「やられた・・・!」
ばしん、と左之助は己の左の手のひらに、右の拳を 叩きつけた。
「まさか昨夜のうちに消えちまうなんてなあ。
 巴さんまで一緒にどろん、だ」
似つかわしくない渋面で、弥彦が唸る。
せめてひと言、自分たちに告げていってくれてもいいではないか。
剣心も巴さんも水くさい。
(そりゃまあ、急いでたんだろーけどよ)
けれど、剣心たちが京都へ、自分たちを置いて、行ってしまったと わかった時。
知ってしまった。
これ程悔しかったのかと。
こんなに、その存在が大きかったのかと。

がしがしがし。
思い切り頭髪を掻き回して、左之助は唸った。
「・・・このまま黙ってられるか、行くぜ京都!!」
「賛成」
むっつりと弥彦は右手を挙げる。
(あーゆー人間はこっちで掴まえておかないとダメだ)
弥彦は心からそう思った。
剣心が去ったと知って、薫は食欲もなく、焦点の合わない目で ぼーっと庭の桜を見ている。
(薫は、まだ、自分の気持ちに混乱して落ち込んでるし)
(俺は、まだ、剣心に学ぶことが山と在るんだからな!)
自分はまだまだ中途半端だ。
弥彦は強くそう思って拳を握り締めた。
だがそれをあざ笑う声がひとつ。

「足手纏いだ、やめておけ」

いつかどこかで、しかもつい最近、聞き覚えのある声に 左之助と弥彦は振り返った。
ひょろ長い、痩せた男がひとり。
左之助たちのすぐ後に立っていた。
忘れもしない、この男は。

「斎藤・・・」

斎藤はゆらりと身体を動かすと、さも鬱陶しげに 銜えていた煙草を口から外した。
「まったくあの男は行く先々で情を残しすぎる。
 俺たちには不必要だし、むしろ邪魔なんだがな」
左之はあからさまに怒りを堪えた顔で、斎藤を睨み付け。
弥彦はまだ驚いたまま、立ち尽くしている。
が、斎藤はそんなふたりを歯牙にも掛けず。
淡々と続けた。
「おとなしく待っておけ。
 ちゃんと事後報告はしてやる」
ぎり、と左之助が拳を握った。
その時初めて、斎藤は左之助に視線を向ける。
「ふざけんな・・・っ!
 足手纏いかどうか、拳に聞いてみろよ・・・!」



「で、どうなったの?」
ぽくぽくと下駄を鳴らしながら、恵が聞いてきた。
「ほとんど歯が立たなかったな。
 だからあんたを呼びに来たんだし」
弥彦は不機嫌そうな顔で答える。
ふーん、と人差し指に唇を当てて。
恵は暫し考えるように首を傾げた。
「ほとんど、ねえ。
 ってことはあのバカ左之助はほんの少し見所があったのかしら?」
「・・・まあ、な。
 俺はそう見た」
ふむふむ、と恵は納得したような表情で微笑むと、
「じゃ、今度はあのお嬢ちゃんね」
などと思案顔で首を捻る。
「・・・だな。
 俺じゃダメみたいだから。
 恵から働きかけた方がバ薫にはいいかもしんねえ」
眉間に皺を寄せて弥彦が呟けば、恵は切れ長な瞳を ちょっぴり大きくさせて。
(こんな子にまで心配させて、困った娘(こ)ね)
そっと溜め息を吐いて、ぐるぐると弥彦の頭を撫でた。
「ばっちり、任せなさいな」
そう、約束して。



「蒼紫さまたち、今頃どこで何しているんだろ」
ひょんなことから知り合った娘は、一歩一歩京都に近づく度に 楽しそうに笑った。
巻町操。
四乃森蒼紫に会うために、年端もいかぬ身でひとりあちこちを 訊ね回っているらしい。
「ねえ、まだ教えてくれないの?
 あんた、蒼紫さまをしってるんでしょ?」
「・・・」
剣心は心の中で嘆息した。
できるだけひとりで、誰にも関わらず京都を目指していたのに、 どうしてこんなことになったのか。
しかもよりによって蒼紫の知人とは・・・
蒼紫とその仲間たちを家族のように想っている少女。
しかし蒼紫以外の仲間たちは、すでにこの世に居ない。
(けれど・・・いつかは知ってしまうんだろうな)
それは自分の口からか、他者の口からか。
いっそ全て話しまえば、彼女はどうするだろう。
(・・・蒼紫は俺の命を狙っているんだったな)
森の中、けして歩きやすくはない獣道を。
御庭番衆の話を嬉しそうにしながら、剣心に付いてくる。
おそらく操は、真実を知っても自分につきまとうことは止めまい。
(少し薫殿に似ている)
ふ、と剣心は笑みを漏らした。
この溢れる生命力は、きっと蒼紫にも必要に違いない。
いい形でふたりが再会できればいいのだが。
「ちょっと、緋村!なにぼーっとしてるの?
 お腹空いたんなら一個だけ乾パンあげよっか?」
「いや・・・それよりも先を急がないと」
予定よりも半日ほど遅れていた。
操がくの一といえども、剣心に比べれば 足の速さも劣る。
「何をそんなに急ぐことが・・・」
口を尖らせて愚痴ろうとした操がはっと動きを止めた。
剣心は既に辺りを警戒している。
「こんな山奥で、人の気配・・・?」
操が緊張した面持ちで呟けば、剣心は一足先に其処へ向っていた。
そして、血塗れで瀕死の兄に抱かれた少年と出会い、 新月村のことを知ることになる。



いつの間にか山盛りになっていた艾(もぐさ)に、 血相を変えたのはまさにそれを燃やそうとしてた恵ではなく、 玄斎の方だった。
「恵くんっ!!」
「・・・はい?」
「そ、その量は激しくやばいのではないかね?」
「・・・あら?」
またやってしまった。
我ながら情けないわ。
恵はもう一度艾を指で摘みながら、溜め息を吐く。

―――あの夜の出来事は現(うつつ)だったのか?
薫や弥彦が旅立った後の無人の神谷道場に、あの『四乃森蒼紫』が 現れたことは。
斎藤一が、余裕綽々で志々雄の話を彼に聞かせたことは。
・・・本当だったのだろうか?

(剣さん)

恵の想いのはけ口は、ただ己に向かうのみであったが。
それでも彼女は。
あの小柄な剣客と白梅の女性(ひと)の無事を、祈らずには いられなかった。



「おまえ、船酔いだいじょうぶ、なの・・・か」
やっと云い終えると、弥彦は桶に顔を伏せた。
船がこれほど揺れるものとは存外で、早ふらふらな状態だ。
薫は目的を得たことが精神的に高揚するのか、 しゃんと背筋を伸ばして、あまつさえ弁当を食している。
「武士は喰わねど高楊枝ってあるじゃない」
「・・・はいはい、意味ちげーよ。
 ま、おまえはある意味武士だけ・・・どよ・・・うぷっ!」
船酔いっていうのはこれ程質が悪いものなのか。
弥彦はぐらぐら揺れる脳味噌で考える。
薫のこの強さは。
ある意味迷惑で、そしてある意味勇気づけられる。
ちゃんと剣心に会わせて。
きっちり薫の恋に片を付けてやりたい、と。



何度も山を見つめては、巴は所在なさげな顔をした。
「・・・落ち着かないのか?」
まるでついでのように見せかけて、心配した縁が訊けば、 彼女は「そうね・・・そうかも」と困ったように眉を下げる。
「“あいつ”か・・・」
赤毛の小さな男を回想して、縁は不愉快な気分になった。
「ええ、ごめんなさい・・・その通りよ」
腕組みしながらぼそりと縁は呟く。
「あれは充分強い。
 心配なんか要らぬ世話だろ」
「そうじゃなくて・・・自分から厄介なことに 首を突っ込んでるんじゃないかって・・・」
「・・・」
あり得る。
三日以内に剣心が京都に着かなかった場合、 巴の心配は見事に当たった、というべきろう。
(ちっ、いつまでも姉さんを困らせるとは、イイ根性だ)
心の中で剣心に五寸釘を打ち込みながら、それでも面(おもて)では にこりと縁は笑った。
「姉さん、宿も決めてある。
 少し休んだらいい。
 緋村もそう云うと思うぞ」
「―――そうね」

この子はいつから自分の気持ちを抑えることが出来るようになったのか。
巴はそっと吐息を零す。
剣心に対してきっと腹の内は罵詈雑言に違いないだろうに、 自分の前では“普通”の義弟っぽく振る舞っているつもりらしい。
(これも成長というのかしら・・・?)
小首を傾げつつ、巴は一刻も早く剣心に会いたい、と思うのだった。







京へ一刻も早く辿り着きたい剣心ではあったが、 地図から“消された”村の少年を助けたことで、 巴の考え通りに厄介な事態の真っ最中だった。
後発の斎藤にまで追いつかれ、しかも散々嫌みを云われ。
しかしそこは剣心、滅入ることは一切なかったのだが。
それよりも志々雄の恐怖による統治下で、事なかれ主義に 染まっていた村人の方が気になった。
志々雄真実は、智の面でも手強い。
そう、実感したからだ。
「これが志々雄が造る新時代の日本の姿だ」
斎藤は今にも唾棄しそうな表情で語る。
確かに斎藤のような人間は、志々雄の下では我慢なぞ出来ないだろう。
いや、斎藤の我慢どころか。
「・・・殆どの者が、奴隷扱いか」
果たして。
志々雄と対面した時、剣心はその思いを強くしたのだった。

村を支配していたという尖角を倒した後、 操や少年栄次まで乱入した。
志々雄はあっさりと去ったが、 その場に残った瀬田宗次郎という相手が。
剣心にとって厄介な相手となる。
彼の愛刀を、折られてしまったのだ。

「とっとと人斬りに戻れ」
斎藤は例によって煙草を吹かしながら面倒くさそうにそう云った。
「ないよ」
間髪入れずにあっさりと剣心は否定する。
「ふん、志々雄の側近にすら手こずったくせに」
「・・・おまえは、本当は俺が“人斬り”に戻らないことを 解っているくせにしつこい」
やや離れた所では操と栄次が漫才のような会話を続けていた。
斎藤はふう、と煙を吐き出し横目で剣心を見下ろした。
「そういうおまえも知っているだろう。
 俺は、人斬りのおまえと決着をつけたいんだよ」
剣心はうんざりとした表情で斎藤を見上げる。
「ああ、知ってる。
 だからこの仕事で初めておまえと組んだ時に、釘を刺しただろうが」
「そんな些細なことは覚えとらんな」
ひくり、と剣心のこめかみが動いた。
斎藤はそのことに気づいたが、何の感慨もなさそうだ。
ぷかり、と煙を吐くと「さて、戻るか」と踵を返す。
その時慌てて操が声を上げた。
「・・・ねえ、この子はどうすんの?」
斎藤はやはり無表情のまま視線だけを栄次に向けた。
「ここに置いておくわけにはいくまい。
 ・・・時尾に預けるか」
「時尾?」
初めて聞くその名に操が首を傾げる。
「ああ、斎藤の・・・」
「妻だ」
説明しようとした剣心の言葉をばっさりと切り捨てて、 斎藤はひと言そう述べた。
「え?ええっ!?おくさんっ?」
操は大きな瞳を普段の倍ほども見開いて、 まるで魚のように口をぱくぱくさせ、 信じられないといった顔で斎藤を指差す。
「うそっ!
 あんたの奥さんなんて菩薩様くらいしか務まらないわよ〜!!」
(・・・まったくだ)
操の背中の向こうで、剣心が心の中で頷いた。
(時尾さんはほんとに良くできた人だ・・・斎藤には勿体ない)
うんうん、と感慨深げに首を縦に頷く剣心を ちら、と斎藤が見る。
ふん、と鼻を鳴らすと斎藤はそのまますたすたと歩き出した。
栄次はきょとんとしながらも、慌ててその後を追う。
「この村の件を報告したら、“本番”だ。
 ・・・いいな?」
振り返ることもなくそう云い放った斎藤を、 彼らしいと思いつつ剣心は 苦笑しながら「ああ」と返す。
だが心の奥底では、これから始まるであろう戦いに気が尖っていた。

(出来たらまた闘って下さい)
(新しい刀用意しておいて下さいね)

「・・・また巴に怒られそうだ・・・」
「え?何か云った緋村?」
きょとりと操が振り返る。
蒼紫に逢うために、無鉄砲に飛び出してきた少女。
ふわり、と我知らず笑みがこぼれた。
誰かに雰囲気が似ている。
ああ、薫殿だ。
―――またあそこに戻りたい、巴とともに。
「いや、何でもない・・・さあ、急ごう」

京都に着けば、人を探さなければならない。
悠長に構えては居られなかった。
巴の、柔らかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
いつもいつも、普通の生活をさせてやれずに済まないと思う。
(それでも)
それでも剣心は。
彼女の手を離すことは、微塵も考えれらないのだ―――



「遅い」
仁王立ちで縁は低い声で唸った。
からりと障子を閉めて、巴が振り返る。
剣心の脚力ならば、自分たちとほぼ同時か、もしくは少し早めに 着いても良かった。
しかし待ち合わせの場所に、まだ彼は姿を現さない。
「・・・縁ったら座ったらどう?」
心配ではあるが、巴はそれを面に出さずに縁に微笑みかける。
姉の笑顔に弱い弟は、渋々と彼女の言に従った。
「大体あれは少々厄介ごとに巻き込まれすぎる。
 また余計なことに首を突っ込んでるんじゃないのか?」
姉さんを待たせるとはいい度胸だ。
舌打ちしながら縁はどかりとあぐらを組む。
「そうねえ・・・ほんとに困ったこと」
さらりと頬にかかった髪を耳に掻き上げて。
巴は仕方なさそうに笑った。
「それ、その態度はこういうことに 慣れてるってことかもしれないけど。
 ちゃんと云わなきゃ駄目だよ。
 心配させるな、ってさ」
いい歳をして、むっつり顔で不満を述べる縁に、 巴は「はいはい」と軽くいなすだけだ。
「姉さん・・・!」
「あのね、縁」
苛々して声を張り上げた弟を、柔らかな声で巴は制す。
「全部、全部―――承知の上でわたし達は生きてきたの。
 あなたもわかってるくせに」
むう、と不満を呑み込むような表情(かお)で、 縁が口を完全に閉じる。
(ああ、そうさ知ってるさ)
剣心と巴が選択した生き方は平坦ではなく、むしろ険しく。
それでもふたりは幸せだと断言する。
大事な大事な姉は、幼い頃には見たこともなかった笑顔を浮かべる。
(・・・ふん)
悔しいとか妬けるとか。
縁の心情はそんな言葉で近しく表せるのだろうけれど。
本人はけして認めることはないだろう。
「全く、姉さんは苛烈だ。
 この歳になって、ようやくわかった」
え?と軽く巴が目を瞠ったが、縁はにやにやと意地の悪い 笑いを浮かべてその先を答えようとはしなかった。

昔、自分や親父を振り切って京都へ行ってしまった姉。
その柔な細腕で仇を取ろうとした姉。
いつの間にか仇を愛して、彼を生かそうと自分の身体を 投げ出した、姉。
変わることの少なかった表情の裡(うち)に、 なんて激しく熱いものを秘めていたのか。
(女は怖い)
皮肉にも縁は姉によってその事を知ってしまった。



「どうしてついてくるのか、訊いてもいいか?」
「だって気になるじゃない!
 せっかく葵屋で泊まれば、って爺やも云ってるのに。
 なんでわざわざこんなトコにくるのさあ?」
「・・・約束があるんだ」
「明日でもいいのにこんな夜中に何を急ぐの?」
「操殿・・・」

操の云う『爺や』は実は「翁」と呼ばれたお庭番だった。
剣心がかつて人斬り抜刀斎であったこともすぐにわかったようだ。
蒼紫たち御庭番衆の顛末を彼に語り、操を無事送り届けたことで 剣心はそこを立ち去ろうとしたのだ。
しかし。

「ねえねえねえ、約束とか済ませちゃったら葵屋においでよ。
 爺やも全面協力するって云ってるし」
「だが・・・」
「新しい刀、必要なんでしょ?」
「うっ」
「緋村の刀、そんじょそこらの鍛冶師じゃ打てないよね?」
痛いところを突いてくる。
我知らず眉間に皺を寄せて剣心は考え込んだ。
折れてしまった逆刃刀は刀匠新井赤空が造ったものだ。
おそらく彼は京都にいるとは思うが、それでも今の居所を探し出すのは 確かに剣心ひとりでは重荷だ。
けれど翁や操を志々雄との闘いに巻き込んでしまうことを、剣心は 是としなかった。
「・・・緋村ぁ、遠慮なんかしなくてもいいのに」
「操殿」
「爺やもそう云ってたし、あの爺やを見れば緋村の遠慮なんか 吹っ飛ぶってもんだし」
「・・・反論できない・・・」
全くもってそうだろう。
翁は操とよく似ていた。
こうと云ったらテコでも動かないだろう。
はあ、と剣心は軽く息を吐いた。
操は緋村って頑固よね、とぶつぶつ云っていたが やがてぴたりと足を止めた。
「あ、あそこの宿屋だよ。
 緋村の目的地」
「ああ―――」
昔、小萩屋があった場所からそう遠くない宿屋。
剣心と巴で決めた、待ち合わせ場所だ。
そそくさと操は剣心を追い抜いて歩き始める。
この先にいる、剣心の待ち合わせ人が気になるからだ。
(緋村を待ってる人って誰だろ?
 やっぱ剣術に長けてるのかな。
 だとしたら、蒼紫さまの情報も出てくるかも)
そんなことを思いながら、宿屋の看板まで近づいた時。
いきなり男が彼女の目の前に立ち塞がり、「遅いっ!!」と一喝した。
「う、わああああ!」
びっくりした操は数歩後退り、剣心はいやあな顔をして 足を止めている。
「姉さんをこんなに待たせるとはっ!!
 緋村、おまえ何やってたんだっ!」
―――縁のこめかみには、青筋が浮いていた。
(こ、この無礼なヤツが緋村の待ち人!?)
冷や汗を流しながら操は剣心と縁の顔を交互に見る。
(あ、でもこのメガネ、姉さんって云ってた・・・姉さん!?)
せっせとふたりの顔を見比べながら、操は考えた。
(姉ってことは女性よね?
 だあああっ!緋村ったらこんな害なさそうな顔して女と!
 この大事な事態に待ち合わせ!?)
眼を白黒させている、そんな彼女に構うことなく。
縁はずかずかと剣心に近づくとぼきり、と指を鳴らした。
「どこで油売ってた、緋村?」
返答次第ではすぐにぶん殴られそうな雰囲気だが、 剣心は臆することなく「うるさい」と返す。
・・・操の目にその瞬間、びしびしと巨大な氷柱(つらら)が 幾層にも映った。
(こ、こわい・・・っ!)
なんか緋村って尖角と闘(や)ってた時より、怖くない!?
などと冷静に観察しつつ、操はそろそろと後退を続ける。
本能が危険を告げているのだ。
「おい、云い訳なら今のうちに聞いてやるぞ?」
「“おまえ”に云うことは何もないが?」
びゅおおおお。
―――殺人的な吹雪だ。
「毎度毎度反省というものを知らないらしいナ」
「・・・小舅・・・」
「ああ!?おまえは嫁か!?」

ビキビキビキ。

(今割れた音がしたよっ)
(数尺くらい分厚い氷が割れたって!!)
操は完全に恐慌状態に陥っていた。
(神さま仏さま蒼紫さま〜〜〜っ)
しかして。
操の祈りは通じたのだ。

「こんな時刻に、何を云い争ってるんですか?」

どどどどど。
操の鼓膜に一気に水の流れる音が響く。
これはふたりの男の間に横たわっていた氷河が一気に 溶けてゆく音だ。
(は、春だ・・・春が来たんだ!!)
ぐっと拳を握り、操は天の助けとも思われた声の方へ 礼を云おうと振り向いた。
「あ、あの・・・っ!ありが」
「ごめん巴!遅くなった!!」
「へ?」
「姉さん・・・」
「へ?」

―――天の助けは、巴であった。



ずずずーっ
年頃の女の子は、思い切り音を立てて茶を啜った。
彼女の目の前には、黒髪の美しい飛びきりの美女。
その美女の左手側にはメガネの青年。
右手側には剣心が胡座を組んでいる。
男たちは相変わらず視線さえ合わそうとはしていなかった。
(それにしても)
端から見ればついからかいたくなる男たちを眺めながら、 操はまた茶を啜った。
(こんな美人が、緋村の奥さんだなんて)
道理でわたしにひとつも靡かなかったわけね、とひとり彼女は 頷く。
(まあ、一番の驚きは)
不機嫌そうに眉間に皺を寄せている男の、その顔を。
睨むように操は凝視した。
(こいつ三十路前!?
 この顔で、この体格で、あの爽やかな笑顔で!?)
なんだか年齢とは関係のないものまで混じっているが、 当然彼女は気にしない。
(まさか蒼紫さまより年上だなんて・・・詐欺よ!
 これは詐欺だわ!!)
「操殿・・・視線が痛い」
それまでかなり我慢していた剣心が、とうとう音を上げて がくりと肩を落とした。
巴が彼女の前に現れてからというもの、 まるで珍しい動物でも観察するかのようにギンギンに 睨まれ続けられると、どうにも居心地が悪すぎる。
はあ、と嘆息してちらと横を見遣れば。
巴が小さく肩を震わせて―――笑っていた。
「大方の話はわかりました。
 いろいろありがとう、操さん」
巴が柔らかな口調でそう礼を述べると、 ようやく操は剣心から視線を外して「いえいえ」と 右手を軽く振る。
「さっきも緋村に散々云ってたんですけど、 あたし達、協力しますから!
 遠慮なく甘えて下さい!!」
「操さん・・・」
巴はとびきりの優しい微笑みを浮かべた。
なんて可愛いんだろう。
・・・剣心の周りには、 なんて素敵な人達が集まるのだろう。
「操さん、ありがとうございます。
 そうですね、何かと京都の方々のお力添えは必要と なるでしょう。
 緋村もそれは重々承知しているはずですけど・・・」
「ああ、ううん、そうよね!
 緋村って自分からそんなこと頼まない感じですよね〜。
 わかりました!
 勝手にやらせてもらいます」
「まあ、頼もしい」
「そりゃあそうですって!」
にこやかに巴は操の話を聞いている。
俺には関係ない、といった表情(かお)をしていた縁も、 女たちの意味不明な会話がぽんぽん弾んでいる気がして。
こっそり面食らっていたりしていた。
「巴・・・操殿」
たまらず口を挟んだのは剣心だ。
「今夜はもう遅い。
 細かいことは明日にしないか?」
「そうですね、わたしったらうっかり・・・」
巴も素早く相づちを打つ。
さすが夫婦、などと縁は断じて認めはしないが。
「おまえひとりくらい部屋も取れるだろう。
 交渉してやる、来い」
縁は面倒くさそうに立ち上がると、すたすたと敷居を跨いで部屋を出た。
とんとん拍子で丸め込まれた形になった操は「じゃ、そうします」と にこりと笑って。
ぶんぶんと剣心と巴に手を振って縁の後を付いていった。
ぴょんぴょんとまるで跳ねるように操は縁に続いて階段を降りる。
「ふたりっきりにしてあげるんだー」
「・・・・・・」
「無愛想なくせに気が利くんだね!」
「・・・・・・」
「まあ、おねーさんの為だけって感じだけど?」
「それ以上喋ると、斬る」
「あっはっはー」
女は嫌いだ、と縁は盛大に眉を顰めた。
大概の女は、こういう時だけやけに敏感なのだ。
全く腹の立つ。
―――無言の縁の背を眺めて、操は悪戯っ子のように喉だけで笑った。



操が去っただけで、その部屋には静寂が訪れた。
なんとなくこほん、と剣心が空咳をすると、巴が小さく笑って 「お茶淹れましょうか?」と話しかける。
剣心は照れたように己の首筋を指でなぞりながら頷いた。
「・・・いろいろあったようですね」
茶葉の香りが、心地よかった。
巴の傍が、心地よかった。
思わず剣心は素直に認める。
「ああ、正直に云えば予測よりひどかった」
巴は軽く目を伏せた。
自分たちが出逢った、この場所(まち)で。
“抜刀斎”の“後輩”である『志々雄真実』を止める。
一筋縄ではいかないことは承知していたが、愛刀が折れる事態に なってしまったのだ。
巴は程よく温んだ茶を剣心に手渡すと、さり気なく 彼の左側に座り直した。
「・・・逆刃刀もそうですけど、四乃森蒼紫のことが気に掛かるのでは?」
やや抑えた声で、巴が問う。
ぱち、と音がしそうな程剣心は大きく瞬きして。
まいったな、といった風情で頭を掻いた。
「操殿が彼の所在を探していると云った。
 それだけでわかったのか?」
「そうですね・・・なんとなく、ですけれど。
 蒼紫の件に触れた時、とても愛おしい表情(かお)をされました。
 あんなに元気で明るい少女の、どこに隠れているのかと 思うくらいに」
剣心は少年のように膝を抱えて、己の膝頭をじっと見た。
「そうだよな、俺もびっくりした。
 彼女が蒼紫の知り合いだということよりも、蒼紫に恋をしていることが」
蒼紫は、どう生きるつもりだろう。
俺を殺すまで、ただその事のみを考えて。
―――ひたすら、その事のみを。
まるでそれは。
昔の自分を見ているようだ。
「・・・大丈夫ですよ」
巴の指がそっと剣心の右手に触れた。
「大丈夫。
 あなたが無意識に蒼紫の中に見出したものは、きっと 間違いありません。
 ・・・彼は立ち直ることの出来る人間でしょう」
「うん・・・」
ふたりの手は離れることなく、むしろ固く固く、 力が込められてゆく。
「あなたは、彼にそれを示さねばなりません。
 あなたは・・・蒼紫に約束したんですよ?」
剣心はゆるりと顔をあげ。
ひた、とその琥珀の瞳に巴を映す。
「迷わないで。
 進んでください。
 わたしは」
剣心がやや苦しげに眉を寄せた。
「わたしは―――ちゃんと見届けますから」
僅かに、剣心の唇が開く。
だがそれは微かな息を呑み込みすぐに閉じられた。
巴は視線を反らさない。
そして剣心が反らすことを許さなかった。
剣心の左の手のひらが。
ゆっくりと巴の頬に触れる。
「君が・・・」
吐き出された言葉は、低く。
けれど熱く。
「君が、居れば俺は」
巴が酷く優しい微笑みを返し。
そのまま剣心は彼女を自分の両腕に閉じこめた。



額に、目蓋に、頬に、幾度も幾度も唇を落とす。
やがて互いの吐息が交わるほど唇と唇を寄せた。
剣心が舌先で、巴の唇を舐めれば。
呼応するかのように巴がうっすらと口を開く。
ふたつの赤い舌が遊ぶように触れあい、やがて摺り合わせるように 絡んだ。
「ん・・・ん・・・っ」
慣れているはずなのに、息苦しくて。
巴が小さく首を振った。
それでもお構いなしに剣心は、彼女の口腔を貪り続ける。
くちゅり、と耳を覆いたくなる音を妨げることすら叶わなくて。
巴は力なく剣心を肩を押した。
「・・・は、ふぅ・・・」
それに気づいて、ようやく剣心は巴の舌と唇を解放した。
顎まで滴るどちらの物ともつかない、唾液を右の親指で拭う。
目元をうっすらと赤く染めた巴の、その艶やかな表情(かお)を 見つめながら。
くすりと剣心は笑みを漏らした。
「今日は我慢して、これだけにする」
「・・・」
ぷくりと僅かではあるけれど、巴が頬を膨らませた。
「なに?」
相変わらずにこやかなままで剣心が訊ねれば、 ぐいぐいと巴はその白い指で、剣心の顎先をお返しとばかりに拭う。
「本当は疲れてらっしゃるくせに・・・!
 全くあなたは、減らず口ばかり」
「そういうけれど、俺は今も君が欲しくてたまらないんだけど」
細い首筋に唇を滑らせて。
きつく吸い上げれば紅い痕。
巴はちり、とした痛みに疼くような喜びを覚えながら、剣心の やや乱れた髪を掻き上げた。
「・・・もっと・・・」
喘ぐような息で、はっきりと剣心の耳に告げる。
「もっと、欲しい・・・です。
 わたしもあなた、が欲しい」
甘い囁きに、知らず剣心の熱が高まってゆく。
巴はぐいと強く両肩を引かれて、剣心の懐に抱き込まれた。
「・・・っ・・・バカ。
 煽ってるの?」
一瞬巴の動きが固まって、彼女は大きな瞳を熱に浮かされたかのように 潤ませる。
「―――です」
「え?」
消え細るような声が聞き取れず、剣心はうっかりと聞き直してしまった。
巴は首筋まで赤くさせると、顔を上げてはっきりと告げる。
「そう、かもしれないですって云ったんです!」
ぎゅっと巴は揺れる剣心の髪の先を掴んだ。
手繰り寄せれば簡単に剣心と巴の顔が触れあうほどに近づいた。
ちゅ、と軽く唇を合わせ。
そのまま彼女は、彼の首筋に噛み付く。
まるで先ほどの仕返しといったように。
「と、もえ・・・」
困ったように剣心は空いた手のひらで目を覆った。
「あのさ、俺我慢してるって云ったよね?」
「忘れました」
「・・・・・・」
数瞬の沈黙の後。
剣心は巴の裾を割って、するりと右手を滑らせる。
「あ、」
「声を上げそうになったら、噛み付いてもいいから」
腰や大腿を這い回る手のひらの感覚に、 きゅっと巴は唇を噛む。
自分の身体が、歓喜で満たされてゆくのが彼女にはわかった。

逢いたかった、触れたかった、触れて、欲しかった―――

「我が儘、ですけれどわたし・・・は、あ、ああっ」
剣心は巴の声を堰き止めるかのように、その唇を塞ぐ。
「そうだ、ね。
 お互い様、かな?」
己のくすりとした笑いも、彼女の唇の奥に沈めて。
巧みに動く彼の指先はそのまま、巴の深い部分を穿ってゆく。
「ん、ん・・・っ」
ぬるりとした感触を確かめながら。
彼女の帯も緩めずに、剣心はやがて腰を彼女の足の間に割り込ませた。
「・・・苦しかったら、云って?」
「あ!あぁ・・・っ!!」
普段より性急に、剣心が巴の中に身を沈めた。
思わず上げた声を抑えようと、巴は無意識に己の指を噛もうとする。
しかしそれより早く。
剣心がするりと親指を彼女の口腔に差し入れた。
「んん・・・っ」
「いいから、噛んで。
 まだきつくなるから」
「ふっ、ん・・・ん・・・」
ぐっと結合を深めると、巴の遠慮は快楽の波に攫われてゆく。
剣心も巴も、殆ど衣服を乱さずに。
ただ身体を密着させて抱き合った。
「・・・っ、ん、ふっ・・・」
強く揺さぶられる度に、嬌声があがりそうになる。
反射的に声を抑えようとした巴の白い歯が、 ぐっと剣心の指を噛み締めた。
「・・・つぅ」
想像以上の力に剣心が微かに顔を顰める。
だが身体はそんなことはお構いなしに動き続け。
彼女に快楽を与え続けた。
こんな力で噛み締めさせるほど、彼女を狂わせているのが 自分だと思うと、剣心は指の痛みさえどこか嬉しく感じていた。

「もっと・・・もっと啼いて」
君の声は俺が受け止めるから。
「全部、俺に・・・っ」
君が俺を受け入れたその感覚の奔流の全てを。

「ん、ん、ふぁっ」
仰け反り白い首を晒して。
巴が上り詰める。
剣心がうっすらと鬱血した指を抜いて、空かさず 唇を押し当てた。
腕はそのまま彼女の腰に回って、痛いほどに 抱き竦める。
「は・・・ぅ」
彼女が呼吸を求めるのも許さずに、深く強く舌を吸い上げた。
剣心が、己の奥へ奥へ穿ってくる感覚に、 巴の背がぐ、と反る。
「・・・っ!!」
そのまま声は口づけに呑まれて。
くたりとふたりの身体から力が抜けていった。

―――ぺろりと巴の唇を舐めあげて、剣心はまだその身体を 離そうとはしない。
汗ばんだ額を優しく撫で「ごめん」と小さな声で謝る。
巴は真っ黒な瞳をゆるゆると動かして、剣心を見上げた。
「・・・違いますよ、無理を云ったのはわたしなのですから、 わたしが謝る立場です」
剣心は目を瞬かせて。
困ったようにこつりと自分の額を、彼女の額に押し当てた。
「いや、だって・・・こういう体勢、辛かっただろ?」
「え・・・」
「だから、布団敷いてなくて殆ど脱がさなくて声も出させなくて」
早口でぼそぼそ喋るのはきっと照れがあるからなのだろう。
巴はくすりと笑って、小さな舌で剣心の唇を舐め返してみせた。
「そう、ですね。
 ちょっとぞくぞくしました」
「ぞく・・・?」
ふふ、と吐息で笑って。
巴は「わからなくて、いいです」とまるで謎かけのような返事をする。
剣心は彼女のこんなところはいつまで理解できないもの、と 諦めているのか。
納得いかない表情をしつつ「ふうん」と相づちを打った。
彼はもう一度ぎゅっと巴を抱き締めて。
「あと少ししたら、ちゃんと綺麗にするから、このままで居させて」
そう囁きながら、彼女の白い貝殻のような耳朶を噛む。
くすぐったそうに身を捩って、それでも巴はとても 幸せそうに微笑んだ。
「しかたない、ですね・・・いいですよ」

嘘。
こんなみっともない格好なのに。
離れがたくて、動けないのはわたしの方。

汗の匂い、擦り切れた古畳、自分たちの熱の残滓。
とても、心地よかった。



「あれえ?」
軽く湯浴みして、操がふと格子の向こうを見遣れば。
雪代縁の姿が、夜の闇に紛れて在った。
(こんな夜更けに何やってるのかしら?)
軽く首を捻ったものの、それ以上操は気に止めることもなく。
そのまま床に就くことにした。
縁といえば、ぶらぶらしながらふと目に入った 宿の近くの屋台で、蕎麦を啜っている。
(・・・今頃いちゃついてるのか・・・)
うっかり蕎麦を見つめる目が、ギン!と鋭くなってはいたが、 幸いそれは屋台の主人にしか知られることはなかった。