蒼紫篇(前)/10

「どうして、それ、が出来なかったの・・・ですか?」
巴の漆黒の瞳に、恵の泣き出しそうな顔が映り込んだ。
ふ、と巴は表情を和らげると口元に微笑みを浮かべる。
「・・・生きたい、と思ったからよ」

恵が驚いたようにぴくり、と肩を揺らした。
『生』と『死』の狭間を行きつ戻りつして。
彼女はどうやって『生』に辿り着いたのか。
巴はまるで囁くかのように、次の言葉を綴った。
「彼が、逝くな、と泣いたから」

ふふふ、と巴は小さく笑うと完全に手を止めて恵を正面から 見据えた。
「酷い女、だったのよ。
 肉親を捨て、自分を捨て、人の命を・・・屠ろうとした。
 生きていく執着もなくて。
 いつ死んだっていい、と思ってたわ」
この人に似つかわしくない言葉だ、と恵は思った。
けれど彼女は。
まるで感情の起伏を感じさせない口調で話したから。
却って真実だったのだろう、と。
そう・・・思った。
「それなのに、彼に呼ばれたら。
 生きたい、と願った。
 ただの言葉、のはずだったのに。
 ・・・そんな風にとても強く響くことがあるって 初めて知ったわ」
よくは、解らない。
恵はそれでも彼―――剣心と巴の辿ってきた道の、険しさと特異さに ざわりと鳥肌を立てた。
「・・・さあ、出来た。
 持って行きましょうか?」
黒塗りの盆に、刺身を盛りつけた皿を載せて、巴が笑う。
「わたしが運びます」
少しぎこちなく笑い返して。
恵はその盆を両手で掴む。

(この人のように)
(わたしも前を向いて生きていこうと思えるようになるのかしら?)
(わたしなんかに)
(阿片でたくさんの人を苦しめたわたしなんかに)
(“生きろ”なんて―――)



恵が生きようと決意するきっかけの“響く言葉”が。
奇しくも剣心が発したものであったことは、観柳事件が解決する時の話になる。
蒼紫篇(前)・完
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