翁からの情報を頼りに、剣心と巴は連れ立って 山の中を歩いてゆく。
やがて。
奥へ分け入っていくにつれて、剣心の表情が 何故か苦虫を噛み潰したようになってゆくことに 巴は気づいた。

「どうかなされましたか。
 何か気になることでも?」
「・・・・・・」
「あなた?」
「・・・間違いない」
「え?」
いきなり剣心は立ち止まると、 ぐったりしたかのように己の額に 手のひらを当てた。
「―――“ここ”は俺と師匠が居た場所だ」
情けない声で、剣心は深く項垂れている。
巴はパチパチと音が聞こえてくるような深い瞬きを 繰り返した。
「本当、ですか?」
ああ、と力なく剣心は頷く。
「あーんな苛めや、こーんな暴力や、ほんとにいろいろ あったんだよなあ・・・
 まさか昔師匠と過ごしたあの山小屋で、師匠に奥義を請わなきゃ ならないなんて」

・・・悪夢だ。

こんな事態でなければ会いたくもなかったのに、などと剣心は 遠い目をしてぼそぼそと呟いている。
「げ、元気を出してくださいな」
剣心と新たな生活に入る時、一度だけ会った彼の師匠のことを 巴は思い返し。
剣心のその嘆きに同情しつつ、巴は彼を慰めた。
「比古さまだって、本当はあなたを大事に 思ってらっしゃいますから、大丈夫ですよ」
「・・・だとしたら、随分歪んだ愛情表現だと、俺は思うよ」
それはそうですけど。
危うく口から発しかけた言葉を飲み込み。
巴はなんとか笑みを浮かべる。
その努力を汲み取って、剣心ははあ、と息を吐くと 再びしっかりと歩き出した。

「師匠は巴には甘いから、まだマシかな」
「そうでしょうか?」
「丸わかり」
「あら、あの煙は・・・」
「そろそろ、だな。
 久々だし手始めに斬りかかってみるか」
「返り討ちに気をつけてくださいね」
「・・・・・・」





この時刻、通りは人で溢れていた。
「ったく、なんであたしが野菜を買いに・・・」
操は唇を尖らせながら、野菜の入った籠をぐんぐんと 振り回す。
剣心と巴に同行できなかった彼女は、不機嫌そうな 顔でふと白いのれんに目を止めた。
(・・・どうせなら腹ごしらえしちゃえ)

操が寄り道をした店は、偶然にも『白べこ』だった。
その店で操が目にした剣心の似顔絵から、 薫と弥彦はようやく剣心の手がかりを得たことになる―――

「・・・緋村を追って、わざわざ東京からねえ」
操は生意気そうな少年と人の好さそうな自分と同年代らしい少女を、 まじまじと見比べながら、これからのことを考えた。
(志々雄真実絡みの事情は知ってるようだし、緋村に会わせても 問題はなさそうだけど・・・)
少年は、薫という名の少女の肩をぽんぽんと叩き、 「やっと見つかったんだ、気張れよっ」などと 慰めているのかどうかわからない言葉をかけ。
少女は目と頬を真っ赤にして、俯いたままだ。
「・・・あなたたち、緋村がどうしてこの京都へ来たか知ってるのよね?」
操が訊けば、少年は「ああ」とひと言だけ簡潔に答える。
迷いのない、強い視線。
(―――うん、なんか、会わせてあげたいよね!)
どん、と胸を叩いて操は姿勢を正した。
「わかった、あたしについてきて!」





ばさ。
常人が纏えば、おそらく誰も似合わないであろう外套が。
翻った。

「お久しぶりです、師匠」
「ああ?なんだその惜しい、って面(つら)は?」
「いえ、さすがでした、師匠」
「いきなり背後から斬りかかってきやがって、そのセリフか」

―――久方ぶりの再会は、何故か棘のある言い合いと化していた。
しかしすぐに比古は剣心の背後の女性に気づくと、 弟子を罵る言葉を止める。
「・・・夫婦で里帰りか?」
「お久しぶりです、比古さま」
むっつりな表情のままの剣心をなだめながら、 巴は頭を下げた。
比古は小さく笑いながら、右手を挙げる。
「相変わらず美人だな、巴さん。
 ほんとに馬鹿弟子にはもったいない」
「色目使わないでください!」
眉間に皺を寄せて、さり気なく剣心は巴の前に立ちはだかった。
「おまえ、相変わらずくそ真面目だな。
 受け答えがつまらん」
「余計なお世話です」
無駄な掛け合いがまた始まりそうになったが、 巴がそこへ割って入る。
傍目に比古と剣心のやりとりを無視しているようにも見えたが。
「比古さま、折り入ってお願いがあります」
「話・・・、か」
比古はちらと馬鹿弟子、もとい、愛弟子の顔を見た。
存外真剣な剣心の瞳に、ふん、と鼻を鳴らし。
再びばさりと外套を翻す。
「立ち話もなんだ、小屋に入れ。
 ふたりして俺に土下座しそうな勢いだしな」
「・・・はい」
さすがに抜け目がない。
剣心と巴は、そう目配せすると比古の後についていき、 戸をくぐった。

どかっと無造作に比古は腰を下ろした。
剣心達には座れとも云わず、座布団すら出さない。
しかし剣心は心得たもので、勝手に押し入れのようなところから 座布団らしきものを引っ張り出してくる。
そして先ず巴を座らせ。
自分もこれまた無遠慮に腰を下ろした。
(妙なところで息が合ってるのね)
一連のふたりの所作に、巴は
(師弟って親子みたいに似てくるものなのね)
と、感心なぞする。
当のふたりが彼女の感想を知れば、きっと怖気を覚えるに違いない。
「さて、話とやらを聞こうか」
どん、と脇に酒器を置くと比古は剣心を見据えた。
途端、剣心の全身が緊張したのが、隣に座った巴にも伝わる。
「・・・奥義の伝授を、お願いします」
低く零れた声と一緒に、剣心は深く頭を下げる。
比古の眉が一瞬跳ね上がり、そして「くっ」と笑いが漏れた。
「おまえ、俺が昔教えたことを覚えているか?」
「・・・はい」
頭を下げたまま、剣心が答える。
この問いかけの重さに、巴もすぐに気づき共に頭を下げた。
比古はそのふたりの姿にふっと笑みを浮かべるが、 腰を折ったままの剣心と巴が気づくはずもない。
ぐいと一杯酒を呷り、比古は再び口を開いた。
「“飛天御剣流”は、自由の剣だ。
 故にどこにも属すことを許されない」
比古の声に抑揚はない。
それだけに返って抑圧的な気をひしひしと感じてしまう。
「師匠!俺は・・・」
ぐっと歯を食いしばって剣心は顔を上げた。
師の言い分はわかっている。
しかしこれだけは譲れなかった。
剣心が生きる理由でもあったから。
「―――云い訳は聞かん。
 つまりは、おまえを後継者に選んだ俺の失態だ」
「・・・っ」
比古は酒を呷りながら、剣心の瞳をじっと視る。
頭を低くしたまま、巴は昔を思い出していた。
自分が、比古清十郎と初めて出会った日のことを。

(あの時も)
(比古さまはこの人を怒鳴った)
自分と、剣心がこの“道”に生きると決めて。
最初の、そして旅立ちの挨拶に訪れた時。
(苦い顔をして、それでもどこか―――そう、どこか 後押しするかのように)

「確かに師匠の、いえ飛天御剣流の教えに俺は背いてます。
 何を理由としてもそれは変わらない事も、承知しています。
 けれど!」
ずいっと身を乗り出し、剣心は必死の面持ちで声を荒げた。
「それでも、奥義が必要なんです・・・!」
比古はさもうざったいかのようにふん、と鼻を鳴らす。
ふたりの前だというのに寛ぐかのように足を崩し、笑ってみせた。
「まあ、巴さんも馬鹿弟子のおまえの為に頭下げてることだし。
 事の顛末は聞いてやる・・・簡潔に話せよ、馬鹿弟子」
(この人は・・・)
剣心は盛大に眉間に皺を寄せながら、比古を睨み付けた。
尊敬もしているし、事実彼はべらぼうに強い。
(だけどいつでも“俺さま”なんだよな)
それでも自分は比古に今ここで逆らえるわけもなく。
剣心は志々雄の一件を比古に簡単に説明する。
その短い間にも、比古はぐびぐびと酒を呑み続けていた。



時刻的にはそう遅くはなくとも、山が暗くなるのは早い。
夜目が利くのか操はひょいひょいと狭い山道を登ってゆく。
「け、剣心の師匠って今は陶芸家なんでしょ?
 な、なんでこんな山奥に居るの?」
ぜいぜいと息を切らしながら薫は足を動かしていた。
「古来からの剣術を伝承してるんだぜ?
 そりゃ街中よりはこーゆー方が似合うじゃねえか」
弥彦も元気そうに見えて息が荒かった。
この辺りの地理に疎いのも、ふたりの疲労を増加させる一因だろう。
と、くるりと操が振り返った。
「ほら、ふたりとも頑張って!
 あと少しのはずだから」
「う、うん」
こくりと頷いた薫の視線の先に。
ぽつりと灯りが点る。
「あ、あれ・・・!」



やがて比古は剣心へ向けてついと右の手のひらを向けた。
「もういい、大方は理解した。
 ・・・また随分とやっかいな亡霊を 生み出したもんだな、あ?馬鹿弟子」
口元は笑っているようではあるが、 比古のその目は全くそうではなかった。
むしろ怒りを滾らせているといって過言ではない。
剣心はぐっと拳を固く握り締めたまま、 比古の無言の叱責を受け止めた。
昔巴を伴い、比古と話し合った時も。
剣心は自分が殴られるのではないかと思ったほど、 比古は不機嫌だった。
だが今はそれ以上の“重さ”をのしつけられているようだ。
それでも剣心は再度頭を下げる。
「お願いします・・・師匠!」
比古は黙って剣心を見下ろしたままだ。
双方の心境が解るために、巴はじっと彼らを見つめた。
もしこのまま比古が奥義の伝授を了承しなくとも、 剣心は志々雄との闘いを止めるわけではない。
それだからこそ、奥義は絶対に必要だ。
「比古さま・・・っ」
巴が声をあげたと同時に、比古は黙れ、と云うように 右の手のひらを見せた。
そして戸口の方をじっと見遣る。
「ふたり・・・いや三人か」
同時に剣心もそれに気づいたらしい。
ざっと立ち上がるとがらりと勢いよく戸を引いた。
「あ、わ、あわわわっ!!」
くるくると腕を振り回し、長いお下げの娘が身体を支える物をなくして 中へとなだれこむ。
「操さん・・・」
びっくりして巴が呟けば、操は顔を顰めながら照れ笑いを見せた。
「い、いや別に盗み聞きとか覗き見とかじゃないから!ね?」
同意を求める様に操が後を振り向く。
そこには剣心と巴のよく知るふたりが佇んでいた。
「薫殿・・・弥彦・・・!」
剣心に名を呼ばれて、薫がびくりと肩を震わせた。
空かさず弥彦が声を張り上げる。
「俺たちに黙って京都なんて許さねえ!
 それに“いろいろ”話が残ってんだから来たんだよ」
「え―――」
剣心は一瞬呆気に取られた表情をしたが、 すぐに巴が立ち上がり剣心と弥彦の間に立った。
「ごめんなさい、薫さん弥彦くん。
 本当はひと言挨拶すべきだったのだけれど」
「い、いいえ・・・!」
戸惑うように薫は慌てて首を振り、ちらりと剣心へ視線を奔らせる。
巴は今度は比古へ向き直り「皆さまをお迎えしてもかまいませんか?」と 訊ねた。
比古はちらと操たちの方を見遣り、まるで興味がないというかのように また酒を口にする。
巴はそれを可としたものだと捉え、「さあ」といまだ座り込んだ ままの操の手を取った。
「お、お邪魔します・・・」
おずおずと薫が上がり込んだのを確認して、 弥彦もむすりとした表情で中へ入る。
漏れ聞こえたところによれば、比古は剣心に奥義を教えないと云う。
それが弥彦にはどうにも気に食わないのだ。

狭い小屋が、ますます狭くなる。
しかし操が肩を縮こまらせているのは、それだけが 理由ではなかった。
(これが師匠!?緋村の師匠!?
 ちょっと若く見えすぎない?なんか蒼紫さまと同じ年って 云われたって違和感ないし)
(はっ!!そういえば緋村も見た目より遥かに老けてたじゃない!?
 やっぱりこの師匠、見かけにだまされちゃダメなのよ、うん、そうに 違いないわっ!)
己の妄想が比古に伝搬するのではと、冷や冷やしながら。
それでも操は穴が開くほど比古を観察している。
薫はちらちらと剣心と巴を見遣りながら、これまた 窮屈そうに正座していた。
ひとり、弥彦だけは仁王立ちで苛ついた表情で 比古を睨んでいる。
三者三様の視線が煩わしいのか、比古ははあ、と 嘆息して。
剣心へ顎をしゃくった。
「おい、馬鹿弟子」
「・・・なんですか?」
露骨に厭な顔をして答える剣心に、比古は奥にある桶を指差す。
「おまえ、そいつで水汲んでこい」
「は?」
「お客さまたちに、茶を淹れようと思ってな」
「お客さまに、ですか、へええ」
「一番遠い処にある、泉に行ってこい」
「・・・・・・」
剣心は目線を巴に向けた。
巴がゆっくりと頷く。
それを確認して。
剣心は比古に返事をした。
「わかりました。
 行ってきます」
かたん、と桶を持つと剣心は歩き出した。
「剣心!」
思わず声をかけた薫に、にこりと笑いながら振り返る。
「薫殿、弥彦。
 積もる話はまたあとでゆっくりしよう」
慣れた足取りで、夜の山道を行く剣心の背中を。
不安そうに見送る薫の肩に、巴が優しく手を置いた。
「緋村は、昔ここで修行したことがあるんです。
 だから例え月や星が出ていなくても大丈夫なんですよ、迷いません」
「え、はい・・・」
薫は仕方なく頷くと、きちんと座り直した。
巴は彼女が剣心を呼び止めたのは、夜の山が危ないわけではないことを 承知しながら。
それでもそのことをおくびにも出さずに、 穏やかに微笑む。
巴もまた座り直して。
比古へと目線を向けた。
「随分賑やかになりましたね」
「ふん」
比古はやれやれと云いたげに、弥彦、薫、操の 顔を見回すとつまらなさそうに鼻を鳴らす。
(何なのよ、この人!
 顔は良いのにこの態度、傍若無人すぎるっ!)
延々と心の中で突っ込み続ける操を気に掛けることもなく、 弥彦が比古へにじり寄った。
「どうして剣心に奥義を教えないんだよっ!?」
初対面であるのに、いきなり不躾な科白を吐く少年を。
薫は慌てて押さえつけた。
「ばっ、ばかっ!
 何よそれ、単刀直入すぎるわよっ」(←小声)
しかし弥彦はぷくりと頬を膨らませたまま、 じっと比古を睨め付けている。
そして、更に操までが弥彦のその不躾な科白を復唱したのである。
「そうよ、なんで緋村に教えないの?
 もしかして出し惜しみ!?」
(み、み、操ちゃんまでっ!?)
唖然としている薫を尻目に、比古は聞こえているのか 居ないのかはっきりわからない態度で。
ゆっくりと酒を呑み続けていた。
操はそれがまた面白くなくて、がばと巴へ振り向く。
「ね、こんな人に頭下げなきゃダメなの?」
巴は大きく頷き。
にこりと微笑んだ。
「はい。
 ・・・彼が―――比古さまが緋村を、 育て導かれたのですから」
「う・・・」
そう答えられたら、操も言葉に詰まるしかない。
そろりと薫の方を見れば、彼女も比古と緋村の 絆に改めて気づかされたようだった。
「だけど!」
しかし弥彦はなお食い下がる。
少年にとって剣心は憧れであり、目標であり。
だから尚更、納得のいく説明を聞くまでは 引き下がることは出来なかった。

ドン!

安普請の床が、比古の無造作に置かれた酒器とぶつかり、 ぎしぎしと軋む。
比古がじろりと弥彦を睨め付けた。
それだけで弥彦は身体が縮こまるのを感じる。
(や、べえ・・・!)
“強い”のだ、この男は。
文句なしに。
弥彦の剣士としての本能が、そう悟る。
薫と操すら、気圧されて顔色を変えていた。
ただ、巴だけが変わらぬ態度で座している。
比古はそんな彼らの様子を意に介さず、巴へ目線を向けた。
「あんたは、奥義をあいつに伝授することに――― 賛成なんだな?巴さん」
微かに目を伏せ。
巴は小さく、しかしはっきりと頷く。
「緋村と共に頭を下げたことに、迷いは一切ありません」
「・・・頑固だな。
 似た者夫婦か」
比古はにやりと唇の端を歪め、そして未だ 緊張したままの薫たちへ顔を向けた。
「ところでおまえたちは何者で何しに来やがった?」
「「「!?」」」
今更それを聞くのか!
弥彦と操はそう叫びだしそうな声をやっとの思いで抑え。
薫はその質問にどう答えていいのかわからずに、 おろおろしている。
「緋村やわたしが、東京でお世話になった方達です」
さすがと云うべきか、巴だけは冷静に平然と、しかも 簡潔に説明した。
(このやりにくそうな男を前にして、これだけの落ち着き・・・!
 さすが緋村の奥さんだわっ!)
妙な感激をしている操を尻目に、ようやく弥彦が口を開く。
「・・・一番弟子だ」
「弥彦!?」
薫が弾かれるようにして、身体を弥彦へ向けた。
一番弟子というのは、ある意味間違ってはいない。
剣心に救われ、剣心に感銘し、剣心を真の師と仰いでいるのだから。
しかし剣心は弟子そのものを認めたわけではなく。
その上飛天御剣流ではなく、神谷活心流を学べと厳命したのだ。
「あんた、何云ってるの!?」
薫は腕を伸ばして弥彦の袂を掴もうとした。
しかし「ぱし」と音がしたかと思うと、彼女の手首は弥彦の指に 捕らわれてしまっていた。
まだ十(とお)を過ぎたばかりの少年の、手首を握る力は 存外に強く、薫は目を瞠る。
(やだ、この子いつの間に・・・!)
確かに弥彦は真面目に習ってはいた。
それでもこの短期間にここまで手首が強くなるとは、 薫は予想すらしてはいなかったのだ。
「俺は・・・」
薫の手首を握ったまま、 弥彦が苦々しく比古へ向けて口を開いた。
「俺には、剣心は奥義を会得することに、 どんな問題があるのかわからねえ。
 むしろこれ程の流派、あんたを除けば 剣心にしかちゃんと使えこなせないし、 それだけの器が剣心にはあると思ってる」
それなのに、何故比古は奥義を伝授するどころか、 剣心を批判するのか。
先ほどから溜まっていたもやもやとしたものを 弥彦はようやく言葉にしたのだ。
比古は軽く右眉を跳ねさせると、 「やれやれ」と呟いた。
ずいと弥彦に人差し指を突き出すと、比古は 重々しい声で問う。
「童(わっぱ)、おまえ、どれだけあの馬鹿弟子のことを 理解してるつもりなんだ?」
「・・・そんなこと関係ねえ」
「なぜあれが、飛天御剣流を会得したのか。
 なぜあれが、“るろうに”となったのか。
 僅かでも聞いたことがあるのか?」
「っ、ねえよ!!」
比古の問うたそれは、確かに弥彦たちが知る由もないことで。
弥彦は悔しげに顔を歪めたが、 強気の姿勢を崩さなかった。
「だけど、俺は間違えてない。
 剣心が、今の“剣心”なのは、間違いじゃないっ!」
ぐ、と薫の手首にかかる力が強くなった。
「弥彦・・・」
彼は薫の手首を掴んでいることすら失念しているのだろう。
その、一途さ。
その、無鉄砲さ。
薫はそれをとても羨ましく思った。
自分でも無意識のうちに、彼女は自分の感情を 抑制することが多い。
両親を次々、喪ったせいだろう。
(弥彦ったら・・・)
そういえば、自分は剣心に対してもずるずると引き摺り続けている。
何かを。
いつまでも。
(弥彦、あんたがわたしだったら。
 この答が疾うにわかっていたのかな)
薫は弥彦に手首を掴まれたまま、膝で比古の方へ にじり寄る。
「・・・お願いします。
 剣心に奥義を授けてあげて」
震える声でそう告げると、やっと気づいた弥彦が 慌てて手を離した。
比古はそんな彼らの目の前で、ただ黙って酒を呷っていたが、 やがて堪らないといった風情で笑い始める。
思いもかけない展開に、薫たちは茫然とした。
「はっはっはっ・・・!
 どいつもこいつもあの馬鹿のために頭を下げるか」
さも愉快そうに、比古は笑い続けると、目の前の巴に 口を開いた。
「行く先々で、こうなのか?」
「・・・優しくて親切で。
 ええ、そんな人たちにとても助けられてきました」
「昔、あんたを伴ってあの馬鹿が俺の前に来た時。
 あれは頭を下げながら、それでも強い声音でこう云った」

―――飛天の剣だけでは、救えません。

「はい・・・覚えています」
巴は微かに目を伏せ、まだ二十歳にもなっていなかった 剣心の姿を思い浮かべた。
懐古と後悔と、そして哀しみの綯(な)い交ぜになった 表情(かお)を。
比古はじっと見据えながら、また言葉を紡ぐ。
「目の前の人々を救うには、剣ではなく政治的な力も 必要だと・・・あいつは抜かした」
「その通りです。
 “腕”だけでは解決しない場合も残念ながら 多くあります。
 あの時、初めて比古さまにその考えを告げた時。
 ・・・あなたは、ただ勝手にしろとおっしゃいました」
「勝手に生きてきた結果に、悔いはないのか?」
「―――はい」
巴は真っ直ぐな眼差しで、ひたと比古の視線を受け止める。
それを受けて、比古は僅かに微笑んだ。
人を見下したような笑みがそれまで多かったのだが、 その時彼は本当に嬉しそうに笑ったのだ。
「こんな付属物がじゃらじゃらしているのも、 おまえたちの信じた道の産物か」
「「な!じゃらじゃらって!?」」
突き付けられた人差し指に、むっとした操と弥彦ががなる。
薫は呆気に取られたかのように口を半開きにした。
巴が「人を物みたいな云い方はだめですよ」とたしなめても 比古は聞く耳を持たなかった。
酒臭い息を吐きながら、胡座を組んでいた右膝を比古は立てる。
そして彼は眉間に軽く皺を寄せた。
「―――だがな、巴さん。
 あれはまだ己の中の“抜刀斎”を恐れているんだろう?
 奥義でよりその“抜刀斎”を引き寄せるとしたら、 どうする?」



“ここ”は、東京の空より星が近い。
剣心は思わず空(くう)へ手を伸ばした。
さらさらと湧き出る水の音が、絶え間ない。
(・・・今頃何の話をしているやら)
おそらく自分のことだと、推測は出来る。
だから自分があの場に居ない方が、 都合がよいのだということも。
「しかし薫殿や弥彦や操殿まで顔を揃えるなんて、 驚いたなあ」
あの比古ですら呆れた顔をしていたし、 それはそれで見物だったけれど。
ちゃぷん、と剣心は右手を湧き水に晒した。
はっとするほどの冷たさが心地良い。

この手で剣を握ってきた。
そしてこれから握り続けるために、奥義を師に請う。
―――巴はそれでいい、とそのたおやかな指で覆ってくれた。

剣心はもう一度空を見上げた。
濡れた指先に、星が、届きそうだった。