心酔、と喩えても良かっただろう。
巴は沙(すな)の国の第一皇女(おうじょ)であり、女性の 身でありながら皇帝を継承するであろうとも云われていた。
皇族も臣下も   民衆でさえ、そのことを 当然と捉えていた。
疑問や反対の声はあまりに微かで、 挙がったとしてもあっという間に掻き消される。
美しく聡明で、優しい皇女。

この、端(はた)から見れば異常な程の、“国”の巴への執着。
これが『沙』という大国の衰退の徴(しるし)だと。
気づいたのはほんの一握りの人々だけであった         .





「縁」
木陰で寝そべっている少年を、お下げ髪の少女が呼んだ。
「何だ・・・?俺は眠いんだ」
ぴょこりと操は彼の傍で膝を折ると、その細い首を傾げて問うた。
「ねえ、剣心知らない?
 おじーちゃん・・・翁(おきな)が呼んでるんだけど」
操の向こうから差す光が眩しくて。
縁は目を眇める。
「は、俺の知ったことか」
「なにさ、あたし知ってるんだから。
 縁は剣心のこと、かなり気にしてるでしょ?
 それこそ一挙手一投足に反応してるもんね」
「おまえ・・・っ!」
むっとして身体を起こした縁の額を、操はぴん、と 人差し指で弾いた。
「・・・何か事情はあるとは思うんだけどさ、 あたしだって縁に協力はするよ?
 訊かれたくないなら理由なんて云わなくていいから」
「・・・」
むすりと唇を引き結んで。
縁はのろりと立ち上がると、すいと小高い丘を指差す。
濃い緑の稜線は黒い木陰と相俟って、ぼんやりしていた。
「あいつはあの下辺りだろう。
 『龍の郷(さと)』でもよくみられる、灌木の群生があるしな。
 今朝もふらふらあの辺りを歩いてたぞ」
「うん・・・ありがと」
ふわりと操が微笑むと、ぷいと縁は顔を反らした。
あ、照れてるんだ。
操は自分に背を向けている縁にわからないように。
楽しそうな顔をして走り出した。
遠ざかる彼女の足音を確認して。
縁は小さく息を吐き出すと、年齢の割に大人びた風貌を歪める。
「俺、は・・・」

あんなヤツ、放っておけばいい。
現在(いま)の自分には何の関わりも無いはずなのに。
あの男が『彼女』と『自分』をまた近づけてゆくようで。
ざわり、と背に奔る悪寒に。
縁は暖かな日差しを浴びながら。
己の身体を抱き締めた。



翁は、長めの顎髭を撫でつけながら、にこやかに剣心を 迎え入れた。
「おお、傷の方はどうですかの?
 動くことに痛みはありませぬか?」
剣心は人の好さそうな老人の言葉に、軽く会釈しながら腰を下ろす。
ぎしりと古びた床が鳴った。
「おかげさまで・・・明日にでもここを発てそうです。
 本当にありがとうございました」
実際感謝してもし足りない。
年齢にしては小柄な痩躯を、深く折り曲げ。
剣心は改めて礼を述べる。
翁は目を細め「いやいや気になさるな」と笑いながら、 彼の肩を叩いた。
「それよりも剣心どの」
「・・・はい」
「わしも伊達にこの村を統括してるわけでもありませんでな。
 お主のことも、あなたが探しておられるお方のことも、 多少の事情は心得ております」
「・・・・・・」
剣心は項垂れたまま、翁の言葉を聞いている。
「ですからあなたがここを出て行かれることを、けして 引き留めることなぞ致しませぬが」
翁はそこで手元の湯飲みを掴んで喉を潤した。
剣心はゆるりと顔を上げて、その深く皺に刻まれた翁の 目尻を見る。
郷では、その過酷な環境の為か殆どの者が長生きできなかった。
緩やかな大河を思わせるその気質に、剣心はどこか 安らぐものを覚える。
翁のような人間が、郷に数人でも居れば。
その人生の知識と経験でもって、もっと穏やかに『龍の郷』が 進むべき道を示してくれたのかもしれない。
所詮考えても詮無いことだが、たった数日の滞在でこの村が とても住みやすい場所であることを剣心は実感していた。
翁は再び顎髭を撫でつけながら、心地よい声音で 剣心に口を開いた。
「剣心どの。
 わしはあなたがこれからどうされようと、それを阻む権利はありませぬ。
 ただ・・・もしも全てが終わって、 あなたが“帰りたい”と思われたら。
 わしはいつでも“ここ”で歓迎いたします」
「・・・っ」
ふるりと震えた剣心の目蓋が。
彼の動揺を伝えていた。
年齢に相応しい表情が、ぽろりと零れたようだ。
翁はささやかな痛みを胸に覚えながら、それを見つめていた。
(こんな若い者が・・・)
その能力故に郷を守るために戦い。
そして禁断の恋に溺れて、郷からも沙からも追われる。
何かが、狂っているのは翁にも解っていた。
もたらす利もほぼ皆無だというのに『沙』が『龍の郷』を攻めたこと。
呼応するかのように『湖(うみ)』や『樹(じゅ)』といった 大国も己の領土を拡げるための戦いを頻繁に始めたこと。
乱立した国同士が争い。
世界が混沌に陥る。
これはまるで          ・・・

翁はそこまで考えて、一度頭(かぶり)を振った。
所詮己の存在は小さい。
たったひとつの波紋が連鎖して、数え切れない波紋を呼んでいるが、 自分はそこから外れている。
ただそのさざ波の影響を受けるだけだ。
しかし目の前の少年と云ってもいい彼は。
そのどれかの波紋の中心に居る。
うっすらとその事を感じてはいるのだろう。
剣心の瞳には、不安定で頼りない曇りのようなものが 時折窺えた。
翁は孫と呼べる程の青年へ、慈愛のような眼差しを注ぐ。
「よろしいか?
 帰りたい、と思えばいつでもいいのです。
 遠慮なんぞ要りませぬから」
膝の上で固く震える剣心の拳を見ながら。
翁は念を押すようにそう言葉を紡いだ。





その女性は未だ昏々と眠り続ける。
ぬばたまの髪。
ほんのりと紅い唇。
透き通るような柔肌。
その白い目蓋を持ち上げれば、どれ程の輝きを持つ 瞳が現れるのか、想像に難くはなかった。
冷たい石牢の奥の寝台で眠る、たおやかな女性の 整った貌(かお)を。
薫はただ凝視していた。
わたしとは違う。
それだけはわかる。
同じ黒髪で、同じ黒い瞳で、同じ肌の色で。
・・・それなのに。
(剣心は、この女を選んだ)
この女性の、何に惹かれたというのだろう?
どうしてわたしでは引き留められなかったのだろう?
わからない。
理解できない。
知りたく、ない。
「・・・・・・」
しゃら、と髪飾りの揺れる音がした。
薫はその指先を、眠り続ける女性の首へと伸ばす。
「あなたさえ、居なければ・・・」

剣心は、この郷に必要なの。
剣心は、わたしに必要なの。
取らないで。
盗らないで。
何故あなたなの?
何故あなたと剣心なの?
      何故わたしは、剣心なの?

「・・・ふっ」
伸ばした腕から一気に力が抜けた。
だらりとぶら下がった指先は、まるで今の自分のようだ、と 薫は思った。
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