かさかさと小さなモノが動く気配がした。
なんだろう、と顔を上げて部屋の隅を見ると剣心が背中を向けて、あぐらをかいて 座っているだけだ。
俯いて、なにやらウンウンと唸っている。

「あの・・・?」

普段なら気に留めるまでもない仕草なのだが、どこか妙に引っ掛かって 巴は躊躇いがちに声を掛けた。
時折、聞こえてくる『何かの気配』も気に掛かる。

「あの?」

先程の呼びかけに気付かなかったようなので、巴はもう一度剣心に声を掛けた。
ピクリ、と彼の赤毛が揺れて、ゆっくりと細面の顔がこちらを向く。
「な・・・何?」
身体は部屋の隅を向いたまま、窮屈そうに顔だけを巴の方に 向けて、剣心はぎこちなく笑った。

「・・・・・・」
巴は押し黙ったまま、暫し剣心を見つめていたが、 いきなりするりと立ち上がって近づいてきた。
彼女がそんな動きをするとは思いも寄らなかった剣心は、わたわたと 脚を崩して逃げようとしたが、間に合わない。

「・・・・・・」
彼の懐あたりを覗き込んで、巴は其処に小さな箱を認めた。
剣心は観念したように溜息をつく。
「何ですか?それは」
ゆっくりと瞬きしながら、巴は黒曜石のような瞳を剣心に向けた。

両手の中に収まる古びた和紙の箱を見て、能面のような巴の顔を見て。
剣心は漸く答を告げた。
「クモ」
「くも?」
「・・・子供達と遊んでて・・・」
剣心はゆっくりと蓋を持ち上げて、その正体を巴に明かした。
「・・・・・・」
微かに目を瞠って、すすっと後退りをする。

「蜘蛛!?」

箱の中身の正体は、黒と黄色の斑模様の、小さな蜘蛛一匹だった。
やはり得意ではないのだろう。
彼女は数歩剣心から離れたまま、白い顔をやや蒼くしている。

「ご、ごめん!
 今蜘蛛相撲してて。
 これ一応俺の分なんだ」
慌てて蓋を閉めて、剣心は部屋の隅にその箱を置くと居住まいを正して 頭を下げる。
「ごめん!!
 やっぱり嫌い・・・だよな」

巴は、いきなり苦手な生き物を見たおかげで全身が緊張していたが、 ぺこぺこと頭を下げる剣心の姿が微笑ましくて、小さく笑った。
「・・・全く。
 子供達と嫌々遊んでいるように見えてその実、楽しんでらしたんですね」
ぱっと顔を上げた剣心は、やや頬を赤らめながら、ばつが悪そうに視線を彼女から 逸らした。
「あ・・・ああ、えっと、俺、さ。
 考えたら似たような歳の仲間達と遊んだことがなかったから・・・」
ふうと軽く溜息をついて、巴はふるふると頭(かぶり)を振った。
「いえ。
 怒ってないですよ。
 なんとなくそうなんだろう、と解ってましたし。
 何よりあなたは・・・ちゃんと笑うようになりましたから」
「ああ、それは―――」
剣心は安心したように肩を落として、ふわりと笑った。
「それは、巴さんのおかげだよ」

年相応の、その笑顔に巴は微かな胸の痛みを感じる。






―――わたしには、まだ出来ないのに。



人殺しのあなたが、







何故笑えるの?







どうしようもなく、羨ましかった。
どうしようもなく、妬ましかった。
どうしようもなく

愛しかった。



貴男の、深い深い、誰にも触れさせることのない、
貴男自身すら気付いていない、
真っ白な、その魂(たま)を






踏みにじりたい。






「巴さん・・・?」
不意に口を噤んでしまった巴の顔を、不安げに剣心は覗き込んだ。
唐突に現れた、薄い瞳にびくりとして、巴は我に返る。
「いえ。
 何でもないんです」
剣心は眉をやや寄せたが、徐に彼女の右手首を掴んで持ち上げた。
「?」
「・・・ちょっと熱い」
「そ、そうですか?」
「昨夜からそうじゃないかなって思ってたんだ」

剣心は巴の軽く握られた手の平を開いて、それに己の手の平を重ね合わせる。
「やっぱり・・・、
 慣れない事が続いたから、疲れてるんだよ」

―――ひんやり低い彼の体温に、先程の己の裡の闇が、吸い込まれてゆくような気がする。
何度も何度も洗い落とそうとした血の痕は、もう彼には視えないのだろうか?
巴は彼の細くて、ややかさついた指から視線を外せなかった。
「―――・・・」
剣心は、重なったふたりの手と、それを凝視する巴の顔を交互に見た。
声を掛けようかと思ったがすぐに思い直して、右手を彼女の為すがままにさせて、 空いていたもう片方の手をゆっくりと動かした。
隙間風が、彼女のほつれた黒髪を揺らす。
今日は付けていないはずの白梅香が、薄く漂ってくる気がして軽く目蓋を伏せた。
そして僅かに唇を開き、吐息を漏らす。

冷たかった剣心の手が、すいと熱を帯びた気がして、やっと巴は訝しげに視線を上げた。
先程まで彼女のそれと重ね合わされたそれが、くいと彼女の肩を掴んで。
身体ごと引き寄せられる。
剣心は項にかかる彼女の息が、思った以上に熱を持っていることに 驚きながら、それに欲情している自分を感じた。

かさ

小さな箱の、小さな生き物が動いて。
反射的に彼女は剣心に縋り付く。
袂がはだけて、すらりと顕れた腕が、とても白い。
・・・小さな彼女の頭蓋を抑え込むようにして口付ける。
熱い息を、舌で絡めるように吸い上げた。
深い接吻に溺れながら、巴はぼんやりと己の両手首を見遣った。

剣心が気付くことのない、枷が、彼女の両手首には嵌っている。

憎い。
愛しい。

どうしてあなたは。
どうしてあなたが。

抜刀斎なのか――――――・・・・・・

キリキリと締め付けるように、腕に力を込める。
それでも彼にとっては彼女の力は『少し痛い』くらいなのだろう。
僅かに首を捻って、漸く唇を離しただけだ。



「・・・あなたは」
「何?」
「あなたは、わたしのおかげで笑うことが出来ると言ったけれど」
「うん」
「本当は」
「何?」
「初めから、笑うことが出来る癖に、忘れていただけなんです。
 ・・・・そう、思います」
「そう、かな」
「だから」
「何?」
「だ、から・・・、時々どうしようもなく胸が灼けます。
 わたしには出来ないから」

巴は胸を押さえて、俯いた。



わたしは、あなたを騙しました。
わたしは、あなたが死ねばいいと思いました。
わたしが、ちゃんと行動していれば
あの人は、死ぬこともなく。

わたしは、そのことに目を背けたまま
あなたを憎み。
あなたを。
あなた、を・・・・・・





「違うよ」
項垂れた彼女の肩を抱き込んで、剣心は囁く。
「違うよ。
 俺に、たくさんの大切なことを気付かせてくれた。
 笑うのが苦手でも、君は綺麗だ。
 俺を豊かにしてくれるのは君で、君はとても」

巴は聞きたくないように耳を塞ぐ。
抱き込む腕に力を込めて。
剣心は囁く。
「綺麗だ」

彼女の熱い額を自分の左頬に引き寄せて、剣心は想う。
あの、橋の上で。
差し出した彼の手を取ってくれた彼女を。
赤い夕陽で、赤く色づいた着物と、赤く染まった彼女の顔を。

(君だけは、斬らない)
(深く考えることを放棄したまま、斬り続けた俺の)
(・・・やらねばならないこと)
(守る)
(君を守る)
(君が教えてくれた、本当に守るべき人たちを)

まだ若くて未熟な彼は、その力が自分にあると思い込んでいた。
その誓いが、純粋な故に彼女を追いつめていることも知らないまま。

巴は唇を震わせて、静かに泣いた。
「わ、たしは・・・」

違う。
わたしには、あなたの言っている『綺麗』じゃない。
わたしは迷い続けている。
あなたを傷つけることを、恐れている。
そして自分がどうすればいいのか、解らない。
わたしを、そんな風に・・・見ないで。



剣心は思い出したように微笑むと「もう休んだ方がいい」と巴をその 腕(かいな)から解放した。
意識しないまま引き止めて、崩れるように巴は彼の胸にしがみつく。
剣心はびっくりしたように目を丸くしたが、直ぐさまそれを細めて 再び情欲に支配された。



そして、ふたりとも気付かない。



己に科したつもりの枷を、実は相手に嵌めてしまっていることに。
幻の枷で拘束された不自由なその手で
相手の枷を外そうとする
・・・愚かさに。
[るろ剣 Index]