京のはずれの農村で剣心と暮らし始めて 最初に困ったことは食材の少なさだった。
もともと貧乏とはいえ、大概の食材が手に入る江戸では その日の食事を作るのに苦労したことはなかった。
だがここではそうもいかない。
巴は見たこともない野菜や、木の実を見つめて途方に暮れた。

「・・・多分、食べても大丈夫だろうけど・・・」

灰汁抜きはした方がいいだろうか?
昨日は茹ですぎて大失敗だったし・・・

そんなことを考えていると

「こんにちはぁ」

と、近くの農家の娘がひょっこり顔を出した。

「え・・・と、おしのちゃん、?」

戸惑う巴を気にも止めず、おしのと呼ばれた少女は さっと土間に荷物を置く。

「これ、かあちゃんがもってけって。
 検さんと巴さんは越してきたばかりで 何にも揃ってないだろうからって」

「まあ・・・、どうもありがとうございます」

人の好意にあまり慣れてない彼女は、それでも丁寧に頭を下げることを 忘れなかった。
おしのはぶんぶんと手を振りながら、明るく笑う。

「いいの、いいの。
 この辺さ、若い人少ないし。
 検さん、かっこいいしね」

一瞬、巴の表情が固まったようだった。
だが、感情を人に悟られにくい彼女のこと、 おしのはそれに気付かないようだ。

「じゃね」

来たときと同じように明るく去ってゆく。
巴は我に返り、その後ろ姿にまた頭を下げた。




「へえ、おしのちゃん親子がわざわざ食べ物を?」

その日の夕餉時、巴がおしののことを話すとあどけない顔をして剣心が答えた。
時折彼が見せる子供っぽさが巴は好きだった。
ここに来てどんどん新しい表情を彼は覚えてゆく。
少しばかり羨ましく思いながら、巴は彼の言葉に頷いた。

「おばさんにはこの村のことをいろいろ教えてもらったし、 本当に助かります」

「おばさんも、おしのちゃんも親切な人で良かった」

剣心は安心したように、笑う。
巴はふと、胸のざわめきを感じた。
剣心とおしのの笑い方がとても似ているような気がして。

「どうした?」

黙りこくった巴に剣心が問いかけた。

「・・・何でもありません」

もやもやしたものを振り払うように軽く巴は首を動かして立ち上がろうとした。
そしてなにかに躓いたようにふいに体勢を崩した。

「巴っ」

瞬時に剣心が支えたおかげで事なきを得たが その時触れあったお互いの指先に二人ともはっとする。

「すいません・・・」

巴が顔を赤くしながら引っ込めようとした右手を 剣心は離さない。

「あの・・・」

巴が左手でそれを何度か押し返して、初めて気付いたように剣心は ようやく握った手を離す。
巴はそそくさと頬に降りかかった幾本かの髪を耳にかけて 改めて立ち上がった。
華奢な彼女のその背中を見ながら剣心は赤茶けた前髪を くしゃりと掻き上げる。

「巴・・さん」

「はい?」

振り返った巴の顔はもう冷静さを取り戻したようだ。

「薬草集めも一段落したし、
 明日からは・・・ちゃんと俺も家のこと手伝うから。
 一緒に、・・・やろう」

―――頷く巴が少し嬉しそうだと、近頃剣心は解るようになった。





がなり立てる蝉の声。
むせ返る畦道をおしのは軽やかに駆けてゆく。

「検さん!!」

にっこりと笑って畑仕事を一休みしている剣心の元へ近づいた。

「ね、お昼一緒に食べよう」

そう言って彼の手を取る。
有り体に言えば、得体の知れない自分たちにこうまで 無邪気に接してくる彼女に剣心は少々面食らっている。
それでも微笑みながらやんわりと剣心は答えた。

「巴さんが用意してくれてるから・・・」

「巴・・・さん?」

意味ありげに笑って、おしのは無造作に束ねてある髪をいじった。
すっと剣心の前に顔を突き出して小首を傾げる。

「・・・まだまだ他人行儀なんだね」

「え・・・」

何と答えていいやら解らずに剣心は言葉に詰まった。
おしのの、陽に焼けた肌が汗で光っている。
そういえば巴はあまり汗をかかないな、と関係のないことを頭は思考している。

「ね、ふたりはどうやって知り合ったの?」

興味津々でおしのは訊ねた。
この村で剣心達は確かに浮いた存在だった。
年寄りは警戒し、大人は表面上は分け隔てなく接してくる。
子供は関係なく遊びに来たが、これほど好奇心を露わにしたのは おしのが初めてだった。

「どうやって・・・って・・・」

記憶を掘り起こす剣心の前に、深紅の幕が視えた。



あれは血の色。
血に彩られた巴の小袖。
血の染みついた自分の右手。
さっきまで生きていた、人の形骸。

―――それが、出逢い。



きゅっ

いきなりおしのは剣心の髪を引っ張った。

「怖い顔してるよ」

「・・・あ、ああ・・・」

さっきまで錆びた血の臭いがしていた。
こんなに強い草の香りの中で。

「かあちゃんがね、あのふたりはきっといろいろあったんだって 言ってた。
 あたしがちょろちょろ纏わり付くのは考えものだって」

膝を抱えて、おしのは独白するように喋る。
何も言えずに剣心は彼女を見ていた。

「でも、・・・」

おしのは立ち上がった。
お尻の草を払いながら、また笑う。

「でも?」

「・・・ここからは、内緒。
 ほら、巴さんが呼びに来てるし」

畦の向こうに巴が立っていた。
あの、漆黒の瞳でこちらを見ている。

「じゃね」

くるりと背中を向けてまた駆けてゆく。
訳が解らずに剣心はそれを見送るばかりだった。





「・・・随分お話が弾んでいるようでしたね」

昼餉の時、巴は無表情で訊いてきた。
だがその奥底に刺々しいものを感じて 剣心はろくろく食べ物が喉を通らない。

「・・・勝手に何かしゃべっていくんだ。
 俺だって・・・面食らってる・・・」

辛うじてそれだけ言うとそそくさと食べ終えて 立ち上がる。

「・・・巴サン・・・」

「・・・はい・・・」

少しは妬いてくれているだろうかと、気になって 剣心は声を掛けた。
その真意が判ってないようで巴はじっと次の言葉を 待っている。
単刀直入に訊くのは気が引けるので剣心は遠回しに質問した。

「・・・あんな娘(こ)にでも、俺達は不自然な夫婦にみえるのかな?」

巴は何も言わずに困ったような瞳をした。
剣心は答えても答えなくてもいい、といった風に さり気なく家を出て畑へ戻っていった。

ざく、と鍬をいれては剣心は先程のことを思い返す。

「・・・俺の言いたいこと、解ってくれたかな?」

そうひとり愚痴てはやるせなく首を振る。
ちゃんと、お互いを理解して祝言を挙げたわけではない。
例えば、剣心は彼女のことを何も知らないし、 剣心は彼女に何もかも話しているわけではない。
それでも自分は彼女が必要だと思ったし、 傍に居て欲しいと思った。
そして巴も。

「でもはっきりと訊いた訳じゃないし・・・」

そもそも、何かが抜け落ちていた。
二人で楽しく町を歩いたわけでもないし、 誰もいないところで睦まじくしていたわけでもない。
ただ、ひとつの部屋にふたりでいて、とても居心地がよかったから―――

「おしのちゃんが訝るのも当たり前か」

自分はそのつもりでも、彼と巴は本当の夫婦らしいことは なにひとつないのだから。

―――夕刻が近づいてくる。





「・・・不自然な・・・夫婦・・・?」

巴は昼間の剣心の言葉をぼんやりと繰り返した。

そうだ、自分たちは極めて不自然だ。
私は彼の生命を奪うために彼に近づいて、そして惹かれて。
彼が“一緒に”と言ってくれたのをいいことに 自分の迷いに蓋をした。
だから素直に接することもできなくて それが苛立ちになったり、落ち込む原因になったり。
それでもやはり蓋は開けないで 本来自分は感情の表れにくい人間だから、とこじつけた。
剣心にも少なからずそれは伝わってしまうのに。

・・・おしのが二人の不安を形にしてしまっている。
どうしよう・・・・・・

答えが出ないまま、巴は夕餉の支度にかかった。




辺りが夕闇に包まれてきた。
赤い夕陽に目をやって、剣心はそろそろ帰り支度を始める。
腰を屈めた彼の前を、すいっと何かが通り過ぎた。
思わず振り返ると、そこには無数の赤蜻蛉が舞っていた。

「・・・・・・」

山を染め上げている太陽と同じ色をした、小さな生き物は 幾つも幾つも剣心と同じ目線の高さを飛び回って、 何度も彼にぶつかりそうになった。

背後に気配を感じて、振り返ると そこに巴が立っていた。
剣心と同じように蜻蛉を見つめている。
彼が自分に気付いたことを知ると微かに 笑みを浮かべたようだった。

「綺麗だと思いますか?」

隣りに立って、巴は小さな声でそう訊いた。
夕陽に照らされて、ほんのり色づいている彼女の顔の方が 綺麗だと思いながら剣心は再び蜻蛉の方へ目を遣った。

「う・・・ん、そうだね。
 でも・・・」

「でも?」

「あんまり綺麗なモノは苦手なんだ。
 なんだか気圧されてしまって」

初めて逢った日の君の瞳はすごく綺麗だった。
綺麗で、哀しくて、不思議だった。
その時から惹かれていたのかも知れない。
なのに今、こうして君が傍にいてくれるのに 相変わらず自分はどこかに苦手意識を抱えていて。

「・・・私も苦手なんです」

「・・・・・・」

「小さい頃はたくさんの蜻蛉を見て、なんだかはしゃいでしまって。
 幾つも幾つも捕まえてはあんな頼りなくて薄い羽を無造作に摘んでしまっ て・・・飛べなくなってしまった蜻蛉をそのままにして。
 子供のやることだから、と思うでしょうけど今になって自分が残酷だった事 が気持ち悪いんです。
 ・・・だから・・・今は苦手・・・」

剣心はぽりぽりと頭を掻いて、不意に巴の手を取った。
動揺した巴の白い頬に髪がぱらりと落ちた。

「だから、俺もことも苦手?」

「・・・え?」

「君がこんな田舎にまで俺に付いてきてくれたのは、俺が君を必要としたから
 で ・・・だけど君には憐憫の情しかなくて。
 それで、俺に残酷な事をしていると思ってるのか?」

そのままぐいと腕を引いて、巴の身体ごと抱きしめる。

「―――でも俺はやっぱりまだ子供なんだ。
 君がこうしてこの腕の中に居てくれるだけで、嬉しい」

とくとくと、彼の鼓動が聴こえた。
前にこうして彼の音を聴いたのはいつだっただろう。
巴は抱きしめてくれる剣心の背中に手を回してぎゅっと着物を掴んだ。
瞳を閉じて、もう一度彼の音を聴く。

「・・・違います。
 好きだから、怖いんです」


小さな声。
でもそれは確かに剣心に届く。

力を弛めて、彼女の顔を覗き込んだ。
普段、白い彼女の肌がほんのり紅く染まってかわいいと思う。
額と額を合わせて剣心は笑った。

「・・・じゃ、俺達は変な風に遠回りしてお互いを見てたんだ」

「ええ」

「今からは、間違えないようにする」

「・・・私も」



温かな感情の中で一筋、巴には冷たい流れがある。

私は貴男を騙している。
私はまだ、迷っている。
私は、あなたもあのひとも、裏切っている。

・・・・・・でもいつか。
その時は。
今度は間違わない。

きっと――――――



夕陽はますます空を鮮やかに染め上げて、無数の赤蜻蛉も目を凝らさなければ 周囲の色に溶け込んでしまうほどだった。
二人は互いの手を握りあって、家路に着いた。







「おしのちゃん、隣の村へお嫁に行ったって」

田を挟んだ向かいの農家の女性が巴に話しかけた。
川で野菜を洗っていた巴が驚いて、顔を上げる。

「いきなりだったからね、あたしらも驚いてるよ」

用事を済ませて、足早に女性は帰っていく。
巴は暫く動けなかったがふるふると頭を振ってまた野菜を洗い始めた。


・・・・・・あの娘(こ)は、彼が好きだったんじゃないかしら・・・

おしのは時々、挑戦的な瞳で巴を見ていた。
時々、淋しそうだった。

知らない内に巴はおしのを傷つけていたのかも知れない。




「ごめんなさい。でも、きっとちゃんと選ぶから・・・・・」

囁くように呟いて、巴は洗い籠を持ち上げた。



すいっと川面を赤蜻蛉が通り過ぎた。
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