はもうその腕に しがみつくことしか出来ない。
「は、あ、んん・・・あ、あっ」
意味の成さない言葉が、半開きの唇から漏れた。
「ともえ・・・っ」
乳房を弄っていた指が離れて、剣心は 両手で彼女の腰を掴む。
ひゅ、と巴が息を呑んだ。
少しかさついて、少し細くて、とても力強い指先が。
ぎりぎりと腰骨に食い込んでくる。
痛みと快感が綯(な)い交ぜになって。
頭の奥がぴりぴりと痺れ、巴は何も考えられなくなった。
「・・・あっ、あっ、あああ!!」

視界が一瞬真っ白になって。
喉がひりひりと痛んで。
身体中が火照って。
波が押し寄せるかのように、どくどくと 腹部が痙攣する。
―――熱い。
汗ばんだうなじに、剣心が唇を落とす。
妙にそれが冷たくて、心地よくて、巴は小さく笑った。
「なに?」
剣心が気怠げに、巴の肩に頬を載せながら聞く。
巴はその仕草を愛おしく思いながら、流れる彼の髪を 摘んだ。
未だ彼女の脚は開かれたままで、汗ばみ。
剣心は彼女の中から離れていない。
「・・・気持ち、よかったです。
 こんなに恥ずかしいのに」
首筋に、剣心の息がかかった。
ああ、彼も笑っているのだと巴は気づく。
剣心が動くと同時に、ぼたぼたと脚が濡れた。
「身体、洗おう?」
「ですね」
体躯の大きさはそう変わらないのに。
軽々と剣心は、巴を抱き上げる。

月は変わらず煌々としていた。



「―――朝帰りですか、師匠」
剣心はあきれたように溜め息を吐く。
比古は相変わらず酒を片手に持ちながら、 剣心に答えるのも億劫そうに腰掛けた。
「お帰りなさいませ、比古さま」
巴が軽く会釈すれば、「お早う、巴さん」と 比古は機嫌良く口を開いた。
その様をげんなりと剣心は見ている。
(・・・俺とは口利くのも嫌ですか?)
だがそんな剣心を尻目に比古と巴の 会話は弾んでいた。

「話はついたのか?」
「・・・そう、そうですね・・・おそらく」
「まあ、そんなとこだろう」
「朝餉の用意が出来てます」
「お、そりゃあいい。
 いただくとするか」

―――自分を無視して、会話は続く。
いや比古と巴の会話は弾むことなく、ごく普通の会話として 成立していたのだが、剣心にはそうは思えなかった。
「・・・・・・」
巴がふと気づいて振り返る。
「どうかなさったのですか?
 眉間に皺が」
剣心はぴくりと片眉をあげて「なんでもないよ」と 答えたが、比古がそれをにやにや見ていることが、 また腹立たしい。
しかし剣心を不快にさせるものは、 これだけにとどまらなかったのである。

“それ”は朝餉の後にやって来たのだ―――



巴は身支度を調え、小屋の戸を引いた。
剣心の修行が始まるにあたり、葵屋へと戻るためだ。
「比古さま、どうぞ緋村をお願いします」
比古はこきりと首を鳴らし、ぞんざいに答える。
「ああ・・・泣くかもな、こいつ」
「泣きませんっ!」
空かさず剣心が否定する。
比古はにやにやと笑うだけだ。
「じゃ寝小便垂れるのか」
「垂れませんっ!!」
「逃亡」
「したことありませんっ!!!」
巴は目を丸くしてふたりのやりとりを見ていたが、 思わず次の言葉を漏らした。
「・・・泣いたりおねしょしたりしてたんですね、 可愛い」
ぶん、と音がしそうな程の勢いで剣心が振り返る。
「ち、ち、ちが・・・っ」
比古はやはり、にやけている。
(本当のことだからな、否定できないよなあ)
比古の悦の入った笑顔が、怖い。
しかし巴はふたりの思惑なぞどこ吹く風で。
にこにこと言葉を続けた。
「わたしの知らない、あなたの幼い頃の話を 伺うのは、とても楽しいです」
「・・・う・・・」
そんな彼女の笑顔に太刀打ちできなず、 剣心はただ顔を赤く染める。
「と、とにかくっ!師匠、彼女を送ってきますから!」
上擦った声も隠しようがなく、剣心は足早に歩き始めた。
巴ももう一度会釈して、剣心の後に付いてゆく。
比古はそんなふたりの背中を一瞥して、さっさと小屋へ 戻ってしまった。

その時の、比古の表情を。
ふたりは無論誰も知る由もない。



露に濡れた草を踏み分けながら、剣心と巴のふたりは 山道を降りていた。
繋がれた二本の腕へ、 木漏れ日がちらちらと細かな影を落とす。
(この景色だけなら、とても平和だな・・・)
剣心がそんなことを思いながら、ふと前方へ視線を向けると。
そこには否応なく見慣れた青年の姿があった。

「お早う、姉さん」

(・・・誰か冗談だと云ってくれ)
剣心は天を仰いだが、巴はにこりと笑い嬉しそうに 彼の名を呼ぶ。
「まあ、縁。
 どうしたの、こんな山奥まで」
「姉さんを迎えにきた」
「迎え?」
中指で眼鏡を押し上げ、縁はちらりと剣心を見遣った。
巴が怪訝そうにそんな縁を見上げている。
剣心は微かに眉間に皺を寄せたが、すぐに巴の肩に手を置いて 応えた。
「・・・縁がわざわざ迎えに来たんだ、 俺はここで彼と交代するか」
「よろしいのですか?
 普段はすごく不機嫌そうですのに」
「場合が、場合だからな。
 一刻でも早く、俺は奥義を会得しないと」
縁はただ黙ってふたりの遣り取りを聞いている。
(・・・こんな時は物わかりがいいんだな、チビのくせに)
そんな縁の心の声を知っているのか知らないのか、 剣心はひらひらと巴に手を振って見せた。
「なるべく時間をかけないようにするから、心配しないで、巴」
「はい―――」
ふわりと笑い返し、巴が頷く。
「・・・・・・まあ、せいぜいがんばるんだな」
巴が自分の方へ動くのを確認しながら、縁はぽつりと呟いた。
剣心は一瞬おや?というような表情をしたが、 すぐにそれをかき消すと普段の笑顔を顔に貼り付ける。
「縁に励まされると気味が悪い」
「・・・ふん」
食ってかかることもせず、縁はくるりと背を向けた。
巴はそれを気にしつつ、剣心の右手をその手に取る。
「待ってますね。
 だから“見失わないで”きっと“見つけて”ください―――」
「・・・うん」
名残惜しそうに、ふたりの指が離れた。
剣心は相変わらずにこにことふたりを見送っている。
巴が何度か振り返りながら、縁に引かれて遠ざかってゆく。

「見失わないで・・・見つけて、か」

彼女らの姿が視界から消えた頃、剣心はぽつりと呟いた。
(縁が“ここ”に来た意味を、巴は気づいてる)
目を細めて剣心は己の手のひらを見つめ、そして陽が高く昇った 空を見上げる。

(君が俺に託した言葉)
(きっと、君が望む其処に)

辿り着くために剣心は歩を進めた。



握っている姉の手が、普段より少し冷たいことに 縁は気づいた。
立ち止まって振り返れば、半ば怒っているような、 半ば悲しんでいるような、そんな複雑な表情の巴がいた。
「・・・姉さん・・・」
「・・・」
「ねえ、さん?」
「葵屋じゃ、ないのね」
「―――そう、だよ」
巴はゆっくりと目を伏せて。
それでも縁の手を振り払わなかった。
縁は再び彼女の手を引いて歩き出す。
そうして問われずとも、その薄い唇を開いて説明した。
「・・・志々雄真実は、武器商人から手に入るあらゆる武器を 用意している。
 ヤツの情報網も侮りがたい・・・いやむしろ俺と同等かもしれない」
「・・・」
「本気で日本政府と戦争するつもりだ。
 葵屋のことも当然ヤツは把握している。
 姉さんを、のこのこそんな場所に連れてくわけには、いかない」
「・・・」
「だから、隠れてもらうよ。
 志々雄一派の目の届かないところに」
「・・・わかってる、わ」
縁はまた足を止め、巴へ振り返った。
相変わらず強気だが、どこか困ったような瞳を 幾度か瞬かせる。
「―――怒られるかと思ったんだけどな」
巴はどこかあきらめたように微笑うと、そのまますたすたと縁を 追い越してゆく。
縁はその細い背中をぼんやりと眺めた。
(緋村も、事前に伝えなくても俺の意図に気づいた。
 そうして、そのまま俺に姉さんを預けた)

巴は。
ふたりの望みに従ったのだ。

浅く嘆息すると、縁は小走りに巴に追いつく。
さすがは己の姉だと、感心するのはこういう時だ。
自分は決して敵わない、けれどそれが誇らしくもある。
そして彼女が選んだのが緋村であるその意味を。
理解できる故に、縁は癪に障るのだった―――・・・







「お願いします」
愛弟子の声に、比古は振り向く。
剣を構える前だというのに、比古の身体の外郭は 青白く、まるで彼の周りで燐が燃えているかのように錯覚する。
「おまえがどう答を出すのか、楽しみだな」
すなわち。
それが求める答でなければ、奥義には届かない。

しん、とすべての音が沈黙する。



二振りの白刃が、きらめいた。