秋の訪れは駆け足で、ついこの間まで温んでいた清水もはっとした冷たさを 感じさせるようになっていた。
一昨日辺りからさらさらと霧雨が降り続き、しっとりとした空気を衣類が含んで。
気分的な暗さと重なって、くったりと張りつき鬱陶しい。

「巴さん」
「はい?」
「・・・少し疲れてるんじゃないか?」
「どうしてですか」

この秋雨で薬草があまり手に入らず、剣心は専ら畑仕事に精を出している。
こびり付いた泥を、切り藁で刮ぎ落としながら。
彼は巴の方を見ずに答えた。

「なんとなく、そんな感じがするから」
「・・・そうですか。
 きっとここ暫くのお天気のせいですよ」
「そう、かな」

ぱしゃ、ぱしゃ、と手水(ちょうず)の跳ねる音。
剣心はやはり巴の方を見返らないが、彼女の息づかいや気色を 敏感に覚っているように思えた。

そんなに疲れたような顔をしているかしら、と巴はほぼ無意識に 己の額を手のひらで覆った。
熱っぽいと言われればそうかもしれないし、 変わりないと言われればそうかもしれない。
まるで薄皮を通したような、鈍い感覚。

―――おかしい。

やっと思考がそう至った瞬間、ぐらりと身体が崩れた。
床に叩き付けられる衝撃を覚悟して固く目を閉じる。
しかし予想に反して巴はがっしりと支えられていた。
「・・・やはりな」
呆れたように剣心が小さく息を吐き。
眼(まなこ)を大きく開いて巴がそれを凝視した。
「目が潤みっぱなしで、所作もどこか鈍ってた。
 気が付かなかったのか?」
「・・・・・・・・・はい・・・」
剣心は小さく笑ったが、直ぐさま厳しい顔つきになった。
「思ったより、熱い。
 早く休んだ方が良い」
膝裏にするりと腕が回ったかと思うとふわりと身体が浮き上がって、 そのまま抱きかかえあげられた。
こんなに線の細い人なのに、どこに力があるんだろう、と巴は霞む視界の中で考える。
・・・刀をあれだけ自在に操るのだ、生半可な筋力ではないだろう。
皮肉めいたように唇を微かに吊り上げて。
そこで巴の意識は途絶えた。



夜半に入って、熱は酷く高くなった。
煎じた薬も効き目が速効ではないといえ。
募る不安に剣心は苛立つ。

「・・・慣れない生活がつづいたもんな」
彼女の額に、汗で張りついた髪をそっと掻き上げた。
「巻き込んだのは、俺だし。
 一緒に暮らそう、って言ったのも俺だし」
形のいい唇から、熱い息が繰り返される。
額の手拭いを替えて、別の乾いたそれで首筋の汗を拭った。
「ちゃんと、祝言して。
 ふたりで営んで」
細い左手をそっと握れば、はっきりと彼女を蝕む熱が感じ取れた。
「・・・だけど、巴さん」

君は、何も言ってくれてはいないよ?
ただ、頷いてくれただけ。
無口な君だから、優しい君だから。
それを君の意思表示として受け取ってきたけど。

「巴・・・さん」

君は、己のことを何も言わない。
ただ、俺の『鞘』になっていてくれてる。
それは強靱な決意と意志ががなければできないことで。
―――それだけでも俺には充分だとは解っているけれど。

「とも・・・」

『きみ』は、『おれ』の『もの』なのだろうか?
何か違っていると、いつも思考の片隅で繰り返していた。
此処に居るのは、彼女の意志。
彼女と居たいのは、俺の意志。
ともにこうして在るのに、何処か決定的に感じる違和感。

君は。
ちゃんと、俺をみてる?

「・・・とも、え」

みてる?

「ともえ・・・巴・・・巴・・・」



自分のものでなくてもいい。
そうじゃなくて。
みてくれれば、いいんだ。
「巴・・・巴、巴」
・・・繰り返し名を呼ぶと、少し安堵できる。









誰かが、泣いているので。
巴はふらふらとそちらへ歩を進めた。
まだ幼い子が、座り込んで。
膝を抱えて・・・呼んでいる。
誰を?

気になって、自分も膝を折り。
その子供の傍らに座った。
「どうしたの?」
「・・・・・・え」
「なあに?誰を、呼んでるの」
「・・・もえ」
「え・・・?」
「巴」

その子供が勢いよく立ち上がった。
ざあ、と風が吹き抜けて。
赤い土煙と、赤い髪と、赤い血飛沫が巴の身体をすり抜けてゆく。

きこえないの?
きこえないの?
君は、きこえ、ないの?

「何を、おっしゃっているんです・・・」
わからない、と巴は首を振る。
『彼』は哀しげに微笑いながら首を傾げた。

(好きだよ、愛してるよ、傍に居て、ここに居て)
(そうして、俺をそうしておいて、君は・・・裏切るんだ)
(好きだよ、愛してるよ)
(そうしておいて、裏切る)
(好きだよ)
(うらぎ・・・)









「やめて!!」

瞬間視界に飛び込んだのは、驚いて目を丸くしている剣心の顔だった。
とさっと額から濡れ手拭いが落ちて。
やっと巴は自分が倒れて寝込んだことに気付く。
「あ・・・」
乾いた口内から漏れた声が、ざらついていた。
剣心は手拭いを拾い上げ、「大丈夫か?」と巴に問うた。
「・・・はい、すみませんでした」
「いいんだ。
 熱も粗方下がったようだし・・・良かった」

剣心は彼女に背を向けて、ゆっくりと立ち上がった。
小さな家屋の、その床に。
小さな蝋燭が頼り無い火を点し。
草臥れた薄い着物に包まれた小さな彼の背中が。
暗がりへ消え去ろうとした時、無性に怖ろしくなって思わず巴は腕を 伸ばし、彼の裾を掴む。
再度剣心は目を瞠って、振り向いた。
「・・・巴さん」
「いかないで」
「・・・たらいの水を、代えるだけだよ?」
「いかないで―――・・・」

巴の細い身体が、かたかたと震えている。
「寒い、のか?」
剣心が心配そうに、彼女の肩を抱いた。
裾をますます固く握り締めて。
巴は震え続ける。
「いかないで、いかないで、いかないで・・・・・・」
か細い声が、それでも剣心の鼓動を確実に速くさせた。
「どう―――したんだ?」
巴は小さくかぶりを振りながら、彼の胸へ頬を埋めた。
「傍に、居てください。
 わたしを、呼んでください・・・・・・」
「と、もえ・・・」

剣心はそれまで抑えていた衝動を、もはや抑えつけ続けられずに。
あらん限りの力で、巴を抱き竦めた。
巴も指先が白くなるほど、剣心の腕に縋り続ける。







そばにいて
ここにいて

俺を
わたしを

みて―――――――――







叫ぶ心は、同じなのに。
どこかで、なにかが、掛け違う。

抱き締めても、縋っても。
手に入れることが出来ないと・・・もうひとりの自分が嗤う。



それは。
ふたりの行く末の、予感だったのかもしれない。
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