「花」

風もないのに次から次に舞い落ちてゆく 紅い楓の葉を指さして彼女は『花』と形容した。
そうかもしれない、と茜は思う。
こんなに綺麗なんだもの。
まるで花弁(はなびら)の様。
風に舞う雪を風花というように、飛び散る火を火花というように、 綺麗なものには“花”っていう言葉がよく似合う・・・。

ぼんやり茜がそんなことを考えていると彼女はぐいと茜の袖を引っ張り 今度は散り積もった紅い葉を茜の頭上に降りかけた。

「・・・」
言葉が一瞬出ない茜の顔を覗き込んでにこりと笑う。

「花、たくさん・・・」



あれは比企の乱のすぐ後だった。
茜の勤める館の主、北條時房がこう言った。
「茜、済まないが彼女の面倒を見てやってくれないか」

かしこまっていた茜が顔を上げると時房の背中に隠れて 一人の女性が自分の顔をじっと見ている。
まるで子供が初めて見る大人を値踏みするような視線。

(この人が比企の生き残りの姫・・・)

巷ではすでにうるさいほどの評判だった。
鎌倉幕府二代将軍頼家と謀反を企んだ廉で滅ぼされた比企一族。
その中でたった一人生き残った姫がいる。
・・・彼女は尼御台北條政子の末弟時房と恋仲だった。

(そう、確か―――唯、といった・・・
 でもなんだろう?どこか変な感じ・・・)
そんなことを考えていると、なかなか返事をしない 茜に焦れたのか時房が言葉を継いだ。

「・・・茜、すぐにとはいわない。
 よく考えてみてくれ。
 事情はもうあらかた知っているだろうし、
 なにより・・・」
少し言いづらそうにして、時房は唯の細い右手を握った。
「唯は、普通の状態じゃない」

「お館さま・・・」

そうか。そうなのだ。
茜が感じたもの。唯の瞳だ。
彼女はこちらを一切見てはいないのだ。
現実の世界を。

「わかりました。お任せください」
全てを理解して茜は唯のことを引き受けた。

北條時房という人物を茜は心から信頼している。
人当たりが良くて物腰も柔らかい彼は茜達侍女の間でも 評判の人気者だ。
しかも茜は時房が今をときめく北條一族で在りながら、いつも真摯な態度で茜達に 接してくれていることもよく知っていた。

時房の頼みならば、彼が選んだ女性(ひと)ならば。

「お館さまはなにも心配なさらずに・・・」
深々と茜は頭を下げた。

其れを見て時房は安心したかのようにほっと息をつく。
「ありがとう」
そういって笑う時房の、子供のような顔が茜は好きだった。





時房は唯との時間を大事にしていた。
どんなに忙しくてもできるだけ唯の側に居るようにした。

それは罪滅ぼしだったのか。
彼女の一族を救えなかったという。
彼女の大好きだった兄を自分の手で斬ってしまったという。
それとも
悲劇を止めることの出来なかった無力な己を責めているのか。

由比ヶ浜は今日も静かで波も穏やかだ。
けれど時房は思う。
ここは幾つもの悲劇があった場所。
そしてこれから幾つの悲劇が起こるだろう。

彼の明るい色の髪の毛を海風が揺らした。
波に反射する夕陽のひかりに眼を細める。
唯の小さな笑い声。
時房は彼女の肩をそっと抱いた。
そして最早唯の耳には届かないであろう言葉を、 それでもゆっくりと彼女に語りかける。

「唯。俺がもし北條でなければどんなに良かっただろう。
 もし君が比企の姫でなかったら
 俺達はもっと幸せになれたかもしれないね。
 でも俺は知っている。
 俺は既に北條時房で俺に与えられた道を歩いて行かな
 きゃならない。
 だから、俺は北條であることを後悔はできない
 ・・・って」

さらさらと指の隙間から流れる砂を楽しそうに唯は見ている。
「時房さま」
現在(いま)の彼女に残された、たったひとつの言葉を囁いて彼に笑いかける。
時房も優しく微笑み返した。

彼も既に齢三十に近い。
いずれ政権の中枢を担うことになるだろう。
虚実の入り交じる底なしの世界へ足を踏み入れて、そこで生きてゆかねば ならない。

けれども彼はたったひとつの真実を手にしている。
それが彼の支え。
彼の糧。

「唯」
君を愛してる。





時房と唯は二年余りで終焉を迎えた。
あっけなく亡くなってしまった茜の『お方さま』は 最期に正気を取り戻した。

「弱くならないで」

それが、時房に遺された言葉。

「時房さまに会うためにきたの。
 泣かないで。
 弱くならないで」


その後、時房はしばらく動かなかった。
そして出仕もしないで館に籠もる日々が続いた。

けれど、それでも彼はやがて立ち上がるのだろう。
几帳の陰から覗く彼の背中を見て茜は思う。
何度も何度も辛酸をなめながら時房はそれでも立ち上がってゆくのだろう。
彼が手に入れた真実の為に。
彼が愛した女性(ひと)の為に。


茜は川を流れてゆく椿の花を見た。
童女のように笑っていた唯。
・・・茜は彼女が好きだった。

ぼんやりと茜は椿の流れてゆく先を眺めた。
冷たい風が身体を震わせる。


決められた季節にしか咲けない花。
短い間しか咲き誇れない花。
それでも鮮烈な輝きを残して―――――